亀と珈琲

三谷銀屋

亀と珈琲

 ちゃぷちゃぷ……。微かな水音が耳に届いた気がした。

 鮮やかなモスグリーンの水が揺らめいている。

 何かいるのか。私は目を凝らす。しかし、深い濁りに覆われた水の向こうには何も見えはしない。ただ気配だけがあった。

 横幅五十センチ程の、苔だらけの汚れ切った水槽。もしこの中で「何か」が飼われているのだとしたら、こんなに可哀想な事はない、と思う。それとも、光も人の視線も届かない濁りの底で身を潜めていた方がその「何か」にとっては落ち着くのだろうか?

 そんな事に思いを巡らしながら、私ははっとする。他人の家の前に佇んで玄関前に置かれた水槽をじっと覗き込んでいる……そんな自分の不審者ぶりに急に思い至り、思わず辺りを見回した。

 幸いな事に誰もいなかった。

 穏やかに晴れた青い空の下、息苦しい程の静寂だけがある。

――昔はあんなに賑やかだったのに。

 私は過ぎし日々を懐かしみながら、水槽の置かれた家の前をゆっくりと離れた。表札に「風野」と書かれているのを横目でちらりと確認しながら。

――あいつの苗字……カゼノ、だったっけ? としちゃんっていつも呼んでたからなぁ。としちゃんの親父さんのこともオジサンとしか呼んでなかったし。まだここに住んでるのかな?

 この家には私の幼馴染が住んでいた。苔むして打ち捨てられたかのようなあの水槽がまだここにあるということは、少なくとも家族の誰かはまだこの家にいるのだろう。三十年前、としちゃんはあの水槽で一匹のクサガメを飼っていたのだった。当時は水槽もピカピカで、水も毎日替えていたから綺麗に透き通っていたと記憶している。

 日が射さず、薄暗く、湿った路地を道なりに十数歩進み、すぐに商店街のメインストリートに出た。

 商店街と言っても今や開いている店を見つけるのが難しい程の寂れたシャッター商店街だ。

 かつての賑わいを形作っていた店舗の化石達がひっそりと時を止めたように佇んでいる。辻畑貴金属店、ホシミ洋菓子店、テーラースミクラ、焼鳥やまと、新田理容店、ファッションプラザオノムラ、白石精肉店……私は錆びついたシャッターの上に掲げられた懐かしい店名達にひとつひとつ目を向けた。

 時代の趨勢に加えて、駅前に大型ショッピングモールが建設されてから久しいことも考えると仕方がないこととはいえ、この廃れ具合は私の想像を遥かに超えたものだった。

 出張でかつての故郷の近くに来たついでに、何気なく思い出の商店街にまで足を伸ばしてみたはよいものの、これではまるで浦島太郎だ。

 私は自分の中のショックと動揺から目を背けるように口を真一文字に結んで歩き続けた。

 この先にかつて「お食事処みやまる」という店があったはずだ。とりあえずそこまで歩いてみよう、と思っていた。そこは私が十歳まで過ごした家でもある。一階が父が経営する食堂で、我々家族は二階のこじんまりとした居住スペースで暮らしていた。そして、としちゃんのお父さんは「お食事処みやまる」の従業員だった。その縁で私ととしちゃんとはまるで兄弟のようによく遊んでいたものだった。

「世界は亀の甲羅の上にあるんだ」

 としちゃんの言葉が蘇る。

 としちゃんは飼っているクサガメに「セカイ」という名前を付けていた。

 世界が亀の上に……というのがインド神話に由来しているということは、私は大人になってから知った。

 としちゃんは私と同じ年齢だったが、本をよく読み、博識な子だったのだ。

 商店街の出口が近づいてくる。確か「お食事処みやまる」はこの辺りだったはずだ。

 私は足を止めた。

「へえ……」

 思わず声が出ていた。

 私の父は私が十歳の頃に店を畳み、我が家は遠方へ引っ越した。だから当時の店構えがそのまま残っているはずはない、とは分かっている。

 けれど、それは周囲からあまりにも「浮いた」光景過ぎて、私はしばし唖然としたのだった。

 木目模様に彩られた飴色の扉。ガラス窓の向こうは橙色の暖かな光に満ち、店の前に立てかけられた黒板には力強い筆跡で、コーヒー五百円、紅茶四百円、サンドイッチセット七五〇円……等のメニューが書き綴られている。さらに、扉の上、紺色の金属製の看板には、派手すぎない程度の金文字で「Cafe wind」……流れるような筆記体だ。

 時の彼方に打ち捨てられたようなこのシャッター商店街に突然こんなに洒落たカフェが現れるとは……。しかも、私がかつて子供時代を過ごした「お食事処みやまる」の跡地に。

 私は躊躇うことなくCafe wind の扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 低く優しげな男性の声が出迎える。香ばしい珈琲の香りが私を包み込んだ。店主はスキンヘッドの長身の大男だった。

 私は少し怯みつつも「お好きなお席にどうぞ」という言葉に従って席に座る。客は私しかいなかった。腹が減っていたのでサンドイッチセットを頼んだ。店主は私の前にお冷を置き注文を復唱したが、なぜかなかなか立ち去ろうとしない。おや、と思って私は顔を上げた。店主と真っ直ぐに目が合った。店主は口元にニヤッと意味ありげな笑みを浮かべる。

「もし間違いでしたら失礼ですけど……たけおちゃん?」

「ああ!」

 私は声を上げた。

「としちゃんか!」

 すっかり禿げ上がってしまったのですぐに気がつけなかったが、こうやって間近で見ると確かに面影があった。

「いやあ、びっくりしたよ! 仕事で偶然この近くに来たから立ち寄ったんだけど……ここにこんなお洒落なカフェがあるなんてって意外に思ってさ。入ってみて良かったよ。本当に久しぶりだなぁ、としちゃん!」

「はははは……びっくりしたのはこっちの方だよ。まさか、たけおちゃんが来てくれるなんて思ってもみなかった! 三十年ぶりかな。でも、すぐに気がついたよ、たけおちゃんだって。俺の方はまぁこんな頭になっちゃったからさ、分からなかっただろ?」

 としちゃんは自分の頭をつるりと撫でて快活に笑った。

「この店、長いの?」

「いいや、二年前に始めたばかり。俺も長い間この街からは離れていたんだけどね。数年前に離婚してから妙に里心が付いちゃって実家に戻ってきたんだよ。そうしたらこの有様だろう? 地域貢献じゃないけど、この街が少しでも活気を取り戻してくれればいいと思ってカフェを始めてみたんだよ」

「そうだったのか……」

 すごいなぁ、としちゃんは。三十年の間にいろいろ苦労もあったんだろうけど、やっぱり行動力がある……。私はそんなことを心の内で呟きながら改めて店内を見渡した。そこで、カウンター席の上に一個の水槽が置かれていることに初めて気がついた。透き通った水。陸地がわりに置かれた平たい石。そして、その上で四肢を踏ん張って頭をぐいと持ち上げている大きな亀。

「あれ……もしかしてセカイ?」

「ああ」

 としちゃんは私の視線の先に気がつき、頷いた。

「でもあれは二代目だ」

「二代目……じゃあ俺が知ってるセカイは……」

「うん。残念だけど……」

 としちゃんは一瞬目を伏せる。だが、次の瞬間には、口元に優しい笑みが戻っていた。

「最近は俺もだんだんセカイに似てきたって常連さんに言われるんだよ」

「ははは……」

 私は思わず噴き出してしまった。

 確かに、としちゃんの細くて吊り気味の目、上向きの鼻、そして、綺麗に禿げ上がった頭は、亀に似ていると言われると全くその通りだ。

 カラカラカラカラ……。

 ちょうどその時、入り口の扉に吊るされた鈴が澄んだ音を立てた。

「こんにちはぁ」

「今日は良い天気ねぇ」

 七十代くらいのお婆ちゃん三人組だった。皆、帽子を被っている。黄色のチューリップハット。緑のベレー帽。赤いリボンの麦わら帽子。まるで信号機のような配色だ。

「あら、先客さんがいるのね」

 麦わら帽子が遠慮なしに私に目を止めた。

 視線が一斉に私に注がれる。三人ともどこかで見た顔のような気がした。でもはっきりとは思い出せない。私は曖昧な笑みを浮かべて軽く頭を下げた。

「たけおちゃんだよ。お食事処みやまるの」

 三人はきゃあ! と歓声を上げた。

「たけおちゃんかい」

「たけおちゃんなのね」

「たけおちゃんだわぁ。大きくなって!」

「もうすっかりオジサンねぇ」

 三人は私に断ることもなく、同じテーブルに着く。蜂の巣を突いたような騒ぎが始まった。

 黄色のチューリップハットは辻畑貴金属店のキョウコさん、緑のベレー帽はファッションプラザオノムラのシノさん、赤いリボンの麦わら帽子は新田理容店のサユリさんだった。話しているうちにかつての彼女達の存在が私の記憶の底から浮上してくる。三人とも少年時代の私をとても可愛がってくれ、いたずらをした時には、他人の子供なのにも関わらず厳しく叱ってくれもした。ここは、良くも悪くも、そういう昔ながらの面倒見の良さとおせっかいが生きていた街だったのだ。

 彼女達は、誰それが結婚した、子ができた、どこの店が立ち退いて行った……等も含め、駅前の再開発以降、商店街がいかに急速に寂れていったのかを口々に喋り立てた。私は目の前に置かれたサンドイッチを頬張り、香ばしい珈琲を啜りながら彼女らのけたたましいおしゃべりに相槌を打つ。彼女達が誰も帽子を取らないことを奇妙に思いながら。

「でもねぇ、良かったよ。としちゃんの喫茶店が出来て」

「そうねぇ、本当に!」

「蘇ったんだもんねぇ、商店街が」

 大袈裟に言っているのだ、と思った。蘇ったどころか、うら寂しい化石の街なのだ。彼女達の店も錆びついたシャッターを下ろしていたではないか。としちゃんには悪いが、洒落たカフェがひとつできたくらいでは昔と同じような賑わいはもう戻ってこないだろう。

「たけおちゃん。あんたも良かったねぇ! としちゃんの珈琲飲んだもんね」

「ええ……とても美味しかったです」

 私は笑って頷く。珈琲もサンドイッチも本当に美味しいと思った。

「ここに来てそれ飲んだらねぇ、あんたもあたし達の仲間だよ」

「世界は亀の上にあるんだもんね」

「それがよく分かるのよねぇ、珈琲を飲むと。大事なのはね、亀よ、亀」

 話がよく見えなくなった。としちゃんの亀……セカイの事を話しているのだろうか?

「そろそろ時間よぉ」

「あら、そうねぇ」

「たけおちゃん、あんたもそろそろよ。表に出てごらんなさいな」

 そう言って三人は、各々、自分の頭に手をやる。帽子を脱いだ。つるっとした三つの坊主頭が姿を現す。私はびっくりして、思わず口に含んだ珈琲を噴き出しそうになってしまった。三人はクスクスと笑い、一度帽子で顔を隠した。そうして、イナイイナイバァの要領で再びパッと顔を見せる。私の方に向けられたのは、細くて吊り気味の目、上向きの鼻、薄くて幅広の唇……三人とも同じ顔だ。亀の顔だった。


 私はよろめきながら店を出た。頭がぼんやりする。

 会計の時に「また来てくれよな」と言ったとしちゃんの穏やかな声がまだ耳の底に残っていた。

 日が陰り始めている。くすんだ緑色の光が街を照らし出す。

――え、緑色?

 私はぎょっとした。夕焼けの光なら明るい橙色のはずだ。

 雑踏。ざわめき。そして、揚げ物や焼き鳥等、雑多な食べ物の混じり合った匂い。そんなものが私の五感に押し寄せてきた。頭で何かを考える前に懐かしさで胸がきゅっと痛くなる。

 さっきまで人気の無いシャッター商店街だったのが、いつの間にか全ての店が開き、昔と変わらず営業しているようだった。通りを行き交う人々も賑わいも昔のまま。緑色の空気の中で三十年前の夕刻の光景がありありと再現されていた。

――もしかして……。

 私はゆっくりと後ろを振り返った。

 紺地に白文字で「みやまる」と染め抜いたのれんがはたはたと風にそよいでいるのが視界に入る。

 ど、ど、ど……と、胸の鼓動が速まった。

 ガラスの引き戸は開け放され、コンクリートの床の上に並んだ無骨な木製のテーブルとパイプ椅子がはっきりと見えている。五、六人の客達が皿や丼に顔を突っ込むようにして飯を貪っていた。そして、壁に貼られた手書きのメニュー表。唐揚げ定食、生姜焼き定食、豚キムチ炒め定食、焼き魚定食、天ぷら盛り合わせ、ラーメン、焼きそば……。筆跡は明らかに私の父のものだった。テーブルの間を縫って忙しげに立ち働いている二人の人影も見える。それもやはり私の母ととしちゃんのお父さんに相違なかった。

 Cafe windの影はもうどこにもない。

「なんで……」

 私は掠れる声で呟いていた。

 良かったよ。としちゃんの喫茶店が出来て。そうねぇ、本当に! 蘇ったんだもんねぇ、商店街が。

 キョウコさん、シノさん、サユリさんの声が頭の中で反響していた。

「蘇った」というのはこういうことだったのか。

 たんっ、たんっ、たんっ、たんっ……。

 弾むような軽快な音が響き、お食事処みやまるの外付けの階段が揺れた。小さな人影が二階から階段を一段飛ばしに降りて、往来に飛び出してくる。

 私だ。十歳の私だ。直感的にそう閃いた。徐々に暗さと濃さを増していく緑の空気の中で、もはや姿形もはっきりとは見えない。しかし、間違いなく私自身だ、という確信がなぜかあった。

 子供の「私」はメインストリートを転げるように走っていく。私はその背中を追いかけた。辻畑貴金属店の向かいの路地に入る。目指す先は分かっていた。「私」は風野家の前で立ち止まる。水槽を覗き込んでいた。

 水槽の中は今やねっとりと黒ずんだ液体で満たされている。

「私」はしばらく水槽を見つめた後、おもむろに腕をその中に突っ込んだ。

 ばしゃっ。

 水音が響く。黒い液体の中から一匹の亀が引き摺り出された。セカイだった。

「私」は道の上にセカイを置いた。セカイは石のように動かない。「私」は何かを囃し立ててセカイの甲羅を小突き回す。セカイは仕方ないようにノロノロと動き出した。「私」はセカイを急かすように掌でぐいぐいと押す。

「あ」

「私」は短く声を上げる。いつの間にかセカイの姿が消えていた。いや……道路の脇の側溝の蓋がずれていて、セカイは隙間から溝の底に落ちてしまったのだ。

「私」は足元を覗き込んでいた。

「私」の視界には今何が映っているのか、今の私にはよく分かる。鮮明に記憶が蘇ってくる。

 セカイは甲羅を下にして、首をゆらゆら揺らして、足を不恰好にばたつかせていたのだ。ひっくり返って慌てているのだろうが、亀ゆえに慌て方もゆっくりで、どこか滑稽だったのを覚えている。

「私」はそれを見ている。助けるかどうか考えている。

 この日「私」はとしちゃんと喧嘩をした。だからその腹いせにとしちゃんの大切な亀をこんな目に合わせていたのだった。

――この後、どうしたんだっけ、俺は……。うまく思い出せない。セカイを助けたのか……それとも……。

 私は懸命に記憶の糸を手繰ろうとした。けれどもそれより早く「私」はすくっと立ち上がっていた。ずれていた側溝の蓋はぴしりと隙間なく直されている。そうだ……私はセカイを助けなかった。

 過去の残酷な行いに震える私の前で「私」はくるりと振り返り、私を見た。

 モスグリーンの濁った空気の向こうで「私」の顔が白く浮かび上がる。

 髪の毛がなくつるりと禿げ上がった頭。細くて吊り気味の目。上向きの鼻。薄くて幅広の唇。それは亀の顔だった。すなわちセカイの顔だった。そして、としちゃんの顔でもある。

 お前がセカイを殺したんだろう。そう言って責めることもせず、ただ無表情に私を見つめている。

 Cafe windで水槽の亀を「二代目だ」と言って目を伏せたとしちゃんの姿が思い浮かぶ。

 息苦しくなった。私が殺してしまったセカイ……。こんな酷いことをしたのに、なぜ私は今まで忘れてしまっていたのだろう?

 視界はいつの間にか暗い抹茶色の濁りで塗りつぶされいた。

 ごぽっ……。

 私の口から吐き出された空気は泡となって私の頭上へとこぽこぽと上っていく。

 いつの間にか私は、打ち捨てられた古い水槽の中、濁った水の底に沈む一匹の亀となっていたのだった。


 私が商店街に赴き白昼夢のような体験をした半年後、件の商店街は解体され、更地にされることが決まった。跡地には巨大なタワーマンションが建設される予定だ。

 私が勤める会社はあの地区の再開発を担っている。

 私は昔ながらの商店街の保存と再生に繋がるようなプランを提言してみたものの、あえなく却下された。社内で逆風を受けてまでも自分の意見を押し通す程の熱意は無く、結局、私も商店街の解体案を呑んだ。

 私は私の大切な世界をまたしても見殺しにしてしまったのだった。

 そして、商店街の解体に先立ち、Cafe windも閉店したことを後になって知った。店主の風野敏行が今何をしているのかは分からない。薄暗い路地裏の小さな家にまだ住んでいるのだろうか? 濁ったモスグリーンの水を湛えた水槽はあのままなのだろうか? あの中には結局何が潜んでいたのか?

 何も分からないまま時は過ぎる。

 何も分からなくても日常は回る。

 やはり私も日常という水槽の澱みの底に暮らす亀なのかもしれない。

 そんな事を思いながら毎朝鏡に向かい、薄くなりつつある自分の頭髪を見つめている。

 そして、その度にいつも私の耳には「また来てくれよな」というとしちゃんの優しい声が蘇るのだった。

 Cafe windでとしちゃんが淹れてくれたあの珈琲が、また、飲みたい。

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亀と珈琲 三谷銀屋 @mitsuyaginnya

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