第10話 まだ、家族。また、家族へ。 ②

「ハナさん。ハナさんは、悪くないです」


 かなえさんが、涙を流しながら叫んだ。


「息子さんとは、それきり会ってないのかい?」


 鼻をすすりながら、のり子さんが静かに言った。


「夫は咲翔を連れて、実家に帰って。あの後、私も夫の実家に行ったのですが。義父に門前払いされてしまいました」


 握りしめた指が、白くなっていく。あの日、ベビーベッドの柵を揺らした時の感覚が、未だに消えずに残っている。たぶん、一生残るだろう。


「咲翔にあの日以来、会ったことはありません。一歳の誕生日に、義母がこっそり写真付きのメールをくれました。もう赤ちゃんって顔じゃなくて、子どもらしい顔をしていて。元気に成長してるんだって、わかったら、私……。安心して」


 言葉が詰まって、上手く出てこなかった。咲翔を抱っこしている感覚が、今もこの両手は覚えている。重さも、感触も、赤ん坊独特の匂いも。


「私がいない方が、咲翔は幸せなんだって、そう思いました」


 ハナは、かなえさんの方へ向き直って、目を真っ直ぐに見つめた。


「かなえさん。颯汰くんのこと、好きですか?」

「え?……もちろん、好きです。大好きです」

「離さないでください。離しちゃ、ダメです。私たちもサポートします。今日みたいに、お話聞きます。休みたい時は、ハナサクカフェに来てください。だから、私みたいに、ならないでください」


 かなえさんが、何度も頷く。頭を垂れて涙を拭った。もう、瞳からは怒りの涙は、流れていなかった。


 彼女は、まだ戻れる。


 初めてかなえさんに会った時、同じ顔をしていると思った。彼女の気持ちがわかると同時に、寂しさも一緒にやってきた。何とかして、力になりたいと思った。


「では、こうしましょう。明日、かなえさんは旦那さんに、お迎えに来てもらう。ハナサクカフェで、十分に話し合ってください」


「わかりました」


 ハナとかなえさんは、お互い見つめあって、それから泣き笑った。


「それじゃ、颯汰くんはあたしが見てるよ」


 ありがとうございます、とハナがのり子さんにお礼を言い、それから櫻子さんを見た。背筋を伸ばして、櫻子さんと向かい合う。


「カフェを、お願いできますか?」

「ハナさんも、行くのね」


 頷いてから、ハナは座ったまま、深くお辞儀をした。


「なんだい、なんだい。ハナさんはどこに行くのさ」

 のり子さんが、不安そうな顔をする。

「今日、夫に会いました」


 ええっ、とのり子さんとかなえさんが同時に声を上げた。


「閉店時間に外へ出たら、夫が立っていました。一人でした」


「ハナさんを連れ戻しに? あたしが気づいてりゃ、一言くらい文句言ってやったのに」


 のり子さんは、悔しそうに言った。その優しさが、嬉しかった。


「話がしたい、と言われました。離婚したいとか、そういう話かもしれません。けれど、怖くなって。何も答えずに、店内へ逃げてしまいました」


 また、私は逃げた。

 ハナは胸を押さえた。


 咲翔に会いたい。でも、私にはその資格がない。ずっと、離れていた母親に会って、咲翔はどう思うだろうか。けれども——。


「最後になっても、いい。咲翔を抱きしめたい。会いたい。会いたいです」


 ハナサクカフェで、働きはじめて、たくさんの親子を見てきた。


 赤ちゃんを見る度、咲翔を想わない日はなかった。柚ちゃんの誕生日の時は、咲翔の一歳を祝えなかった悲しさ、咲翔を初めて抱いた日を、思い出さずにはいられなかった。


「明日、夫に連絡して、会いに行ってきます。勇気を出して、あの時ちゃんと伝えなかったこと、辛かったこと、夫と向き合わなかったこと、全部伝えてきます。その後、必ずハナサクカフェに帰ってきます。かなえさんも、勇気を出して、話し合って下さい。まだ、家族なのですから」


「ハナさんも、まだ家族よ」


 櫻子さんは立ち上がり、パジャマのポケットから手紙を取り出した。


 それは、あの差出人のない手紙だった。 


「勝手なことをして、ごめんなさい。あなたの、旦那様からよ」


 手紙を受け取って、封を開くと、中には写真と小さなメモが入っている。


「咲翔」


 涙が溢れた。あたたかい涙が、いっぱいあふれて、流れていった。


 写真の中の咲翔は、大きくなっている。男の子らしい顔つきだ。笑った顔は、ハナに似ているような気がする。


 手に持っている画用紙には、水色と緑色のクレヨンでくちゃくちゃっと何かを描いている。


 水色と緑色、まだ好きなんだ。ハナは懐かしく思った。


 写真と一緒に同封されていたメモには、『お母さんの絵、だそうです』と書かれていた。


 写真とメモを掻き寄せる。力強く抱きしめた。


 どうして、手離してしまったのだろう。

 どうして、簡単に諦めてしまったのだろう。

 どうして、大切なものを見失ってしまったのだろう。


「お節介ババアと思ってもらって、構わないわ。ハナさんの話を初めて聞いた時から、どうにかしてあげたいと、探偵を雇ったの。それで、旦那様に会いに行ったわ。ハナさんが、どう思っていたのか、今は何をしているのか」


 櫻子さんは手を床について、頭を下げた。


「勝手なことをして、申し訳ありませんでした」

「やめてください。櫻子さんには、感謝しかありません」


 ハナの居場所を作ってくれた。仕事を与えてくれた。いつもそばにいて、力をくれた。そしてもう一度、咲翔に会えるチャンスをくれた。


「ありがとうございます」


 写真とメモを胸に抱いたまま、ハナは深く頭を下げた。

 後悔しても、取り戻せない時間に問いかけても、答えは出ない。


 向き合う時が、きたのだ。





 日曜日。ハナサクカフェは定休日だったが、ドアの看板には「貸切り」と書かれていた。


 ドアを閉める前に、ハナは、かなえさんに手を振った。「がんばって」と小声で言って、ドアを静かに閉めた。


 かなえさんの旦那さんは、朝一番に慌てた様子で、ハナサクカフェにやってきた。のり子さんに小言を言われ、大きい体が縮こまっていた。


 今、二人はカウンター席に座って、お茶を飲んでいる。かなえさんは、笑顔だった。話し合いという雰囲気より、デートをしているような、後ろ姿だった。


 よかった。あの二人はもうきっと、大丈夫。



 ハナは電車に乗った。


 真彦さんは、実家にいなかった。一駅先の街に、住んでいるそうだ。


 車窓から見える街が、流れていく。夏と秋の間。少し、爽やかになってきた空気が、心地よかった。


 駅に着く前に、スマホを取り出して、もう一度住所を確認する。朝、届いた真彦さんからのLINEには、咲翔の写真と『お母さん、待ってます』の言葉があった。


 電車のドアが開いて、ハナは大きく一歩を踏み出した。

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