第9話 まだ、家族。また、家族へ。①

 その日は、全てが完璧だった。


 朝起きた時、寝癖がなかった。朝ごはんの目玉焼きが、いい感じに半熟だった。お店に出す、チーズケーキがうまく焼けた。ハナサクカフェが、いつもより多くの親子で賑わっていた。


 全てが完璧だと、怖くなる。

 その後に、大きな不幸がやって来る気がして。


 そして、その予感は的中するのだ。




 晩御飯を櫻子さんのお家で食べてから、お風呂を借りる。その後、ハナサクカフェへ戻って、寝ようとした時だった。呼び鈴が鳴った。


 心臓が跳ねた。こんな時間に、呼び鈴が鳴るのは初めてだった。


「ハナさん」


 押し殺した声が聞こえて、慌ててドアへ駆け寄った。


「かなえさん」


 抱っこ紐に入った颯汰くんと、リュックを背負ったかなえさんが立っていた。

 九月に入ってもまだ暖かい日が続いていたが、夜は肌寒い。ハナは、急いで二人を中へ招き入れた。


「何か、あったのですか?」


 かなえさんのリュックを受け取りながら、尋ねた。顔色があまり良くなかった。


「旦那と喧嘩になって。飛び出してきちゃいました」

「飛び出して」


 どきりとした。胸の奥を、ぐるぐると火かき棒で、かき混ぜられているような気分になった。思い出したくないことが、蓋をしたはずの深い闇から這い上がってくる。


「ごめんなさい。行く場所がなくて。気がついたらここに」


 ハッと我に返って、ハナは首を振った。かなえさんに座るよう促す。


「いいえ、よく来てくれました。颯汰くんは、眠って?」


 抱っこ紐の中を覗き込むと、颯汰くんはギュッと目を閉じている。


「歩いてるうちに、寝てしまったみたいです」


 かなえさんもとても疲れているようだ。なるべく小声でハナは話した。


「櫻子さんに布団を借りてきます。私の布団でよければ、そこに颯汰くんを寝かせてあげて下さい」


 ハナは「staff only」の看板が下がっている、ドアを開けて説明する。


「この階段を上がってすぐの部屋が、私が使っている部屋です。そこに布団が敷いてあるので、使って下さい」


「でも」


「横に寝かせてあげた方がいいです。それに、布団を持って来るのに、時間がかかりそうなので。かなえさんも休んでいて下さいね」


 少し間をあけて、かなえさんは頷いた。


「櫻子さんのお家はすぐ隣なので、もしかしたら、櫻子さんも付いてきちゃうかもしれません」


 そう言うと、かなえさんもやっと笑顔を見せてくれた。幾分かハナは安堵して、外へ出た。


 櫻子さんは思いの外、夜更かしをしていた。


 お陰で、布団を借りるのにさほど時間はかからなかった。そして、思った通り櫻子さんは「一緒に行くわ」と目を輝かせてついてきた。


「せっかくだから、のりちゃんも呼びましょう」


 と言って、スマホを取り出した。


「孫に教えてもらったのよ」


 ハナの視線に気がついて、櫻子さんはウインクをした。


 櫻子さんは、いつもお茶目な人だ。興味深々で、チャレンジャーで、それでいて優しい。櫻子さんがいるだけで、ハナは救われた気になるのだ。だから、櫻子さんがそばにいてくれることに、ほっとしている。


 布団を何回かにわけて運び、やっと落ち着いた時には、すでにのり子さんが到着していた。


「お騒がせして、すみません」

 かなえさんが頭を下げた。

「いいのよ、勝手についてきたのだから」

 櫻子さんは、ウキウキしていた。

「なんだか修学旅行みたいねぇ!」

「あんまり煩くすると、颯汰くんが起きちゃうだろう!」


 のり子さんは、颯汰くんの横に座り「シー」っと指を口にあてた。


「ねえ、隣の部屋で話しましょう」


 櫻子さんが廊下に出て、こっちと指をさす。隣の部屋は、空き部屋だった。


 四人は、颯汰くんを起こさないように、そうっと枕だけを持って、隣の部屋へ移動した。颯汰くんが寝ている部屋のドアは、開けたままにしておいた。颯汰くんが泣いた時、すぐ対応するためだ。


 ハナは、下のキッチンからカモミールティーを持ってきた。カモミールティーは、月の光みたいな色をしている。


「それで、何があったの? かなえさん、最近いらっしゃらないから、心配していたのよ」


 枕の上に行儀良く座って、櫻子さんは言った。


「ここ最近、颯汰が夜全然、寝てくれなくて。寝たと思ったら、突然泣き叫んで、一時間くらい泣くんです。抱っこしても暴れるし、おっぱいでもないし。夜中に、五回くらい起きるんです」


「五回はツライね。風邪をひいてるわけでもなさそうだし」


 のり子さんは、隣の部屋へ耳を澄ませる。


「今は寝てるみたいだね」

「私、体力も気力も限界なんですけど。旦那さんが、協力してくれなくて」

「男の人は、起きないっていうね、赤ちゃんの泣き声じゃ。脳の作りが女と違うらしいよ」


 かなえさんは、悲しそうな顔をして、溜め息をついた。


「今日、起こしたんです。ツライから、起きてって。始めは抱っこしてくれていたけれど、少し経ったら『明日、仕事だから』って。私、もう無理って言い返したら『赤ちゃんは、泣くもんだろ』って」


 肩が小刻みに震えていた。怒りと憤りと心の悲鳴。ハナには、かなえさんの今の気持ちが、手に取るように理解できた。


「頭にきて。日中、私がどう過ごしてるか、知らないくせに。赤ちゃんと二人きりでいることが、どんなに大変か、知らないくせに」


 かなえさんの頬を涙が走った。怒りを含んだ涙は、真っ直ぐに落ちる。悲しみの涙は、名残惜しそうにゆっくり、落ちていく。かなえさんの涙は、怒りの涙だった。


「あおいちゃんのお父さんが、羨ましいです」

 ぽつりと、かなえさんが呟いた。

「奥さんのこと、娘さんのこと、ちゃんと考えてくれて。うちの旦那は……」


 かなえさんは言いかけて、首を横に振った。


「もう、一人になりたい。何もかも、捨ててしまいたい! 颯汰も、旦那も!」


「それは、ダメです」


 自分でも驚くくらい、怒りに満ちた声で、ハナは言い放った。かなえさんと田辺さんが驚いた顔で、ハナを見ている。


「ダメです。後悔します、絶対」

 次に出た声は、震えるほどか細い声だった。

「ハナさん」


 諭すような櫻子さんの呼びかけに、ハナは一つ頷いた。


「かなえさん。私の話、聞いてもらえますか?」 



 もうすぐ、四年になろうとしている。咲翔さくとが産まれて。


 幸せだった。待ちに待った子ども。

 大切に育てていこうと思った矢先、ハナは産後うつになった。


 気が狂いそうな毎日だった。

 死んでしまおう。咲翔も一緒に。


 いや、咲翔は夫の真彦まさひこさんに預けて。真彦さんは、ちゃんと咲翔を育ててくれるだろうか。


 同じことを何度も、何度も考えた。理由もなく溢れる涙。咲翔と二人きりにしないでくれ、と仕事へ行く真彦さんに泣いて縋ったりもした。


 眠っている咲翔が、いつ泣き出すかと心配で、側を離れることが出来なかった。


 眠ろうとしても、眠ることが出来ず、ただ目を瞑っているだけの日々が続いていた。耳元では絶えず、咲翔が華を呼んで泣く声が響いていた。


 そんな精神状態が続いていたためか、母乳が出なくなった。粉ミルクに変えたことさえ、真彦さんは気がつかなかった。それほど、彼は家にいる時間がなかった。


 咲翔から離れず、毎日を過ごした。たったの五分が、とてつもなく長く感じられた。特に苦痛だったのが、寝かしつけだった。


 上手く眠ることが出来ない赤ちゃんは、眠る前によく泣く。ゆらゆら抱っこしたり、子守唄を歌ってみたり、背中をトントンしてみたり。あらゆることを試した。


 腕の中で寝てくれても、ベッドへおろした瞬間に泣かれることも、少なくなかった。


 咲翔が成長するにつれ、泣き声は大きくなっていく。

 隣人から、怒鳴られはしないだろうか。毎日怯えてすごした。


 泣き止まない咲翔を抱きながら「うるさい! なんで泣くのよ! わかんない!」と泣きながら、大きく背中を叩いたこともあった。


 自分の中に、自分ではない恐ろしい存在がいることに気がつき、震える手で真彦さんにLINEを送った。


『咲翔が泣き止まなくて、虐待しそう』


 返事はすぐに返ってきた。


『咲翔から一旦離れて、気持ちが落ち着くまで別の部屋にいるんだ』


 呆然とした。


 そんなこと、少し調べればわかる。母子手帳にも、ネットにも書いてあるのだから。


 それが、出来れば連絡しない。


 言って欲しい言葉は、それじゃない。華は、スマホを手放した。命綱を手放すように。


「メールはすぐ返せるのに。家にはすぐ帰ってこないのね」

 

 

 日中、テレビをつけておくことが多くなった。誰かの話し声を聞いていないと、孤独に耐えられなかった。


「魔がさす」という言葉がある。


 意味を調べると『悪魔が入りこんだように、一瞬判断や行動を誤る』とある。


 華は、その通りだと思う。


 どんなに善良な人の心にも、悪魔がいる。私は、その悪魔を抑え込むのに必死だ。その悪魔が、咲翔に向いてしまうから。出てこないで、と念じる。たが、咲翔が泣く時間が長くなれば、なるほど、悪魔はジワジワと華を侵食していく。


 テレビのニュースで、母親が逮捕されたと報道された。


 生後八ヶ月の女の子を虐待して、死なせてしまったらしい。ボサボサの髪の毛にすっぴんの母親。その母親と自分の顔が一瞬重なって見えた。


 ああ、この人も同じだ。

 誰も、助けてくれる人がいなかったのね。


 ネット上では、母親が叩かれていた。


 『虐待するなら産むな』


 そのコメントが、目に留まった。


 違う。違うのよ、わかってない。虐待するために、産むわけないじゃない。私だって、子どもが産まれたら、幸せだって、ずっと思って生きてきた。子どもが、赤ちゃんが、大好きだった。


 虐待は仕方ないと言ってる訳ではない。絶対にダメだ。けれど、何故起きてしまうのか、華自身も母親になるまで考えたことがなく、生きてきた。


「ねえ、どうして誰も、父親に触れないの? どうして、母親だけなの?」


 次のニュースを読み始めたアナウンサーに、華は呟いた。



 あの日は、土曜日だった。

 真彦さんは、休日なのに出勤をした。


「少しは、面倒をみてよ」


 閉じたドアに向かって、呪いのように吐き出した。


 咲翔は朝からご機嫌ななめで、抱っこを求めて泣いてばかりいた。華の機嫌が悪いから、咲翔も機嫌が悪いのかもしれないと思い、努めて明るくしなければと、笑顔を作ってみた。


 咲翔が、可愛くない訳ではない。可愛いし、もちろん愛している。だが、その気持ちだけで丸く収まる程、子育ては優しい世界ではない。精神論だけでは、持たないことに、もう華は気がついていた。


 夕方だった。


 咲翔はもう一時間以上、泣き続けていた。ヘトヘトだった。もう、いい加減泣き止んで欲しい。眠って欲しい。夕飯の仕度だって、しないといけないのに。


 胸の奥がザワザワした。


 来る。悪魔が、くる。



 咲翔をベビーベッドに投げるように、寝かせた。咲翔の泣き声は、叫び声に変わった。


「寝なさいよ!」

 華は、咲翔を押さえつける。

「寝ろって、言ってんでしょ!」


 ベビーベッドの柵を掴んで、乱暴に揺さぶった。


「何してるんだ! 華!」

 引き剥がされて、華は振り返り様に、真彦さんを殴った。

「どうして、こういう時だけ、早く帰ってくるわけ?」


 倒れて顔を上げた真彦さんの顔が、怒りに満ちていた。


「いて欲しい時に、いないで、それでも父親?」

「華がしていたことは、虐待だ」

「何も知らないくせに。面倒もみたことないくせに」


 涙が真っ直ぐに、床へ落ちた。


「いらない。あなたも……咲翔も、いらない」


 そのまま、華は家を飛び出した。

 いく場所もない。居場所もない。泣きながら、華は走った。


「ごめんなさい。ごめんね、咲翔。こんなお母さんで、ごめんね」


 しばらく歩き回って、深夜に家に帰った。


 誰もいなかった。

 いなくなっていた。

 真彦さんも、咲翔も。

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