第7話 花束をあなたに! ①
肩まで伸びた髪を、慣れた手つきで、トップから左サイドに向かって、緩く編み込みを作る。一本にまとめて、髪ゴムを隠すように、小さな黄色いリボンをつけた。
佐藤唯は、鏡の前に立った。全身をチェックし、最後に唇にグロスを重ねる。
「うん、よし。行こう、柚」
娘の柚をベビーカーに乗せて、ハナサクカフェへ向かった。
柚はご機嫌なようで、足をパタパタ揺らしているのが見える。その足には、赤い靴。唯がプレゼントした、ファーストシューズだ。
「柚ちゃん、いらっしゃい」
ハナさんが笑顔で迎えてくれた。ここへ来るのは三回目だが、名前を覚えてくれているのが嬉しい。
「今日は保育園、お休みだものね」
店長の櫻子さんが、柚の手を握ってくれる。
「もう、一歳になったの?」
「はい、今週の水曜日に」
唯は、カウンター席に腰をかけた。柚は、子ども用の椅子に座らせる。
本当は誕生日当日、有給をとって、お祝いをしてあげたかったのだけれど、仕事で休む事が出来なかったのだ。
「ハナさん、子どもが食べられるケーキってありますか?」
たぶん無理だろうと思いつつも、ダメ元で唯は尋ねた。
「お誕生日ケーキですね!」
「まあ、お祝いしないと!」
ハナさんがパチンと手を叩き、櫻子さんは小躍りした。
「私ね、一度ここでイベントをしてみたかったのよ」
頰に手を当てて、櫻子さんはうっとりとした。
「そうと決まれば、ハナさん! 柚ちゃんにケーキを!」
勢いよくキッチンを振り返った櫻子さんに、ハナさんは困り顔で微笑んだ。
「ないです、ケーキ」
櫻子さんの表情が、みるみるうちに萎んでいく。
「ない……の……?」
「今日は、ガトーショコラを焼いてしまって……」
唯は申し訳なくなって、やんわりと断った。
「いいんです、いいんです。なければ、他の方法で、お祝いするので」
やっぱり、市販で売っている赤ちゃん用のケーキキットを買って帰ろう。今日は、ここでご飯を一緒に食べて、柚をいっぱい遊ばせてあげよう。
「ダメよ! 柚ちゃんママ!」
櫻子さんは、頬を紅潮させている。
「ほら! ケーキを潰すの流行っているでしょう? 孫から聞いたの! それ、やりましょうよ!」
それって、スマッシュケーキのことかな、と唯は思った。海外で流行り、最近日本でも取り入れている人が増えてきた、お祝いの仕方だ。
赤ちゃんに、手づかみでケーキを自由に食べさせてあげるのだ。ケーキはグシャグシャに壊されてしまうし、勿論、顔や服がケーキだらけになる。だが、その可愛らしい姿を、写真に収めようとする親が増えたことから、流行したのではないかと唯は考える。
「柚ちゃんは、アレルギーありますか? パンとヨーグルト。……オレンジ、バナナは大丈夫ですか?」
ハナさんは少し考えてから、唯に尋ねた。
「アレルギーは今のところはないです。全部食べられます」
「では、少しお時間いただけますか? 買い出しに行ってきますので」
そう言いながら、ハナさんはエプロンを脱いだ。
「ハナさん、大丈夫ですから」
立ち上がって止めようとした唯を、櫻子さんが制する。
「柚ちゃんママ。今日は忙しい? 時間があれば、お祝いさせて、ね?」
櫻子さんは、断固としてお祝いイベントがやりたいようだ。
唯も今日は、柚の誕生日を祝う日と決めていたので、ハナサクカフェでお祝いをしてくれるのならば、ありがたい話だ。
柚の一歳が、沢山の人からお祝いしてもらえるのなら、嬉しい。
「いいですか? 甘えてしまっても」
「もちろんよ!」
そうだ、と櫻子さんが手を叩く。
「パパも呼んだらどうかしら? 今日は土曜日だから、お仕事お休みよね?」
きた。唯は、胸の奥の方がチクリと痛んだのを感じた。
「パパは……いません」
「あら、今日もお仕事なの?」
櫻子さんに悪気はない。わかっている。
「あたし、シングルマザーなんです」
努めて明るく言ったつもりだったが、場の空気が固まっていくのが、手にとるようにわかった。
やっぱり、微妙な雰囲気になるよね。慣れたつもりだったのに。この一年で、慣れたはずだったのに。
今まさにドアを出ようとしていたハナさんが、驚いてこちらを振り返ったのが見えた。
たぶんずっと、これからもこういう空気はついて来るのだと、唯は思った。胸の奥が重い。あの時からずっと、重いのだ。
智也と離婚したのは、妊娠二十六週目の頃だった。
お腹が急激に大きくなり、ポコポコ胎動が感じられるようになってきた頃、アイツの浮気が発覚した。
相手は、スタイリストになる前から、ずっと智也のカットモデルをしていた女の子だった。
ああ、あの子か。
話を聞いて、すぐに顔が浮かんできた。唯も智也と同じお店で、美容師をしていたからだ。妊娠がわかってからは、仕事はお休みをしていた。
「で、どうするの?」と唯が聞くと、智也は小さな声で「唯に任せる」 と言った。
任せるって何だよ。お前がしたことなのに、自分で決められないのか。もっと他に、言うことがあるだろうが。
気分が悪かった。
心の中では、数えきれない罵詈雑言が溢れ出てきたが、それら全てを打つける気力がなかった。一つ溜め息をついてから言った。
「離婚しましょう」
アイツは俯いたまま、頷いただけだった。机の上に置いてあった雑誌で、殴ってやりたかった。
「ねえ、最後に聞かせて。父親としての自覚はあったの?」
痛い沈黙が続いて、アイツは小型犬みたいな目をして、こう言った。
「だって唯、妊娠して変わっちゃったんだもん」
血が出るくらい唇を噛んで、耐えた。実際、血が出ていたかもしれない。
怒りや悲しみや絶望、目の前の男をボコボコにしてやりたい衝動も、全部耐えた。あたしの怒りとか負の感情が、お腹の子に伝わらないか、それだけが心配だった。
「もう、いい」
二度とお前の顔なんか見たくない。お前の為に、涙なんか流してやらない。お前の為に、割く時間が勿体ない。子どもが産まれても、絶対に会わせない。
離婚後に同僚から聞いた話だと、唯が妊娠する前からアイツは、あの女と付き合っていたらしい。一体どこまでクズなのか。
唯は、美容師の仕事を辞めて、全く関係のない事務の仕事を始めた。全ては、お腹の子の為。この子だけが、今のあたしを支えてくれる。
「……それで、一人で出産して、仕事復帰してって感じです」
いつもと同じように、簡潔に説明してみせた。
「一人で育てるって、案外楽なことも多いですよ。なんで私だけって思うこともないし。自分一人しかいないし。まあ、風邪ひいた時は、キツイですけどね」
同情も、質問もいらない。ただ、普通に接してくれればいい。
「そうだったのね。厚かましくて、ごめんなさい」
頭を下げた櫻子さんを見て、唯は我に返った。アイツの話になると、ついイライラした口調になってしまう。
「でも、お祝いはするでしょう?」
顔を上げて、櫻子さんは優しく微笑んだ。
「もちろんです」
唯も笑顔で返す。今日は柚の誕生日会。アイツのことは綺麗さっぱり忘れてしまおう。
「みなさん、ちょっと聞いてください」
櫻子さんが、和室で遊んでいる親子に話しかける。
「突然だけれど、これから柚ちゃんの一歳のお誕生日会をします。お時間がある人は、参加して下さい」
わあっと拍手と歓声があがる。
「私、旦那さんに連絡して、花束持ってきてもらいます」
「まぁ、ゆりさんいいの?」
「じゃあ、わたしは写真とりまーす。飾り付けもしていいですか?」
「流石、元インフルエンザ!」
「だ、か、ら! インフルエンサーです! 田辺さん」
ハナサクカフェが、一気に明るくなった気がした。初めて会う人もいるのに、みんなが協力してくれることが、嬉しかった。
「いっぱい買い物してきちゃって……わあ、可愛い飾り付けですね」
両手に買い物袋をさげて、帰ってきたハナさんが歓声をあげた。
ハナサクカフェの店内は今、こころちゃんのママの指示の元、飾り付けが行われていた。テーマカラーは、柚にちなんで、黄色とオレンジらしい。
画用紙でガーランドや飾りを作ったり、あおいちゃんのパパが、花と一緒に持ってきた風船を膨らませたりで、賑わっている。
子どもたちも、風船を触ってみたり、画用紙を破ってみたりと、それぞれ忙しそうだ。
「なんだか、文化祭みたいですね。そうそう、櫻子さん宛に手紙が届いてましたよ、差出人は書いていなくって」
ハナさんから、手紙を受け取った櫻子さんは、よく見ずにそれをスカートのポケットにしまった。気を取り直したように、ハナさんに向き合う。
「私もケーキ、手伝うわ」
「お菓子やジュースも買ってきてしまいました」
「領収書を後でもらえるかしら?」
二人は並んでケーキ作りを始めた。キッチンも賑わってきた。
「あの、あたしも何かお手伝いを」
唯は申し出たが「主役たちは、手伝わなくていいの」と櫻子さんに言われてしまった。
手持ち無沙汰なので、柚と一緒に和室で遊ぶことにした。おもちゃを見つけて、柚はよちよちと歩いていく。唯も柚が見える位置に腰を下ろした。
「すごい。一歳になると歩けるようになるんですね」
唯の近くで風船を膨らませている、ショートカットの女性に話しかけられた。
「突然歩き始めたので、びっくりしました。今、何ヶ月ですか?」
お母さんにぴたりと寄り添うように、お座りしている男の子。お母さんに似て、賢そうな目をしている。
「六ヶ月です。颯汰っていいます」
「颯汰くん」
柚もこのくらいの時期が、あった気がする。
朝早くに保育園に預けて、夜にお迎えに行って、帰ってきたらお風呂に急いで入れて、寝かしつけて。
二人でいる時間は、多くない。けれど、その分いっぱい甘えさせてきたつもりだ。
「早く歩いて、日本語話して欲しいって、よく思います。馬とか産まれた瞬間に、歩き始めるじゃないですか。人間はどうして、それが出来ないのでしょうね」
面白い事を言う人だな、と唯は笑った。
でも。もし、柚が言葉を話せたら、何て言うのだろうか。
「ママ、さみしい」
「ママ、一緒に遊ぼう」
「ママ、どうしてパパはいないの?」
どうして、と唯は目をギュッと閉じた。
どうして、ネガティブな言葉しか思いつかないのだろう。それだけ柚に対して、罪悪感を持っているからかもしれない。
あたしの選択は、正しかったのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます