第6話 インフルエンサー ②


 美優は、ベビーカーを走らせた。朝は元気だった、はずだ。少なくとも、服を着せた時は、元気だった。


 朝起きてからのこころを思い出してみるが、断片的にしか思い出せなかった。なぜなら、ほとんどの時間を美優は、スマホを見ていたからだ。


 耳元で、自分の悲鳴のような呼吸が聞こえる。走りながら、見覚えのある後ろ姿を見つけて、美優はすがるように叫んだ。


「助けて。ハナさん、助けて!」


 振り返ったハナさんは、美優を見つけて手を振った。だが、すぐに美優の顔を見て、非常事態を悟った。


「美優さん、中へ!」


 半ばパニックになっていた美優は、ベビーカーのまま店内に入ってしまった。


「こころが。ぐったりしていて。体も、熱くて。お茶も飲まない」


 すぐさま、田辺さんが駆け寄り、こころを抱いた。


「なんで今日みたいなジメジメして暑い日に、こんなに着込んでいるんだい! 脱がすよ!」


「保冷剤を持ってきます」


 ハナさんと田辺さんが、慌ただしく動いているなか、美優はただ立ち尽くすことしか出来なかった。


「水分はちゃんと、とっていたのかい?」


 田辺さんに聞かれたが、美優はただ首を振った。


「おしっこは? オムツ替えした時、確認した?」


 わからない。

 こころのこと、後回しにしてたから、わからない。美優はむせび泣いた。


「こころ、死なないで!」

「しっかりしな、インフルエンザ! 軽い熱中症だよ!」


 バシっと強く背中を叩かれ、美優は我に返った。熱中症、と口の中で何回も復唱する。


「インフルエンサーよ、のりちゃん。水枕を持ってきたの、どうかしら?」


 今度は櫻子さんが、美優の背をトンと優しく叩いた。


「涼しいところで体を冷やして、それから水分補給をさせましょう。その後、病院に連れて行きましょうね。大丈夫、落ち着いて」


 なだめるように、優しくゆっくりとした櫻子さんの声に、美優も徐々に落ち着きを取り戻した。


「美優さんも、水分をとって下さい」


 ハナさんが、麦茶を注いでくれた。自動的に口へ運びながらも、体中がガクガク震えていたので、うまく飲めたか自分でもわからなかった。


 ふいに、背中に視線を感じた。


 振り返ると、白い額縁の絵が、静かに美優を見下ろしていた。


 児童は 人として 尊ばれる

 児童は 社会の一員として 重んぜられる

 児童は よい環境の中で 育てられる



 まるでその言葉が、罪状のように美優には思えた。


 神様、ごめんなさい。

 神様、こころを連れていかないで。

 わたし、ちゃんとこころを見ていなかった。

 わたしの見栄のせいで、こころを私物化して。

 離乳食のごはんだって、ちゃんとこころを見ていたら、気がついたことだったのかもしれない。

 不特定多数の誰かの評価や目を気にして、わたし、なんてバカだったのだろう。


「ここちゃん、ごめんね」


 美優はこころを抱き上げ、人目を気にせずその場で授乳した。今度はちゃんと、飲む事が出来た。


 

「すみません、病院までついて来てもらっちゃって」


 美優があまりにも動転していたので、ハナさんが病院まで付き添ってくれたのだ。


「いいんです。初めてのことで、驚いたでしょう?」


「こころは、泣いていたんです。こんなに日差しが出てて暑いのに、厚着させて……。泣いて訴えていたのに、わたしは無視して」


 美優は、声を詰まらせた。自分が情けなく、恥ずかしい。


「美優さんが、写真を撮っている時の顔、とても生き生きとしていて好きですよ」


「……え?」


「どうしたら、被写体が綺麗に映るだろうって、色んな角度から撮ったり、光をみたりしてますよね?」


 美優は戸惑いながらも、頷いた。


「羨ましいです。一つのモノを多方面から見る才能があって。美しい瞬間を探し出すのは、難しいですもの」


「いいえ、見栄っぱりなだけです」


「生きるのに、多少の見栄は必要ですよ」


 ハナさんは、微笑んだ。ハナさんの笑顔は、いつでも、どこか悲しさを含んでいる。


「だから、美優さんはこころちゃんの一番良いところ、見つけられると思います」


 私はここで、と言ってハナさんはお辞儀をした。美優も深く頭を下げた。




 こころが寝た後、暗い部屋で一人、スマホを手に取った。


 もう、いらない。


 美優は、育児アカウントを削除した。それは、数秒で出来た。


 暗い部屋で、目をゆっくり閉じ、耳を傾けてみる。


 すー、すーっと規則正しい寝息が聞こえる。


 こころが生まれてからの八ヶ月間、わたしは一体どこを見ていたのだろう。


 もう、スマホを通して、こころを見るの、やめよう。


 自分が他の誰よりも、優位に立っていると思うのも、やめよう。


 こころの美しいところは、どこだろう。


 外見だけではなく、仕草や内面も。


 こころの成長は、早い。あっという間に、わたしから離れていくだろう。


 その間に、いっぱい、いっぱい、いっぱい。見つけてあげよう。


 暗い部屋で、目を閉じたまま。


 こめかみを涙が伝っていったのを、体温で感じた。

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