第3話 ブルースター ①
あおいを抱っこして歩いていると、よく話しかけられる。
「お父さん、えらいわね」
「赤ちゃんの面倒をみて、えらいですね」と。
決まって、年配の女性に言われる。
初めは褒められることを嬉しく思っていたが、最近は違和感を覚える。自分の子どもを抱っこしているだけなのに、どうして「えらい」のだろうか。
そんなことを考えながら歩いていた時、赤ちゃんの泣き声が聞こえて、永瀬翔太は足を止めた。
「花咲く? カフェ? 赤ちゃんと幼児専用カフェ?」
静かな住宅街の中にカフェがあったとは、知らなかった。外観は一軒家の隠れ家風カフェといった感じだが、アンティーク調のドアにかけられている「Open」の看板には、可愛らしいウサギやクマのキャラクターが描かれている。
ブラブラと散歩していただけだったので、翔太はハナサクカフェに入ってみることにした。
「いらっしゃいませ」
中へ入ると、大きな声で泣いている赤ちゃんがいる。抱っこ紐の中のあおいが、びくっと動いた。
「ご利用は初めて……ですよね。男性のお客様は初めてなので」
若い女性の店員に話しかけられ、翔太は「あ、はい」と頷く。なんだか、かすみ草が似合いそうな女性だなぁとぼんやり思った。
一通り女性からハナサクカフェの説明を受けた後、翔太は和室の部屋で、あおいを遊ばせることにした。遊ばせるといっても、まだ首が座ったばかりなので、寝っ転がっていることしか出来ないが。
「こんにちは」
挨拶され、翔太も会釈を返した。ボブカットのお母さんとその近くでお座りして遊んでいる、女の子の赤ちゃんがいた。
あおいを畳の上に寝かせて、所在無げに辺りを見回していた翔太を見て、ボブカットのお母さんが再度、話しかけてきた。
「可愛いですね。三ヶ月くらいですか? あ、紹介が先ですよね。この子の名前は、さくらです。今、生後七ヶ月です」
「お花の名前ですね。うちの子も花から名前をとって、あおいって言います。生後三ヶ月です」
女性ばかりの場所で緊張していたが、あおいと同じく、花から名前をつけている人に出会えて、親近感がわいた。
ハナサクカフェでは、名前と月齢を書いた名前シールを、子どもの服に貼る決まりとなっている。あおいは、とりあえず胸の上に貼った。
「三ヶ月って、こんなに小さかったかな。もう忘れちゃった。抱っこしてもいいですか?」
さくらちゃんのお母さんが、あおいをあやしてくれる。客はさくらちゃん以外にもう一組いて、先程から泣いている赤ちゃんだ。颯汰くんといって、お母さんにずっと抱っこされている。
「もう一ヶ月もここに通っているのに、全然慣れてくれないの」
颯汰くんのお母さんは、口では文句を言っているのに、表情は明るかった。ショートカットの似合う、木蓮みたいな人だと思った。
春になると咲く木蓮は、木に蝶々がとまっているかのような花だ。白色より紫色の木蓮の方が、この人みたいだ。
「仕方がないわね。田辺のおばちゃんが抱っこしてあげましょうね~」
ゆるいパーマをかけた、近所にいそうなおばちゃんが、颯汰くんを抱っこして背中をトントンと軽く叩いていると、不思議なことに、颯汰くんは大人しくなった。
「さっすが、田辺さん」
さくらちゃんのお母さんが、わあっと声を上げた。
「どうして。何が違うの?」
颯汰くんのお母さんも不思議そうだ。
「フン。子どもを四人産んで育てたのよ、経験値の差だね!」
「四人も……。あたしは、もう一人で十分だわ」
「私も。妊娠も出産の痛みも、もういいわ」
さくらちゃんのお母さんと颯汰くんのお母さんは顔を見合わせて、苦笑いした。
「あら、今日はパパさんがいらっしゃってるの?」
不意に声をかけられ、翔太は声の主を見た。真っ白な髪が素敵な、ポピーのようなおばあさんが、いつのまにか隣に座っていた。
「店長の櫻子です」
手を前について、櫻子さんは挨拶をした。この人の名前も、花の名前がついている、と翔太は嬉しくなった。
「パパのお客様は初めてよね、ハナさん」
かすみ草が似合いそうな女性は、ハナさんという名前だったのか、と更に翔太は嬉しくなる。漢字は「華」だろうか、なんて、どうでも良い考えが頭の中をよぎる。
「えらいわね、パパが面倒をみて」
櫻子さんの言葉に、翔太はその場に引きずり戻された気分になった。
まただ、「えらい」と言われたのは。
「あの、どうして『えらい』のでしょうか?」
翔太の素朴な疑問に、ハナサクカフェにいた女性たちは、互いに顔を見合わせた。
「えらいですよ! うちの旦那なんか、休みの日はお昼まで寝てて、全然面倒みてくれませんから」
さくらちゃんのお母さんは、憤慨した。
「うちの旦那さんは、颯汰と二人っきりで出かけた事なんて、未だにありませんよ。泣かれたらどうしていいか、わからないからって」
颯汰くんのお母さんも、呆れ口調で話す。
「だから、えらいと思いますよ」
うんうん、とさくらちゃんのお母さんも大きく頷いた。
「あれだね、なんとかメン……。イケメンだっけ?」
「のり子さん、イクメンですよ」
「そう、それ! イクメン!」
ハナさんに訂正され、ガハハと大きな声で田辺さんは笑った。
「やあね、あの人。横文字が苦手なのよ」
櫻子さんは不憫ね、と小さく首を横に振って呟いた。
「実は先日、ゆり……奥さんに言われたんです。男の人が羨ましい。ずるい、って」
「まあ、どうして?」
目を丸くして、櫻子さんは尋ねた。
「ぼくにも、どういうことだか、わからないのですが。……そう、ぼくがあおいを抱っこして、奥さんと買い物に行った時に、すれ違った人に言われたんです。『イクメンのお父さんで、素敵ですね』って。それから、急に奥さんが不機嫌になってしまって」
「あー……。奥さんの気持ちわかります」
ニヤリ顔で、さくらちゃんのお母さんが言った。
「わたしもイクメンって言葉、嫌いですもん」
「あら、どうして?」と櫻子さん。
「だって、どうして男の人が育児に参加しただけでイクメンだって、もてはやされなきゃいけないの? あたしたちはイクママって呼ばれることなんて、ないですよ? 母親が育児するのは、当たり前なんですから」
隣の颯汰くんのお母さんも、同意同意と頷く。
「不公平だって、思ってしまうこともありますね」
二人の意見を聞いて、翔太はなるほどと考え込んだ。
「では、お母さんも褒められたいということでしょうか?」
「うーん。褒められたいって言われると、必ずしもそうではないしー。認められたいっていうのも、ピッタリこないなー」
さくらちゃんのお母さんも、考え込んでしまった。
「私は、認められたいに近いかもしれません」
田辺さんから颯汰くんを受け取り、抱っこしながら、颯汰くんのお母さんは続けた。
「頑張ってる、お母さんえらい! って言うよりは、育児してるあなたのこと、わかっていますよって、知って欲しい、わかって欲しいに近いかもしれません」
「あたしたちの時代からすれば、今のお父さんたち、がんばってると思うけれどねえ。休日に赤ちゃん抱っこしたり、公園で遊ばせてるお父さん、よく見かけるよ。
うちのお父さんなんか、首が座るまで子どもを抱いたことなんてなかったし、おしめだって替えたこと、一度もないよ。そんな時代から見れば、今のお父さんたちはみんな『イクメン』だよ」
田辺さんの発言の後、その場は静まり返ってしまった。みんな、黙って考え込んでいるようだった。さくらちゃんが、おもちゃで遊ぶ音だけが、軽快に響いた。
沈黙を破ったのは、あおいだった。
手と足をバタバタもがいて、ぐずぐずと泣き始めた。翔太は時計を確認する。最後にミルクをあげたのは、九時。もうすぐ十二時になろうとしていた。
「すみません、ミルクをあげたいのですが、ここであげても大丈夫ですか?」
「他の子が欲しがるといけないので、カウンター席でもいいかしら」
櫻子さんに案内され、翔太はカウンター席へ向かった。ミルクを作っている間、あおいは田辺さんが抱っこしていてくれた。
こういう気遣い有難いな、と翔太は思う。泣いているあおいに、早くミルクを飲ませてあげたくて、いつも焦ってしまう。誰かが抱っこしていてくれるだけで、心強かった。
ぼくが家にいる時は、ゆりの代わりにあおいを抱っこしてあげよう。ゆりは、いつもあおいを抱っこしたままミルクを作っていた。わかっていたようで、わかっていなかったこともあった、と翔太は思った。
「今日は、お仕事お休みですか?」
ミルクを飲み終えたあおいの背を、ポンポンと叩いている時に、ハナさんがカウンター越しに尋ねてきた。
「今日は、定休日で」
「お店で働いているんですか?」
はい、と答えようとした時、あおいの盛大なゲップが出た。ハナさんと二人でこっそり笑った。まるで、あおいが代わりに返事をしてくれたみたいだったから。
「花屋をしていまして」
「お花屋さん! 毎日花に囲まれて過ごすなんて、素敵ですね。奥様と一緒に経営されているんですか?」
「いいえ、友人と共同経営しています。奥さんは、会社勤めしています」
櫻子さん、とハナさんは手招きをした。丁度、櫻子さんが玄関ドアから顔を出したところだった。
「なあに、ハナさん」
櫻子さんは、手に大きな封筒を抱えていた。
「お手紙ですか?」
「ああ、これ? ポストに入っていたのよ。ところで、なにか秘密の会議でもしていたの?」
面白いものを見つけた、というように櫻子さんは小走りで近づいてくる。
「あおいちゃんのお父さん、お花屋さんをされているそうです」
「まあ! 社長さん?」
翔太は、慌てて手を振った。
「違います、違います。ぼくにはお店の難しい経営とか、むいていないので、友人に任せているんです。ぼくはただ、花が好きなだけの人間なので……」
「あら、そうだったの」
櫻子さんは、少し残念そうだ。
「何か、花が入り用ですか?」
翔太が聞くと、櫻子さんは隣の席に座って「お願い出来るかしら」と目を輝かせた。
「ここのね、入り口。殺風景でしょう? 季節のお花を置きたいの。後、カフェや授乳室、トイレにちょっとしたお花を置きたいと思って。お花があるだけで、気持ちが明るくなったり、落ち着いたりするでしょう?」
「なるほど。それなら、ぼくが承ります。入り口の花は、レンタルでどうでしょう。それなら季節の花を置くことが出来ますし、ご自身で植え替えをしたりする必要がありません。室内の花も任せて下さい。ぼくが配達しますから」
「まあ、嬉しい。そうしてくださる?」
トントンと話が進んで、櫻子さんは嬉しそうだ。
花の事になると、夢中になれる。好きなことを仕事にすることが出来て、ぼくはなんて幸せなのだろう。
『あなたの世界の中心は、お花なのね』
ふと、ゆりの言葉が脳裏をよぎった。
あれは確か、新婚旅行の時だ。旅行先に来ても、ぼくが道端の花や木を見て回っていたのを、ゆりが見て言った言葉だ。わざと怒ったような表情を作ってから、声を出して笑った。ゆりの笑い声が耳の中で、何度も再生された。
「そうか……! わかった!」
思わず翔太は叫んだ。ハナさんと櫻子さんが顔を見合わせた。
「奥さんが不機嫌な理由が、わかりました!」
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