第2話 たったひとりの、母だから ②

「マタニティーブルーですね」


 医師はそう言った。

 退院前の診察で、かなえは毎日涙が出て、悲しい気持ちになると勇気を出して伝えた。


「産後なのに……、マタニティーブルー?」

「マタニティーブルーは産後にも起こるんですよ。ホルモンバランスが乱れるのが原因と言われていますが、一週間くらいで症状も消えていきますよ」


 初老にさしかかった男性の医師は、眼鏡の奥で優しく微笑んだ。


「悲しいとかつらいといった感情が、ずっと続くようであれば、産後うつの可能性もあります。少しでも心配なことがあれば、いつでも電話してきて下さい」


 出産の影響で、まだまともに椅子に座れないかなえは、立ち上がるのも一苦労だった。助産師に支えてもらい、立ち上がると深く頭を下げた。


 妊娠期からずっとお世話になってきた医師だった。明日からは、先生も助産師さんもいない。誰も助けてくれない。

 そう思うと、退院という華々しい日が、憂鬱に感じられた。


 

 部屋へ戻ると、夫の裕汰が颯汰をあやすのに苦戦していた。


「おっぱいが、欲しいのかな? さっきから泣き止まなくてさ」


 かなえを見るなり、申し訳なさそうな顔で颯汰を差し出してきた。


「わかったわよ。私が面倒みれば、いいんでしょう」


 乱暴に颯汰を受け取ると、わざと大きい溜め息をついて部屋を出た。


 授乳室へ向かう廊下で、また涙が溢れてきた。

 こんなはずじゃなかったのに……。

 先程、医師からマタニティーブルーだと言われた事を伝えようと思ったのに……。


「ごめんね」


 颯汰をぎゅっと抱きしめて、かなえは泣いた。



 おかしい、と感じたのは産後三日目のことだった。


 ちょうど母乳が出始めてきた頃。夜中に何度も、サイレンのように泣き始める颯汰。


 出産してすぐ、母子同室という事もあってか、出産の疲れや傷が癒えていないまま、かなえは休む暇もなく、二十四時間動き続けていた。


 一緒に病室に泊まってくれている、裕汰はグウグウ眠っている。泣いている颯汰を抱いたまま、かなえは声もなく、泣いた。もう、限界だった。


「起きて。助けて、お願い」


 その言葉は口から出ることはなく、悲鳴をあげるように体中を巡り、ギュッと目を閉じると、消えてなくなった。


 私が、しっかりしないと。


 涙を拭って、授乳室へ向かう。授乳室では助産師が授乳やオムツ替えなどを指導してくれる。


「颯汰くん、上手に飲めるようになってきましたね」


 そう褒められても、かなえは上手く笑えなかった。おっぱいを飲み続けている、颯汰を見て不安は更に大きくなっていく。


 私が、いなくなったら……。

 この子は、生きていけない。

 私が、いないと。

 私が、がんばらないと……。


 だって、お母さんだから。



 抱いている颯汰が、急に重く感じられた。

 手首が痛い。体中が悲鳴をあげている。けれど、腕の中の小さな命は、生きるために私を必要としている。


「……こわい」


 まだ小さくか細い新生児を抱いたまま、かなえは誰にも見つからないように、声を押し殺して泣いた。

 

 


 かなえの告白を、ハナサクカフェの面々は黙って耳を傾けていた。


「マタニティーブルーはすぐ消える症状だって聞いていたので、ずっと耐えてきました。でも、私……。やっぱり、育児むいてないのかもしれません」


 最後の言葉は、嗚咽と共に漏れ出た。

 櫻子さんが、そっとハンカチを手渡してくれた。


「すみません、泣いたりなんかして……。妊娠中は子育ても家事も仕事も、私なら大丈夫。私は大丈夫って、よくわからない自信があったんです」


 かなえの背を優しくさすりながら、櫻子さんは静かに頷いた。


「でも、赤ちゃんって全然寝てくれないし、泣いてばっかだし、ずっと抱っこだし、産後の体はボロボロだし……。夫は仕事をしてくれているので、なんとなく……頼れなくて」


「一人で抱えこんで、四ヶ月も……。つらかったわね」


「とても、とても、つらいです。夜泣きがひどくて、私。もうずっとまともに寝た事ないです。颯汰の泣き声が、恐怖です。いつ泣き出すかって、怯えて、まるで時限爆弾みたい。頭がおかしくなりそう。このままじゃ、私……虐待してしまいそう!」


 そこまで一気に言いきって、かなえはテーブルに突っ伏して号泣した。


 ごめんなさい、ごめんなさい。

 こんなお母さんで、颯汰、ごめんね。

 望んで子どもを産んだのに、どうして。


 頭が、感情で破裂しそうだった。

 胸は、痛みで張り裂けそうだった。


「助けて」と言えない自分と「助けて」と言う人がいない状況に、ずっと怒りを感じていたのだと、かなえは今頃になって気がついた。


 ひとしきり泣いて、幾分か冷静さを取り戻したかなえは、ハンカチで涙を拭いながら頭を下げた。


「すみません……。初めての客が、こんな客で」


 みんな、呆れているだろう。ひどい母親だと言われても、仕方がないことだと、かなえは自嘲した。


「かなえさん」

 頭の上から涼しい声がして、かなえは顔をあげた。ハナさんが、微笑みながら指をさしていた。


「この絵を見て下さい」


 指し示す方向には、絵が飾られていた。

 パステルカラーの、光を含んだ優しい色合いの絵。透き通る青空に、なだらかな緑の草原。その真ん中に、三人の人物が背を向けて、小さく描かれている。お父さんとお母さんと手を繋いでいる子どもだ。


 そして、その絵の上には文字が書かれていた。



 

 児童は 人として 尊ばれる

 児童は 社会の一員として 重んぜられる

 児童は よい環境の中で 育てられる




「児童憲章の三原則です。児童憲章の全文はもっと長いのですが……。この三原則に子育ての全てがあると、私は思います」


「絵はハナさんが描いたのよ」

 自慢気に櫻子さんが付け加えた。

「絵が上手じゃなくて……」とハナさんは照れて笑った。それから、ゆっくり腰を落として、かなえの閉じた手を優しく包んだ。


「子どもは、一人の人間であり、社会の一員であること。よい環境の中で育てられる権利がある……つまり、どういう事だかわかりますか?」


「えっと……子どもは生まれながらにして、個人として敬うべき存在であり……親の所有物では、なく……でも、大切に育てなければならない……?」


 最後の方は、しどろもどろになってしまったが、ハナさんは、うなずいて微笑んだ。


「半分正解です。親目線から見たら、そう解釈しますよね。でも、私はこの三原則、親だけじゃなくて、世の中の全ての大人たちに向けたものだと解釈しています」


「世の中の全ての……大人」


「はい。子どもだからと蔑む事なく、社会のみんなで、子どもたちを育てていく。そして、その環境がある」


 ハッと目を見開いて、ハナさんを見ると、彼女は目にいっぱいの涙を溜めて、微笑んでいた。


「かなえさん。もう一人でがんばらなくて、いいんですよ」


 目の前のハナさんが、涙で歪んでいく。ハナさんの手は、温かい。

 涙と一緒に、孤独や不安、誰に向けていいかわからない怒りが、溶けて体から出ていったように感じた。


「颯汰」


 濡れた顔をあげて、かなえは弱々しく立ち上がった。

 今すぐ、颯汰を抱きしめたい。

 その、温もりを。その、小さな体を。

 かなえは腕を伸ばした。

 まだ何もわかっていない、純粋な瞳をした颯汰。まるでパズルのピースが合わさったかのように、母親の腕の中へ帰っていった。


「颯汰、ごめんね」


 抱きしめながら、かなえは颯汰の頬に顔を寄せる。


「颯汰、ありがとう」


 大人になったら、何でも自由に出来るようになると思っていた。母になったら、子どもにも優しく、笑顔の絶えない家庭を作ろうと、思っていた。


 けれど、何もかも想像以上だった。


 思い描いていた事とかけ離れすぎていた。自分でもどうしていいかわからないまま、助けてと言わずに歯を食いしばったまま、ずっと孤独だった。家の中で、颯汰と二人、孤独だった。


 子どもがいなかったら……と思うことが、何度もあった。その度に、自分を責めた。


「大人の……大人たちの都合が、しわ寄せとして子どもにきてしまうというのは、あってはならないことですね」


 涙を拭いながら、かなえはハナサクカフェの三人に向き直った。


「ありがとうございました。本当に。」

 颯汰を抱いたまま、かなえは頭を下げた。

「こんな醜態を晒してしまって、恥ずかしいです。櫻子さん、ハンカチは次に来る時にお返しします」


 それを聞いて、櫻子さんは破顔した。


「まぁ!いつでも、いらしてくださいね!」

「ここでは、いっぱい泣いても構わないからね、颯汰くん」


 田辺さんが、颯汰の頬を突っついた。


「お母さんばっかり、何でも背負わなくていいんだよ、かなえさん。旦那さんにも頼るんだよ」


「そう言う、のりちゃんの旦那様は亭主関白ですけどね」

 櫻子さんは、ペロリと可愛らしく肩をすくめてみせた。そのやり取りを見て、かなえは再び涙を拭った。

 


 ハナサクカフェを出て、かなえはスッーと空気を吸い込んだ。新鮮な空気が、体を満たしていくのがわかる。


 育児の不安や疲れが、なくなったわけではない。またきっと、すぐに現れるだろう。けれども、一人ではないと思うだけで、見えていた景色が大きく広がった気がする。


「かなえさん」

 後ろから声をかけられて、振り返るとハナさんが立っていた。


「うちのお店は、一時預かりは出来ませんが、友人として、いつでも困ったら呼び鈴を鳴らして下さい」


 かなえは、少し驚いた。「友人として」と(おそらく、ハナさんは意識せずに言ったのだろうが)言ってくれたことが、なんだかくすぐったく感じた。


「嬉しいです。ハナさんに出会えて」

 そう言うと、ハナさんは頬を赤くした。

「あの……ハナさんは、お子さんがいらっしゃるんですか?」


 児童憲章のことや泣いている颯汰を見て、授乳室があることを教えてくれたのは、子育ての経験があるからだとかなえは思った。もし、ハナさんにも子どもがいるなら、会ってみたいと純粋に思った。


「子どもは、いません」

 しまった、とかなえは口を押さえた。


 先程までの少女のような愛らしさが、一瞬にして消え去り、ハナさんは固い表情をしていた。

 そういう繊細な事は、気軽に聞いてはいけなかった。そもそも、ハナさんが結婚してるかさえわからないのに。勝手に子どもがいると思い込んでしまった自分を恥じた。もしかしたら、不妊治療中かもしれないのに。


「すみません。失礼な事聞いてしまって」

「いえ、大丈夫です」と笑ったハナさんは、もう和かさを取り戻していた。


「甥っ子を何回か預かって面倒を見たことがあるので、少しくらいはお役に立てると思います」


 それに、とハナさんは内緒話をするように、コソッと近づいて言った。


「実は私、住み込みで働いているんです。だから、ツラいと感じたらいつでも、来てくださいね」


 ハナさんの微笑みは、春みたいだ。柔らかく包み込むような、温かさがある。笑みがこぼれてしまうような、優しさで溢れている。


 ハナサクカフェを離れてから、家に着くまでのほんの少しの距離を、かなえは颯汰に話しかけながら帰った。


「空がきれいね」とか「田辺さんの抱っこは気持ちがよかった?」とか

「お家に帰ったら、絵本を読もう」

「土曜日は、お父さんと三人でお出かけしよう」

「颯汰、風が気持ちいいね」

「颯汰、猫が通ったよ」

「颯汰、楽しいね」

 たくさん話しながら歩いた。


 そして最後に、

 「一緒にがんばろう」

 と颯汰に笑いかけた。


 

 五月の夕暮れは、淡い水色が金色の光に吸い込まれるように混ざり、輝いて見えた。

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