ハナサクカフェ
あまくに みか
第1話 たったひとりの、母だから ①
松嶋かなえは、焦っていた。
どこか、どこでもいい、座れるところ。それか、ひと気のないところ。
静かな住宅街が続く道を、重い買い物袋をぶら下げて、かなえは早歩きで通り過ぎる。
五月になったばかりの、過ごしやすい気候にも関わらず、かなえの額は汗でびっしょりと濡れていた。理由は、かなえの胸の上で泣き叫んでいる赤ちゃんのせいだ。
やっぱりスーパーで授乳しておくべきだった。ぐっすり眠っていたから、そのまま寝かせておこうと思ったのが間違いだった。
「もうすぐお家だからね」
そう話しかけても泣き止むわけでもなく、
「もう、泣かないでよ。泣きたいのは、こっちなんだから」
肩も腕も、腰もどこもかしこも痛い。ちょっと休みたいという時間は、母になった瞬間に消え失せた。朝も昼も夜も、常に泣いている颯汰にかなえはイラついていた。睡眠不足のせいもあるかもしれない。
授乳さえ出来れば、そう思った時だった。背後から声をかけられたのは。
「あの、よかったらウチを使って下さい」
女の声がして、かなえは振り返った。
「授乳室、あります。それとも、オムツかしら?」
エプロン姿の若い女性が立っていた。主婦というより、カフェ店員のような格好だ。かなえは驚いて、目の前の女性をジロジロと見てしまったが、すぐに我に返った。
「じゅ、授乳したいんです」
女性は頷いて、かなえを家の中へ招きいれる。
「どうぞ、こちらへ」
外観は一軒家に見えたが、中はどうやらカフェのようだ。客がいないことを瞬時に見て、かなえは少し安心した。
「まあ! お荷物、私が預かりましょうね」
突然横から白髪のおばあさんが現れ、かなえが持っていた買い物袋を半ば奪うように受け取った。
「すみません」と言ったつもりだったが、頭の中は早く颯汰の泣き声から解放されたい一心で、目の前しか見えていなかった。
早く、早く、泣き止ませないと。
「こっちです」
カーテンをめくったその先に、白いソファーがあった。
「ありがとうございます」
ソファーにかけより、抱っこ紐を外した。しゃくりあげながら、おっぱいを飲み始めた颯汰だったが、だんだんと落ち着きを取り戻していった。かなえの耳元からも、颯汰の泣き声は消えていき、静けさが訪れた。
深い溜め息をついて、かなえは額の汗をやっと拭うことが出来た。
改めて周りを見てみる。授乳室は白いソファーに丸い小机。その上には、スズランがちょこんと活けられている。天井からぶら下がっている、オレンジ色のランプが、明るすぎないところが良い。目の前の壁には、絵本に出てくるような絵が飾られていた。
まるで山小屋にいるような気分だ、とかなえは思った。
「なんだか、落ち着く……」
再び溜め息をついて、かなえは颯汰が産まれてから初めて安らいだ気分を味わった。
ふと、壁に小さな貼り紙があるのに気がついた。
ハナサクカフェ 五月一日オープン!
ここは、赤ちゃん&幼児専用のカフェです。
遊ぶだけ、食べるだけ、話すだけでもOK!
定休日 日・月曜日
「赤ちゃん、幼児専用のカフェ…?」
家の近くにこんな場所が出来ていたなんて、知らなかった。しばらく貼り紙を見つめていたかなえは、腕の中で颯汰が眠ってしまったことに気がつき、本日何度目かの溜め息をついた。
「眠ってる時は、可愛いのだけれど……」
このままずっと、寝ててくれればいいのに。そして、そう思ってしまう自分に胸が痛んだ。
「すみません、ありがとうございました」
授乳室から出て、かなえは頭を下げた。
「本当に助かりました」
顔をあげると、目の前には先程声をかけてくれた女性と白髪のおばあさん、そしてもう一人、人物が増えていた。
「寝ちゃったの? 可愛いわね! 今どれくらいなの? ご飯食べていくでしょ?」
近所のおばちゃん、という言葉がよく似合うおばさんが、満面の笑みで近寄ってきた。この人も従業員なのだろうか、いかにも今家から出てきましたという格好をしている。
「ちょっと、のりちゃん。困っているわよ」
近所のおばちゃんこと、のりちゃんを制したのは、白髪のおばあさん。おばあさんというより夫人という言葉が似合っている。白い丸襟シャツに紺色のロングスカート。まるで、ジブリに出てきそうなおばあさん。
「ねえ、もしよければお昼ご飯食べていかない? お急ぎでなければだけど……どうかしら?」
かなえは戸惑った。確かに、授乳室を借りたのだから、お茶くらい飲んでいくのが礼儀かもしれない。だが、今眠っている颯汰がまたいつ泣き出すかと思うと、今すぐにでも家に帰りたい気分なのだ。
「あの……、私……」
「お代はいらないの。とても、暇だから」
遮るように、白髪の夫人は言った。
「ここね、オープンして一週間も経つのに、だあれもこないの。あなたが、一番最初のお客様なの。だから、ご馳走させて?」
いえ、急いでいるので。
という言葉が喉元まで出かかっていたのに、唇からは「ありがとうございます」という言葉が漏れ出すように出ていた。
後になって、かなえは思う。
この時、私は心の底から孤独だったのだと。
かなえはカウンター席に座った。眠ってしまった颯汰を、ベビーベッドへ寝かせた。
「あたしが見てるから、あんたたちはゆっくり食べな」
のりちゃんと呼ばれていたおばちゃんが、颯汰を見ていてくれるという。
ハナサクカフェは、カウンター席が四つ、その後ろは広い和室となっている。和室の中にベビーベッドが一台、それから、子ども用のおもちゃが幾つか置いてある。
「十一時三十分になったら、和室にテーブルを出してごはんタイムにしようと思っているの」
かなえの視線に気がついてか、白髪の夫人がそう言った。
「カウンター席はいつでも、ごはんとお茶を提供しているわ」
夫人はかなえの隣の席に腰をかけ「ハナさん、いい匂いね」とキッチンへ声をかけた。カウンター席の前は細長いキッチンがあり、先程声をかけてくれた女性——ハナさんと呼ばれていた——が調理を始めている。
かなえは先程から気になっていた事を聞いた。
「あの、赤ちゃんと幼児専用カフェというのは……。さっき授乳室で貼り紙を見て」
「言葉のとおりなのよ! 赤ちゃんと小学生になる前までの子どもたちと親のためのカフェ。おしゃべりだけ、遊ばせるだけ、ごはんを食べるだけでもいいの、ここは」
夫人はうふふと微笑んで、スカートのポケットから『回数券』と書かれた紙を取り出した。
「差し上げます。あなたは最初のお客様だから」
「ありがとうございます」
「カフェの方は、メニューに応じた料金。和室で遊ぶのは、一家族百円。その回数券は千円分よ。本当はお金取らないで遊ばせてあげたいのだけれど、個人で営業しているので……ごめんなさいね」
「個人で営業を?」
かなえは目を丸くした。カフェの料金はわかる。しかし、一家族百円は安すぎないか。従業員の給料は払えるのだろうか、施設の維持費は?
出産前、総務課で働いていたかなえは、ハナサクカフェの経営について思案した。
そんなかなえを見て、夫人は静かに前を見据えて言った。
「老人の夢なの、ここは。誰かさんのために、居場所を作ってあげたいの」
うふふ、と再び微笑んでからパチンと手を叩いた。
「そうよ! 自己紹介がまだだったわね。私は小川櫻子。ハナサクカフェの店長です。櫻子って下の名前で呼んで下さる? あっちは、田辺のり子さん。ご近所では、田辺のおばちゃんって呼ばれているわ」
「ちょっと、あっちとは失礼ね!」
のりちゃんこと、田辺のおばちゃんは抗議の声を上げた。
「あちらにいらっしゃるのは、田辺のり子様。そして、キッチンを任せている、青木ハナさん」
ハナさんは手を止めて、軽く会釈をした。髪を後ろで一本で結わいている、色白の女性。かなえと同い年だろうか、年下にも見えた。
「松嶋かなえです。息子の名前は、颯汰。生後四ヶ月です」
わぁっと声があがった。
「まだ四ヶ月なの、可愛いねぇ~」
「赤ちゃんのプニプニしたほっぺ! たまらないわ」
「赤ちゃんを見てるだけで、若返る気分だよ」
「まあ、怖い! エネルギーをおばちゃんに取られちゃうわ」
「あんたね、そういう意味じゃないってば」
ご老人二人はベビーベッドで眠る颯汰を見て、それぞれ感想をあれやこれやと述べた。
「みなさん、お待たせしました」
ハナさんがカウンターにおぼんを四つ並べた。
「今日は、生姜焼き定食です」
小盛りのごはんに、豆腐と葱のお味噌汁。生姜焼きと付け合わせのキャベツ。茄子のお浸しとデザートに小さな杏仁豆腐が付いていた。
どこにでもある、一般的なメニューなのに、かなえにはこの定食が、きらきらと輝いてみえた。
「いただきます」と手を合わせたのは、いつぶりだろうか。温かいごはんをゆっくり食べたのは、いつぶりだろうか。
「……おいしい」
かなえは、ぽそりと呟いた。
本当においしいごはんに出会った時、人は声を失うのだと、そう思った。
「おいしいです」
今度は聞こえるように、ハナさんを見てかなえは言った。恥ずかしそうに俯いて、それからハナさんは、微笑んだ。
颯汰が予想外によく寝ていたので、田辺さんも一緒にお昼ごはんを食べることにした。
「ねぇ、名札を作ろうと思うの」
櫻子さんが唐突に沈黙を破った。
「名札なんて、あたしら老人がつけたら、まるで迷子札だよ」
田辺さんが横やりをいれたが、櫻子さんは無視して続ける。
「居酒屋さんみたいに、マジックでね、『こう見えて、店長 さくらこ』って書くの。可愛らしいキャラクターを添えてね」
「やだやだ、あたしはごめんだね」
「のりちゃんも考えてあるのよ、『毒舌☆みんなの母 田辺のおばちゃん』ってどうかしら」
「もっと、ごめんだね!」
二人のやり取りを見て、かなえは思わず吹き出してしまった。
「ごめんなさい、お二人が面白くて」
肩を震わせて笑うかなえに、老人二人は顔を見合わせて、ふふっと笑った。
「かなえさんが、笑ってくれて嬉しいわ」
櫻子さんがそっと、かなえの背に手をあてた。その体温を感じて、かなえは櫻子さんの優しさに気がついた。
「櫻子さん、名札は小さい子が引っ張ってしまうかもしれないので、壁にスタッフの写真と紹介文を貼るのはどうでしょう」
ハナさんが、食べ終わった皿を片付けながら提案した。
「そうね、流石ハナさん。そうしましょう」
「全く、あんたの考える事って、昔からどーしようもないことばかりだよ……あら、起きたみたいだよ」
ベビーベッドで、うごうごと動き始めた颯汰に田辺さんが近づいていく。
「颯汰くん、おばちゃんが抱っこしてあげましょうね」
ゆっくりと抱き上げられた颯汰は、大人しく田辺さんに抱っこされている。
そういえば、とかなえは思う。母や義母が抱っこしている時、颯汰は決まって大人しかった。どんなに泣いていても、ピタッと泣き止むのだ。
育児の玄人と新米ママでは、抱き心地が違うのだろうか。
「あたしが抱っこしてるから、かなえさんは、ゆっくりお茶でも飲んで」
「すみません」
「謝ることじゃないよ。あたしが抱っこしていたいだけだら、気にしない、気にしない」
テーブルの上には、紅い色をしたお茶が出されていた。ほのかに甘酸っぱい香りがする。
「ラズベリーリーフティーです。授乳中でも安心して飲めます」
ハナさんがそっと付け加えた。
温かい飲み物は、心が落ち着く。それとも、ゆっくり飲むことが、心を落ち着かせるのだろうか。
「私、夫とスーパーの店員さん以外で、久しぶりに大人の人と話した気がします。いつも、颯汰と二人きりだから……」
透明のマグの中で揺れる、紅いお茶。その中に歪んだ自分が映っている。
ハナサクカフェを離れたら、また、二人っきり。
少しの間、忘れていた暗い穴がジワジワと広がっていく痛みを感じた。
「お肌も綺麗。洋服も清潔。手も足も指先まで健康。こんなに可愛らしく育ってるのは、かなえさんが、毎日がんばって育ててるからだねぇ」
そう言って、田辺さんはかなえを見て「ひゃっ!」と声をあげた。
「何か変なこと言っちゃったかい? 泣くだなんて」
「……違うんです」
違います。違うんです。私、がんばってなんかない。ひどい母親なんです。
涙を拭いながら、かなえは心の底で呟く。
違うんです。私、母親失格なんです。
「だって……可愛いと、思えないんです」
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