泡沫の変幻自在的悪夢 4-2
※ ※ ※
二人は用務員室を出て再び中央ホールを目指していた。
作戦はいたって単純だ。
風香が物体の足止めをして、その間に陽斗が二階の所長室からパラコートの原液をとってくる。
逆の方がいいんじゃないか? と陽斗に言われたが、風香は「もしも最後になにかロックがかけられていたら私じゃ解けないもの」といった。
「でも急いでね。早くしないと死ぬから。本当に」
「ああ、がんばるよ」
二人は拳をぶつけ合い、再び中央ホールに戻ってきた。
物体は相変わらず巨人のままだった。
陽斗がその脇を抜けて反対側の廊下に向かおうとしたところで、物体は陽斗に爪を振り下ろそうとした。
その隙に風香が物体の太ももを鉈で切りつける。
物体はバランスを崩して爪を空振りした。
これで陽斗は突破できた。
あとは時間を稼ぐだけだ。
それが一番の問題でもあるけれど。
「コホォオオオオオオオオ……」
物体の足が再生し、髑髏のような顔で風香を睨みつける。
物体の背中が割れて、中から大量の細い触手が現れた。
「あんたが吸収した人たち、遊星からの物体エックスでも見てたのかしらね!」
触手が襲い掛かってくるが、風香は後ろに下がりながら迫りくる触手を切り落としていく。
動きは早いが見切れないほどではない。
夜の雪原でどこから来るかもわからない罠に怯えるよりずっと楽だ。
あちこち火の手があがっており、徐々に逃げられるスペースがなくなってきた。
天井にも火の手が回っており、いつ天井が崩落してくるかもわからない。
風香と物体の命がけのダンスは、いつまでも続いた。
(いつまでつづければいいの。早くもどってきてよ、あの馬鹿!)
心の中で悪態をつきながら、物体が振り下ろした爪を躱す。
物体が振り向いたところで、目を切り裂いた。
物体は顔を押さえて後ずさりし、風香はその間に呼吸を整える。
(よし、パターンはつかめた。切って、ひるんだ隙にちょっとだけ休憩。このまま繰り返せば三十分はもつ)
自分の体力を分析し、正確に残り時間を算出する。
三十分もあれば陽斗はきっと戻ってくる。
生きることだけに専念しなければ。風香はそう思っていた。
ところが物体が、姿を変え始めた。
いまのままでは風香を仕留められないと判断して、より最適な姿になることを選んだのだ。
「なにに化けるつもり?」
風香が固唾を飲んでいると、物体はーーーー陽斗の姿になった。
「おりゃああああああああああああああああ!」
風香はすかさず首を跳ね飛ばした。
「愚か! 愚かだわ! いまちょうどぶった切ってやりたいと思っていた男に化けるなんてね!」
物体はよたよたとふらつき、再び姿を変え始めた。
もうなにがきたって平気。このまま時間いっぱいまで逃げ切るだけ。風香は勝利を確信していた。
ところが、物体が変化した姿を見て、風香は息を飲んだ。
「風香……」
黒髪のおかっぱ頭。大きな黒曜石のような瞳と、ルージュを塗ったように赤い唇。やせぎすで色白で、病的ながらどこか神秘的な美しさを放つ少女。
ぼろぼろのセーラー服に身を包んだユリが、そこにはいた。
※ ※ ※
陽斗は全力で走っていた。
煙で肺が痛いのか、それとも煙草の吸いすぎで肺が痛いのか、どちらかはわからない。
ただ無事に生き残ったら禁煙してランニングするぞ、と決意した。
肩で息をしながら、陽斗は二階の所長室に到着した。
死体は消えている。当然だ。操られた死体はいま、中央ホールにあるのだから。
陽斗は所長のデスクに駆け寄り、一番下の引き出しを開けようとした。
ところが、鍵がかかっている。
「そうか、一番上の鍵と連動していたのか」
陽斗はピッキングツールを取り出して鍵穴に差し込んだ。
しかしその時、天井が崩落してピッキングツールを手放してしまった。
「しまった!」
ピッキングツールは火の中に入ってしまった。
もう道具はない。
「糞! いいや、まだだ! 俺はもう諦めない!」
陽斗はネームプレートの安全ピンを鍵穴に差し込んだ。
諦めたら、あのゴリラに殴られる。
そんなのはごめんだと自分に言い聞かせて。
※ ※ ※
「風香……」
「ユリ……」
目の前にいるのは、確かにユリだ。
かつて卒業旅行にでかけた親友。
ともに過ごした仲間たちを、残酷な罠にかけて惨殺した大量殺人鬼。
風香の苦い記憶の根源的存在。
「風香……久しぶり……」
「嘘よ……なんで? なんであなたが……」
風香は後ろに数歩下がった。
壁に背中が触れた。
ちょうど、風車の絵が飾られている下だった。
「あなたの記憶から産まれたの。ううん、復活したというべきなのかな」
「記憶から? だって、物体は自分が食べた者の記憶しか……」
「進化しているの。急速に、急激にね。いまはもうなんにだってなれる。食べたことがない鮫にだって、見たことも聞いたこともない、他人の記憶の中の人にだって」
ユリは両手を広げて恍惚とした笑みを浮かべた。
ああ、この顔だ、と風香は思った。
あの時も、こんな顔をしてみんなを殺していた。
「本当はボウガンが欲しいけど、贅沢はいってられないよね」
ユリは星夜の額に刺さっていた果物ナイフを引き抜いた。
その刃に舌を這わせて風香を見つめている。
「まだ、殺したりないの?」
「うん。ぜんぜん足りない。もっともっと殺したいの。たくさんたくさん殺したいの。プールが血で一杯になるくらい。体育館が死体で埋まるくらい殺したいの……だから、ねえ? 死んでよ、風香!」
ユリがナイフをめちゃくちゃに振り回して迫ってきた。
風香は冷静に躱して、隙ができた脇腹に蹴りを入れようとした。
ところがユリは体をひねって足を腕で掴み、風香の太ももにナイフを突き立てた。
「ああ! もう!」
風香は鉈を横なぎに振るってユリの目を狙ったが、ユリは顔を引いて躱した。
前髪が数本切れたが、それはすぐに物体へと姿を変えて風香に迫ってきた。
風香はシャツで受け止めて、すぐにシャツを鉈で切り裂き火の中に放り込んだ。
「ぎぴいいいいいいいいいい!」
物体の欠片が断末魔を上げる。
「ああ、可哀そう。わたしの子供たちが燃えてしまったわ」
「しょせんただの欠片でしょ」
「ねえ、風香。あなた迷っているんでしょう? 私を殺すことを」
「そんなことない!」
風香は自分に言い聞かせるように大声を張り上げた。
ユリに扮した物体の言葉は正しかった。
風香は、躊躇している。戸惑っているのだ。ユリの姿に。
あの時もそうだった。風香はユリが犯人だとわかっていながらも、直接自分の手で殺すことはできなかった。
ロッジごと燃やすことで、罪悪感を誤魔化したのだ。
本当は生きているのか死んでいるのかわからない。
ロッジには多数の死体があった。どれも原型がとどめないほど焼けてしまい、ぐちゃぐちゃに混ざってしまった。その中にユリがいたとしても、わからない。
死体の数があっているというだけでユリは死んだことになっている。
けれど、風香は心のどこかで、彼女は生きているのではないかと思っていた。
ユリならば、他の死体を用意して自分の死を偽装するくらいのことはやりかねないと思っていた。
それが、自分が殺したという現実から目をそらしたいだけだとわかっていながらも、思わずにはいられなかった。
「あんたは、ユリじゃない。私の記憶が作り出したあの子の幻影。泡沫の夢よ! 今日、今この時をもって断ち切って見せる!」
風香はユリに鉈を向け、宣言した。
乗り越えなければならない。
これは試練だ。
いつまでも過去に引きずられるわけにはいかない。
「私はユリ! 殺すことに至上の喜びを感じる死の天使! だから、ねえ、風香……私のために死んで!」
肉薄する二人。こんどのユリは精密な動きで風香の喉を執拗に狙ってくる。
風香は後ろに下がりながら鉈を使っていなしていく。
円を描くように攻防を繰り返し、中央ホールのその中央に二人がたどり着いたその時、天井が崩れた。
後ろに下がろうとするユリ。
風香も下がろうと思ったが、その瞬間のユリに隙を見出した。
「はあああああああああああああああああああああ!」
彼女は決死の覚悟で前に出た。
鉈をユリの左肩から右わきへと振り下ろし、切り裂いた。
ユリは血を吐いて、二人は瓦礫の下敷きになった。
「う……」
風香は瓦礫に足を挟まれていた。
視線の先には、大の字になって倒れているユリと、その手前には鉈が落ちている。
ユリはまだ死んでいない。風香は鉈の下へ行こうとしたが、足が挟まっており動けない。
「痛いじゃない、風香」
ユリの上半身が起き上がった。
いましがた切り裂いた傷口は、ぐちぐちと音を立てて再生していく。
彼女はゆっくりとおきあがり、自身の果物ナイフを見た。
「やっぱり、こんな地味な武器じゃ興奮しないわ。私ね、もっと血がどばっとでるのが好きなの。知ってるでしょ?」
ユリが笑いながら歩み寄ってくる。
風香の鉈を拾い上げ、刃を指の腹でなぞる。
「これ、いいね。もらうね、風香」
「ユリ……やめて……」
「うふふ、なんだか楽しいね。お互いの大事なものをシェアするのって、なんだか友達っぽいよね」
ユリは風香の目の前で立ち止まった。
鉈を振り上げ、狂気に満ちた笑顔を浮かべている。
「バイバイ、風香。大好きだよ」
風香が目をつむったその時、チチチチチ、という炸裂音が響いた。
「ぐあっ! な、なに!?」
風香が目を開くと、陽斗がスタン警棒をユリの背中に押し当てていた。
ユリは体を保てず、どろどろと融解していく。
「こんどこそ死にやがれスライム野郎おおおおおおお!」
陽斗がユリに瓶を投げつけた。
ユリは鉈でその瓶を切り裂いたが、中身までは防げなかった。
大量の原液の浴びた彼女は、ついに人の形が保てないほど溶けてしまったのだった。
「風香……兄貴……ああ……センセ……センセ……アア……アアアァァァ……」
物体はユリの顔から星夜の顔になり、次に金田へと姿を変え、最後はただの物体として幕を閉じた。
風香は陽斗に引っ張り出され、肩を貸してもらいながら出口に向かった。
「扉のロックは?」
「あけてある。所長室のパソコンからな」
「そう。ならよかった……」
二人はいっしょに扉の取っ手を握り、開いた。
外の涼しい風が頬を撫でる。
新鮮な酸素が肺を満たした。
すべては終わった。悪夢は過ぎ去ったのだ。
覚めてしまえばなんてことはない。すべては、泡沫の夢のようなものだったのだ。
東の空が明るくなっている。
「もう、夜明けだ」
「そうね」
「その足じゃ運転できないだろ。あんたの車は、あのクーパーか?」
「運転してくれるの? でも、あなたの車は?」
「俺のはまたこんどとりにくればいいさ」
陽斗が微笑み、風香もつられて笑みを浮かべた。
「そ。じゃあ、お願いするわ」
そういってキーを渡したのだった。
二人が車に乗り込んだところで、陽斗の動きがとまった。
「どうしたの?」
「いま、なにか声が聞こえた気がしたんだ」
陽斗は燃え盛る研究所を見つめている。
風香は嫌な予感がした。
「まさか!」
「おぉーい! まっておくれよぉー!」
研究所の入口から、だぼだぼの服を着た男が走ってきた。
「お前、まさか……太田か!?」
変わり果てた姿の太田はクーパーの扉を開けると、後部座席にもぐりこんできた。
「はぁー、よかった! おいて行かれるかと思ったよぉ!」
「あなた、なんなのその姿!? なんで痩せてるの!?」
「脂肪が守ってくれたのさ! あの物体は、僕の脂肪だけをたべて満足したみたいで、気が付いたからこんなに痩せてたんだよぉ!」
陽斗も風香も唖然とした。
けれどしばらくして、陽斗が噴き出した。
「ぷっ……あはははは! やっぱりお前は最高だよ! さあ、帰ろうぜ!」
エンジンがかけられ、三人は帰路についた。
「なあ、北原」
後部座席では太田が眠っている。彼は運転し始めてすぐに眠りについた。また脂肪を蓄え始めているのかもしれない。
彼を起こさないように配慮しているのか、陽斗は小声で呟いた。
「なに」
「いい記事は書けそうかい?」
陽斗が煙草を握りつぶして言った。
「そうね……ま、ピューリッツァー賞も目じゃないわってところかしら」
風香は返事をして、それから窓の外に見える朝日に目を細めたのだった。
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