泡沫の変幻自在的悪夢 4-1

※  ※  ※


 風香が落下した穴を覗き込むと、先が見えないほど暗くなっていた。


 もしかしたら地下まで落下したのかもしれない。


 陽斗はこめかみに銃口を突きつけて考えた。


 彼女の安否を確認するために下の階にいくべきか、それとも彼女を信じて自分は保管庫に向かうべきか。


 答えはすぐに決まった。


 陽斗は、いまだ立ちふさがっている物体に視線を送った。


 スタン警棒を取り出し、ゆっくりと、慎重ににじり寄っていく。


「くるなら来いこのデカブツ女ぁ!」


 挑発するも、物体は動かない。


 なにかおかしいと感じた陽斗は、さらに接近していく。


 あと三メートルほどのところまで近づいて、ようやくその違和感の正体に気が付いた。


 これは、抜け殻だ。


 物体の背中が脱皮した後のセミのように開いていたのだ。


「これは、囮……だから全身を硬化させた姿だったのか……」


 意志をもっていないため、形を維持するには固くさせる必要があったわけだ。


 ますます手の込んだ罠を仕掛けてくるようになったと感じながら、陽斗は保管庫に走った。


 風香は、物体は自分たちがここに来ることを知っていたと言った。


 だがそんなことは関係ない。パラコートさえ入手すれば勝機はある。


 そう思っていた陽斗だったが、保管庫の扉に手をかけた瞬間、嫌な予感がした。


 くることをわかっていたということは、自分たちの目的がわかっていたのではないだろうか。


 自分たちの目的。それは物体の弱点を手に入れること。


 自分の弱点を、あの物体は放置しておくだろうか。


 その予想は最悪の形で的中した。


 保管庫の中はめちゃくちゃだった。


 棚に陳列されていた薬品は、棚ごと破壊されていた。


 すべての薬品が打ちっぱなしのコンクリートに吸い込まれていた。


「畜生おおおおおおおお!」


 激昂する陽斗だったが、まだ可能性は残っている。


 用務員室だ。あそこに行けば研究所で使うためのパラコートが残っている。


 陽斗は急いで引き返した。


 風香が落ちた穴を通り過ぎて、一気に一階まで降りていく。


 中央ホールを通り過ぎ、用務員室の前までたどり着いた。


 陽斗は我が家に帰ってきた思いだった。


 用務員室の扉を開くと何もかもが今朝見た時のままだった。


 その時、爆発が起きた。同時に足下灯が消えた。


 地下の発電機が止まったようだ。


 状況は悪くなっていく。急がなくては。


 陽斗はペンライトで足下を照らし、棚を漁った。


「たしか、この辺に……あった!」


 白いボトルを手に取り、喜びに震えた。


 とはいえ、現役にはほど遠いほど希釈されている。


 どの程度の効果があるかはわからないが、いまはこの薬品に頼るしかない。


「よし、ひとまず中央ホールに向かおう」


 さっきの爆発は風香によるものだろう。


 ということは、彼女は生きている可能性が高い。


 学があるようにはみえないが、生きるか死ぬかの状況において彼女は間違いなく天才だ。


 自分のような努力型の秀才にはない、もっと本能的な力強さがある。


 陽斗は彼女との再会を確信して、中央ホールにもどった。


 中央ホールに到着すると、受付から外が見えた。


 ホールの時計で時間を確認すると、現在の時刻は午前四時。もうそんな時間になっているのか、と陽斗はげんなりした。


 ホールに風香の姿はない。待つのは十分だけにしよう。


 そう決めて待機していると、足音が聞こえた。


 ライトで照らすと、女性の足が見えた。


「北原! やっぱり生きていたんだな! ……北原?」


 返事がないことに疑問を抱き、顔を照らしてみる。


 するとそれは風香ではなかった。 


 顔面に物体がへばりついた研究員の死体だった。


「なっ!」


 しかも一体だけではない。食堂にいたであろう死体がぞろぞろとやってきている。


 上半身だけの者が床をはいずってきたり、下半身だけの者が歩いてきている。


 その様子はまるでゾンビ。いや、ゾンビよりも恐ろしいなにかだった。


 物体は生物に擬態する。その能力を使い、神経細胞に擬態して無理やり死者を操っていたのだった。


「糞!」


 陽斗はスタン警棒を握って死体に殴りかかった。


 どうやら個々の戦闘力は大したことがないらしい。しかし数が多い。


 背後からはやせ細った研究員の死体が迫ってきている。


「こいよ! 全員まとめて相手してやるぜ!」


 陽斗は威勢よく言い放ち、蠢く死者の群れをばったばったとなぎ倒していった。


 ところが、ある死者にスタン警棒を振り下ろそうとしたところで陽斗の動きが止まった。


「星……夜……」


 それは実の弟、星夜の体だった。


 星夜に意志は感じられない。


 臓物を腹から垂れ流しながら、焼けただれた足でよちよちと歩み寄ってくる。


 周囲の死体から這い出してきた物体が、星夜の体にまとわりついていく。


 体をよじ登り、口の中に入り込む。


「ごぽっ……兄……貴……」


 星夜の口から、声が聞こえた。


「星夜……お前……」


 陽斗は数歩、後ろに下がる。


 背中が、壁に触れた。


 それは太陽の絵が飾られている真下だった。


「兄貴……は……俺の……太陽だった……」

「星夜……よせ……来るな……」

「どうしてだよ……兄貴……なんで、俺を置いて……大学を辞めたんだ……」

「恐かったんだ! 俺は、お前が変わっていくのを見るのが恐かった!」

「俺は……兄貴に……感謝してた……初めてこの世に……産まれた気がした……」

「お前はずっと前から産まれてた! 俺がそう錯覚させてしまったんだ! だからお前は、いや、俺は! 俺は、人の人生に関わるのが恐くなった! 一人になりたいと思った!」


 人から必要とされるのが恐かった。


 責任が伴うから。


 重要なことほど、大きな責任を背負うことになるから。


 自分ならその責任にも耐えられると、昔の陽斗はうぬぼれていた。背負ったことのない重荷など、知る由もないくせに。


 人の人生を変えるということがこれほどまでに自分を追い詰めることになるとは思いもしなかった。


 陽斗は、星夜の人生に責任を感じてしまった。


 表では成功者だったとしても、裏ではなにをしているかわからない。


 そのツケが必ず来ると思っていた。


 そしてそれは、今夜訪れた。


 これは悪夢だ。


 弟は自分が不幸になっていることに気づきもしなかった。


 一人閉じこもる日々を送っても、自分を殺した生物を作っても、あいつは自分は幸せだったという。兄貴に感謝しているというのだ。


 それが不憫でたまらない。たまらなかった。


 この悪夢は変幻自在だ。


 自分がかかわっていても、かかわらなくても、弟に不幸が訪れた。


 悪夢は様々な形で襲い掛かってくる。陽斗を追い詰めようとする。


 いままさに、死霊となって、陽斗を死の世界へと誘おうとしている。


「兄貴も……僕たちと……いっしょになろう……また、いっしょに……暮そう……兄貴……」

「星夜……俺は……」

「さあ……さあ……さああああああああああ!」

「…………」


 陽斗は星夜の腹部にスタン警棒を押し当て、スイッチを押し込んだ。


「ぎゃああああああああああああああああああ! なんで! どうして兄貴いいいいいいいいいいいい!」

「悪いな星夜……守らなきゃならない約束があるんだ」

「ああああああああああああああああああああ! 殺してやる! 殺してやる!」

「なに!」


 スタン警棒のバッテリー表示が赤く点滅している。


 バッテリー切れだ。


 星夜は陽斗に掴みかかり、首筋に食らいつこうとしてきた。


「はなせ……星夜!」

「殺す殺す殺す殺す殺す!」


 凄まじい腕力に、徐々に押されていく。


 それでも陽斗は抗った。屈するわけにはいかなかった。


 このまま死んでしまっては、星夜との約束を果たせない。


 物体を殺すという、星夜の最後の頼みを叶えることができない。


「このままじゃ……糞おおおおおお!」

「ははははははは! 殺す! 殺す! こるうぅろぉえ?」


 すこん、という小気味良い音がした。


 星夜の体からふっと力が抜けて、後ろに倒れた。


 見ると星夜の額には、果物ナイフが突き刺さっていた。


「大丈夫!?」


 振り向くと、そこには風香が立っていた。


 全身びしょ濡れで、ロングティーシャツ姿になっている。


「北原! 助かった! 今のうちに!」


 陽斗はもっていた枯葉剤を星夜の口につっこんだ。


 どぷん、どぷん、と内容液が注がれていく。


「死ね! スライム野郎おおおおお!」


 星夜の口から物体が飛び出した。


 物体は床の上をのたうち回りながら、次第に縮んでいく。


 最後には水滴になって、動かなくなった。


「よし! よし! やったぞ! あの物体を倒した!」

「ちょっとまって、いまのってまさか」

「ああ、これはパラコートだ! やっぱり効いたんだ!」 

「まだあるの!?」


 風香が胸倉を掴んで詰め寄ってくる。


 凄まじい剣幕に、陽斗は困惑した。


「いや、これが最後の一本だけど……」

「はぁ!? なんてことしてくれたの!?」

「ちょっとまてよ、物体は倒したんだ。なんでそんなに怒る?」

「これは本体じゃないわ! たぶん……近くにある死体からして、食堂で切り離した欠片よ! あなたは最終兵器を物体の欠片に使ってしまったの!」

「な、なんだって!?」


 陽斗は、背中に氷柱を押し当てられたかのような悪寒が走った。


「本体は地下にいたわ。発電機用の燃料で燃やしてやったけど、まだ生きてる。いまは体力を回復しているところなのよ。この欠片はそれまでの時間稼ぎってわけ」

「お、俺は……なんてことを……」


 陽斗は打ちひしがれ、床に両手をついた。


 このままじゃ、なぶり殺しだ。


 地下の燃料を使っても殺せないような奴を、どうやって殺せばいいのだ。


「まだなにか手があるはずよ。諦めないで」

「無理だ……もう……無理だ……」

「このっ! 立ちなさい!」


 再び胸倉を掴まれ立ち上がらされる。


「いいこと! 私たちは生きてる! 失敗したけど、無様だけど、いろんな嫌な思いもしてきたけどまだ生きてるのよ! 諦めていいと思ってるの!? なんのためにあんたの弟さんはあんたに自分の責任を任せたと思ってるの!? それはあんたを信用していたからじゃないの!?」

「信用……」


 そうだ、星夜は逃げろではなく、殺してくれと頼んできた。


 陽斗にならそれができると思って、頼んだのだ。


 弟の中で、自分はまだヒーローのままなのだ。


「わかった……そうだよな……なぁ俺、あんたのこと----」


 それに気づかせてくれた風香に、陽斗は感謝以上の感情が芽生え始めているのがわかった。


 これは、そう、きっと、恋だ。


「もっとしゃきっとしなさいよこのボンクラぁ!」


 硬い、否、重い拳が陽斗の右頬を打ち抜いた。 


 同時に恋も砕けた。


 この女、ゴリラの末裔か何かなのか?


 そんな思考が陽斗の脳を埋め尽くす。


 倒れた先は星夜の死体の上。


 はだけた白衣から一冊の手帳が滑り出てきた。


「ぐあっ……いってぇ、糞ゴリラかよ糞……ん? これは」

「とにかく! ここまでやったからには諦めるのは許さないわ! 脳みそ引き絞って考えなさい!」

「ああ……そうだな……」


 手帳を開くと、中は暗号化されていた。


 陽斗はこめかみに銃口を当てて考える。


 暗号はアルファベットばかりだ。だが数字や記号もある。


 統一感はないが、規則性はあるはずだ。


 この並び、この記号、陽斗は見覚えがあった。


 これは、パソコンのキーボードだ。


 日本製のパソコンにはアルファベットとは別にひらがなも書かれている。


 星夜はすべてのひらがなをキーボード上の記号に変換して記録していたのだ。


「なにこれ……暗号? 解けるの?」


 横からひょっこり顔を出した風香が尋ねてくる。


「もう解いた。そして、そうか、なるほど……」

「へぇ……え! もう解いたの!?」

「パラコートはまだある。二階の、所長室に」

「本当に!?」


 陽斗は頷いた。


「ああ。それも原液がある。星夜は非常時に自分であの物体を始末しようと考えていたんだ。答えは始めの場所にあった!」

「なら、早く取りに行きましょう!」

「ああ!」


 二人が頷いたその時、中央ホールの天井が崩れた。


 上の階から落下してきたのは、あの物体だ。


 強靭な四肢に、針のような髪。前腕から先が二本の槍になっている。


 顔は複雑な形状を嫌ったのか、マスクをつけているかのような滑らかな形に変わっており、胸部は相変わらず女性らしさを残していたが、腹筋や、大腿部は、筋が浮かび上がるほど筋肉が発達している。


 物体は、星夜の死体を見下ろし固まっていた。


「あいつ、肉弾戦でくる気だぞ!」

「ひとまず逃げるわよ!」

「用務員室だ! 用務員室に逃げよう!」


 二人は走り出した。


 すでに地下の火の手は一階にまでせりあがってきている。


 ホールも廊下も徐々に燃え始めていた。


「追いかけてこないぞ!」

「あいつ、まさか正面入り口のガラスを破る気じゃないの!?」

「ならほっとけ! あの扉は手りゅう弾でも壊れない強化ガラスだ! いまは逃げるんだ!」


 内壁は普通の建物だが、外壁も鉄板が仕込んであるため堅牢な作りになっている。


 壁を破壊して逃げ出せるなら、あの物体ならとっくにやっているだろう。


 陽斗と風香は、燃える廊下を走って用務員室へと転がり込んだ。


「はぁはぁ……さてどうするかな……」

「ごほっごほっ……早くしないと、煙で死にそうだわ」

「しゃがんだほうがいい。その方が煙をすわなくて済む」

「そんな暇、ないわよ」


 風香は用務員室の棚を物色し始め、枝切りようの鉈をてにとり軽く振り回していた。


「あんた、本当にすごいな」

「やめて。サバイバル能力を褒められても嬉しくないの」

 

 風香は苦々しい顔でスタン警棒のバッテリーを投げ渡してきた。


「あ、そうそうそういえばさっきのことなんだけど」

「さっき? なんかあったっけ」


 風香が満面の笑みで振り返り、陽斗はぎょっとした。


「さっきの、守らなきゃならない約束がある? って言葉? なんだけど?」

「なんでむやみやたらに疑問符をつける?」


 風香がこの状況でなにを話したいのかさっぱりわからなかった。


「むふふー、照れてるの? あれって、私を外に逃がす約束のことなんでしょ? あなたのことあんまり好みじゃないんだけど、あの言葉にはちょーっとだけ私の好感度もあがったかなーなんてね」


 風香はにまにまと口角を吊り上げながら嫌らしい視線を向けてきた。


 陽斗は小さくため息をついた。


 この女は、こんな時になにを考えているのだろうと心底呆れてしまった。


「あれは星夜のことだ。必ずあの物体を殺すっていう約束のことだ」

「……は?」

「あんたの恥ずかしい勘違いのことはどうでもいいが、それより気になったんだがあんたの先祖はゴリラかなにかなのか? さっきのパンチ、効いたぜ」


 陽斗は煙草に火をつけて言った。


 まだずきずきするし、まだ根に持っている。


「はあああああ!? 私のどこがゴリラだっていうのよ!」

「腕力」

「普通よ普通! 女はか弱いだなんて幻想抱いてんじゃないの!? 女だって普通に筋肉あるし日ごろから運動してる人なら普通よ!」

「いいや普通じゃない! 大の男を吹っ飛ばす腕力ってなんだよ! そりゃ雪山で殺人鬼に遭遇しても生き残れるっつーの!」

「あの頃は吹奏楽部でしたー! はーい、ざんねーん! あーあ、よかった! あんたみたいな稼ぎの少ないプー太郎にちょっかいかけなくて! ほんとによかったー!」

「プー太郎じゃねーっつーの!」

「でも今日から無職じゃない!」

「仕事なんかすぐみつかるわこのゴリラ女!」

「なんですって馬の尻みたいな頭してるくせに!」


 二人はふん、とお互いにそっぽを向いた。


 この期に及んでいったいなにをくだらないことで言い争っているのか、と陽斗は次第に笑えて来た。


 風香も同じなのか、二人は互いにぷっと噴き出し、再び向き直った。


「私、あなたのこと嫌いだわ」


 そういって、風香は手を差し出してきた。


「ああ、俺もあんたが嫌いだ」


 陽斗はその手を掴み、立ち上がった。


「それと」

「なんだよ。なだ言い足りないのか?」

「弟さんのこと、やっぱり気にする必要はないと思う。弟さんは弟さんの、あなたにはあなたの人生がある。彼が自分の人生に納得していたのなら、あなたが気にする必要はないわ」

「……だな」

「私たちは私たち人生をまっとうしなきゃならない。こんなところで躓いている暇はないのよ」

「ああ、その通りだ!」


 時間はない。


 やるしかない。


 けれど、もう、覚悟は決まった。


 どうにでもなれ、だ。

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