泡沫の変幻自在的悪夢 3-2


※  ※  ※



 階段を駆け上がる陽斗の背を追って、風香は三階へと到着した。


 風香の中にある予感が芽吹いていた。


 あの物体は、成長している。


 さっきの特別研究室で読んだ資料によると最初はアメーバのような存在だったらしい。それから細胞分裂を繰り返し、大きさはナマコほどになった。


 そこからは様々な動物を捕食することで体積を増やして、水槽で飼われていた頃の最終的なサイズは子犬ほどだったと書かれていた。


 だが、風香が初めて遭遇した時点ですでに人間よりも大きかった。ついさっきは部屋を包み込むほどのサイズだ。


 変形のバリエーションも増えており、動物を模倣するだけではなく、鋼鉄の槍を作り出すという独自の変形をみせた。


 なにより危険なのは、あの物体は罠をはる。それがなにより恐ろしい。


 物体は成長している。いままさにこのときも。


 それに罠をはるということは、思考しているということだ。


 考える敵は厄介だ、と風香は唇を噛んだ。


 あの物体は自分たち二人になんども撃退されている。


 連携をとられることの厄介さを感じているはずだ。


 ならば、そろそろ……。


「ねえ、ちょっと聞いて」

「なんだ?」

「あなたも気づいていると思うけど、あの物体は成長しているわ」

「そうだな。で?」

「この先、どんな罠があるかわからない。もしかしたら分断される可能性もある。そうなった時のために合流地点を決めましょう」

「なら、中央ホールにしよう。あそこからなら用務員室も近いし、わかりやすいだろ」

「わかったわ」


 風香は頷くと、三階の廊下の中央で陽斗が立ち止まった。


「どうしたの?」

「あれ、見ろよ。おでましだぜ」


 前方をみると、リノリウムの床の中央に巨大な人型の物体がうなだれながら立っていた。


 うなだれなければ天井に頭が触れてしまいそうな大きさだ。


 ますます成長していることが一目でわかった。


 変わったのは大きさだけではない。


 体の表面が鋼色の光沢を帯びている。


 相変わらず姿は女性のままだが、もはや人とは思えない異形の姿だった。


「大きくなってる。それに、あの肌はなんなの」

「体内の鉄分とか炭素を体の表面に集めているんだろう。きっと防御のためだ」

「それは違うわ。もともと物理的な攻撃は効果がなかった。私たちを殺すためのなんらかの仕掛けだと考えるべきよ」


 そうとしか考えられなかった。


 この期に及んで無意味な行動をとるとは思えない。


 いままで積極的に攻撃してきたのに、今回は待ち構えているという状況も気になる。


 こんな通路の真ん中に立っているなんて、まるで自分たちの行先を知っていたかのようだ。


「もしかして」

「さぁて、どうする。正面突破するには、ちと危険だぜ。だがここを越えれば奴の弱点はすぐそこだ」

「まって、嘘でしょ、まさか……」

「どうした」

「この先に、私たちが求めるものはないのかもしれない――――」

「それってどういう――――なんだ!?」


 突如、床が振動し始めた。


 足元に亀裂が入り、風香はとっさに陽斗をつき飛ばした。


「うお!?」

「あの物体は研究員を食べることで記憶をみてる! だから自分の弱点も知って――――」


 胃が浮くような浮遊感に襲われ、風香は床に空いた穴から奈落の底へと真っ逆さまに落下した。


 どれほど落下しただろうか。


 風香の体は、プールのように溜まった水の中へと着水した。


 水の中で、風香は様々な記憶がフラッシュバックした。


 トランプをして遊んだバスの中----。


 十一名の学生服を着た男女----。


 ロッジの中に折り重なるように積まれた死体----。


 猟銃で自分の頭を撃ち抜く教師----。


 満月が照らす雪原で、制服を着た女子学生が友達の首をもって笑っている――――。


『どうして!? どうしてなの――――ユリ!』


 記憶の中の親友は、三日月のような笑みを浮かべた。


「ぶは!」


 水から顔をだして立ち上がる。


 打ちっぱなしのコンクリートでできた壁や天井に、無数の配管が走っている。どうやらここは地下のようだ。


 三階からここまで落下して無事だったのは、腰の高さまで溜まったこの水のおかげだろう。


 気を失いかけたが何とか耐えた。仮に気絶していたら溺死していたところだ。本当に運がいい。


「そういえばあの人、排水管が遮断されているとかいってたわね……」


 行き場を失った水は地下で溢れて溜まっていたのだろう。


 そのおかげで助かった、と風香は胸をなでおろした。


「暗いわ……」


 地下の通路は点々と電球がぶら下がっているだけで、明かりが乏しい。


 耳をすませると、ごうんごうん、と音が聞こえてくる。


 ひとまず風香は音の方向へ向かうことにした。


 地下通路を進んでいると、不意に嫌な気配を感じた。


 振り返って見るが、相変わらずうす暗い通路が伸びているだけだ。


「……なんか、嫌な予感がする」


 風香はライターに息を吹きかけて水を飛ばした後、火をつけた。


 殺虫剤を構えて火に向かって噴霧する。


 巨大な炎の塊が壁を照らし、壁に張り付いた水色の物体をも浮かび上がらせた。


「そんなことだろうと思ったわよ!」


 風香は踵を返して走り出す。


 背後では物体が水の中に落ちる音が聞こえた。


 目の前には扉があった。取っ手に手をかけるが、全力で押してもなかなか開かない。


「水で重くなっているんだわ!」


 物体は水中に潜み、波を立てて風香に迫ってくる。


「くうううううううう!」


 ゆっくりと扉が開き、風香は隙間に体を滑り込ませた。


 室内は発電機室になっていた。非常用発電機が燃料を燃焼してタービンを回転させている。


 風香は扉を閉めるのは間に合わないと判断し、発電機によじ登った。


 完全に登り切って扉に視線を送る。


 扉は動かない。


 風香はライターと殺虫剤を構えて警戒する。


 次の瞬間、水が大きくうねり鮫の頭部が襲い掛かってきた。


 風香は炎を噴射して鮫の頭部をあぶると、鮫は奇声を発して水の中に引っ込んでいった。


「これは……不味いわね」


 水中に潜まれると居場所がわからない。発電機の上にいれば、もしも襲われても撃退はできる。


 しかし致命傷を与えることができない今の状況ではいつかライターも殺虫剤も切れてしまう。


 そうなったらもはや自分は俎板の上の鯉だと風香は思った。


 なにかアクションを起こさなければ。可能な限り早く、可能な限り効果的なアクションを。


 発電機の上から彼女は部屋の中を見回した。


 頭上には入り組んだ配管とエアダクトがついている。エアダクトは発電機に繋がっているようだ。恐らく、排気しているのだろう。


 なぜ排気だと思ったのか。風香は自分の直感の答えを模索し始めた。


 彼女には度々こういうことがある。直感的に答えを見抜くのだが、なぜそう思ったのかがわからない。そんな時はひとつひとつ順を追って自身の考えを確かめる必要がある。


 機械にはあまり詳しくはないが、この発電機は車と同じように燃料を燃焼させて発電させている。


 燃焼させるということは排気ガスが発生する。発生した排気ガスは外に逃がさなければならない。


 このエアダクトはそのためのものだ。


 そこまで思考を伸ばしたところで彼女はさらに気づいた。


 燃料を燃焼させているということは、燃焼させるには燃料が必要であるということに。


 ここには、燃料がある。大量の、可燃性の燃料が。


 風香は部屋の角にタンクがあることに気が付いた。


 タンクから伸びている配管は発電機に接続されている。


 あれだ、と彼女は理解した。


 問題はあのタンクの燃料をどう使うかだ。


 風香は逡巡し、意を決した。


「どうせ死ぬなら、やるだけやってやるわ」


 彼女は水の中に飛び込んだ。


 すぐに物体が水の中を泳いで迫ってくる。


 風香は水を掻き分けて配管に近づき、バルブを開いた。


 水中に赤褐色の液体が放出される。


 一仕事やり遂げた直後、水の中から鮫の頭が飛び出してきた。


 風香はすかさず殺虫剤の火炎放射器で攻撃した。


「邪魔しないでよ!」


 物体はまたしても後退した。


 風香は火炎放射器で牽制しつつ、再び発電機へと戻っていく。


 ところが、あと数メートルのところで殺虫剤が切れた。


「ちっ!」


 風香は空き缶を投げ捨てて発電機へと手を伸ばす。


 物体は今が好機と言わんばかりに迫ってきた。


 ぎりぎり発電機によじ登ったところで、風香はライターに火をつけて投げ捨てた。


 ライターが水面に触れると、水面に広がっていた燃料に火が付き一気に燃え広がった。


「ぎゃああああああああああああああああ!」


 鮫の姿をしていた物体は再び半液状の姿になり、発電機室の外へと逃げていった。


「やった! ……でもこれ、まずいかも」


 物体を撃退することには成功したが、このままではこの部屋が火の海になる。


 それどころか、あまり時間をかけると研究所そのものが燃えてしまうかもしれない。


 風香は水に飛び込み、水中を泳いで移動した。頭上では水面で燃える炎が見える。


 少しでも頭を出せばたちまち焼け死ぬか窒息死してしまうだろう。


 自分と同じように物体が水中に潜んでいる可能性も考えたが、その可能性は低いと思っていた。


 奴は水面で体をあぶられたのだ。すぐに襲い掛かってこられるほど回復していないはずである。


 風香の読みは的中し、なんとか発電機室の外にでることができた。


 通路を進んで階段に差し掛かり一階へと帰ってきた。


 すると地下から爆音が聞こえて、地下の階段から火の手があがってきた。


 次にささやかな光りを与えてくれていた足下灯が消え、研究所内は完全な暗闇になった。


「発電機が爆発したのね……やっちゃったかしら」


 風香は上着のポケットからキーホルダー付きの小さなライトを取り出した。いつ遭難してもいいように常に携帯しているものだ。


 地下は火の海だ。発電機の煙突から物体が外に逃げることはできない。


 だが炎は確実に上階まで浸食してくる。逃げられないのは、自分たちも同じだった。


「急がないと。まずは中央ホールであの人と合流しなきゃだわ!」


 風香は濡れて重くなった上着を脱ぎ捨て、中央ホールに向かった。


※  ※  ※


 冷凍庫の中には、いまだ物体の欠片が凍り付いたままだった。


 けれど、冷凍庫はもう動いていない。


 発電機が停止したのと同時に、コンプレッサーが停止したのだ。


 冷凍庫の内部は徐々に気温があがってきた。


 白っぽく凍り付いた物体の表面が徐々に透明感を帯びていく。


 ぱきり、と氷を砕き、氷の中から、物体がどろりと流れ出てきた。

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