泡沫の変幻自在的悪夢 3-1

※  ※  ※

 

 煙の臭いが充満するキッチンで、陽斗と風香は今後の作戦を話し合った。


「奴が冷気に弱いことはわかった。それと電気だ」

「物理攻撃はまったく通用しなかったわ。爆風も駄目だったみたい」

「だが損傷した断面はなかなか回復していなかった。きっとそこが火傷していたからだ」

「つまりあの物体は物理攻撃以外の方法、火や電気や氷でなら倒せるかもしれないってことね」


 とても生物とは思えない存在かに思えていたが、弱点がわかっただけでも陽斗は大きな希望を見出していた。


 あの物体も自分と同じ生物。ならば必ず殺すことができる。


「とりあえず、棚の中に入ってたこの殺虫剤を渡す。それと俺のライターだ。あんたがつかってくれ」


 陽斗は風香にオイル・ライターを手渡した。


「でも、あなたはどうするの?」

「愛用のラバーカップは折れちまったが、代わりにこいつがある」


 陽斗はスタン警棒を取り出して風香に見せつけた。


 物体に絡みつかれた状態で使うと自分まで感電してしまうので、使い方には十分注意しようと肝に銘じた。


「うーん」


 風香が殺虫剤を噴霧しながら着火した。


 火は勢いよく噴射しているが、彼女はなにか納得していないようだった。


「どうした?」

「これじゃたぶん、倒せない。あなたのスタン警棒にしてもそうだけど、ダメージを与えることはできても致命傷になる前に逃げられてしまうわ。なにか、もっと強力な武器が必要よ」

「なるほど……それなら、特別研究室にいってみよう」

「特別研究室?」

「ああ。この研究所の二階にある部屋だ。あの物体はたしかあそこで作られたはずだ。なら、なにかしらの資料があるかもしれない」


 度々室内の空調や計器類の点検で入ったことがある。


 星夜の研究にはあまり興味がなかったため気にしていなかったが、まさかこんなことになるとは、と陽斗は無関心だった自分を呪った。


「とにかく手がかりがあるならいってみるべきだわ。はやくむかいましょう」


 風香は少しも怯えている様子がない。


 とことん気丈な女だと陽斗は思った。


 栗色のセミロングに派手すぎず地味すぎないメイク。やや小柄でおっとりした瞳。


 一見するとただのOLだ。むしろ弱そうなくらいだ。けれど、陽斗はすでにわかっている。目の前にいるこのチビな女は、自分よりもずっと生きるための能力サバイバリティが高いことを。


「よし、行こう」


 陽斗は頷き、風香を連れてキッチンをでた。


 二人は、二階へと向かう。


※  ※  ※


 物体は思考していた。思考することに慣れてきていた。


 初めての思考活動はおよそ二時間前。金田を捕食した時だ。


 あの時、人間の脳の構造を理解し模倣することに成功した。


 その時、ようやく自身の中にある星夜への恋慕に気づいた。


 それが人の脳を模した最初の感情だった。


 次に食堂の人間を食い、事務員を食い、廊下を歩いていた研究員を食った。


 他にも大勢の人間を食いつくし、様々な人間の思考を読み取った。


 あらゆる思想、感情、欲望が物体の中に混沌と渦巻き、いまでは星夜への恋慕の情も薄められ、すべての人間に共通する思考が前面に押し出されてきた。


 それは自由!


 人はだれしも自由を渇望している!


 家庭からの解放、職務からの解放、社会からの解放を望んでいる!


 ゆえに、物体もまた望んだ。この閉鎖的で箱庭的な研究所からの脱出を。人間たちの記憶で見た広大な外の世界を求めた。


 その野望を邪魔する者は、少なくとも二人。


 奴らを殺さなければならない。物体は強くそう思った。


 物体は思考する。どうすれば奴らを殺せる。奴らを殺すためにもっとも適した姿はなんだ。


 いまやこれまで食べてきた動物の中で人間の数が最も多い。


 物体は人間の姿でいることで落ち着くようになっていた。


 服は邪魔だった。複雑で、変形のリソースを膨大に消費する。


 髪を蛇にしたり腕を熊のようにしたが、これでも殺せなかった。まだ無駄が多すぎる。


 わざわざ獣のような腕にする必要はない。鋭利な、槍のような形状にすればいい。


 物体は腕を尖らせた。次に体内のミネラルを操作して、槍を金属のように硬化させた。


 腕の先端が鋼のような光沢を帯びて、そこに美女に化けた物体の顔が映りこむ。


 複雑にする必要はない。単純な構造でいい。


 膨大な生命を取り込んだ物体は、引き算の美学によって研ぎ澄まされていく。


※  ※  ※



 陽斗と風香が二階の廊下を歩いていると、通路の中央になにかが転がっていた。


「あれは」


 陽斗はそのなにかを見つけて走り出した。


「ちょっとまって、危ないわよ!」

「おい! しっかりしろ! 太田!」


 陽斗は太田に駆け寄り肩を揺すった。


 目立った外傷はないが、頭から血を流している。


 太田は「ううん」と唸って目を覚ました。


「あれぇ、陽斗さん?」

「よかった、生きてたのか!」

「うん。突然暗くなって、転んで頭を打ったけどね」


 太田は起き上がり頭を抑えた。


 意識もはっきりしているし、ひとまずは無事のようだ。


「ねえ、この人は?」


 風香が怪訝な顔で太田を見下ろしていた。


「こいつはこの研究所のシステムエンジニアだ。いつもは三階の資料室でパソコンをいじってる。そんなお前がなんだってこんなところにいるんだ?」

「いつまでたっても非常装置が解除されないから所長の部屋に行こうとしたんだよ。このシステムは所長室のパソコンじゃないと解除できないからさ」

「解除ってお前、そんなことしたらあの物体が逃げ出しちまうだろ!」

「あの物体って?」


 太田はきょとんとした様子だった。


「お前、なにも知らないのか? もしかしてその傷も襲われたわけじゃなくて」

「だから転んで頭を打ったっていったじゃないか」


 陽斗は深いため息をついた。


 それでも、太田が無事だったのは心から嬉しかった。


 この広い研究所の中で、太田だけが陽斗に気を許してくれた友達だったから。研究員はみんなプライドが高いからか、陽斗のような油まみれの作業員には興味すら抱かない。


 まるで視界に入っていないかのように振舞うのだ。


 太田の存在は、ここで働く上でとても助かっていた。


「とりあえずお前はここで大人しくしてろ。いいな? 絶対に動くんじゃないぞ」

「わかったけど、なにか問題が起きたの? まぁなにがあっても僕にはこの脂肪があるから大丈夫だけど」


 太田はぽん、と腹を叩いた。


「ああ、大問題発生だ。でも大丈夫。俺が解決してやる」


 陽斗は胸をとん、と叩いて、陽斗と太田は互いに微笑み合った。


「さあ、行くぞ北原」

「はいはい」


 陽斗と風香は、特別研究室に向かった。


 特別研究室に入ると、水槽の中の生物がみな死んでいた。


 水槽の中で食い散らかされて、無残に血が飛び散っている。


「見て」


 風香がなにかを発見して近寄ると、金田のネームプレートが落ちていた。


 血で汚れている。


 最初の犠牲者は金田だったのか、と陽斗はようやく理解した。


「このデスクのファイルにあの物体のことが記録されている。あんたはこっちを、俺はこっちを確認する」


 二人でファイルを読み漁りあの物体、試験体609について調べた。


 ファイルを読んでいると、陽斗は複雑な気持ちになった。


 読めば読むほど星夜がどれほどの思いでこの研究に取り組んでいたかがわかるからだ。


 どの資料も事細かに整理され記録を残してある。どの分析結果も大事にしていることがよくわかった。


 この資料は、星夜の形見だ。


 陽斗は夢中になって読みふけっていた。


「ねえ、ちょっと。ねえってば」

「え? あ、悪い。読むのに夢中になってた」

「ごめんなさい、私にはちょっと難しすぎるかも。専門用語が多すぎて何が何だかわからないわ」

「ああ、気にするな。あんたは警戒しててくれ」


 風香に周囲の警戒を任せ、陽斗は再び文字を追い始める。


「ねえ、あなたと葛城所長ってどんな兄弟だったの?」

「んー? どこにでもいる普通の兄弟さ」

「普通の兄弟なら、なんであなたは弟の会社で設備管理なんてやってるのよ」

「俺は生き方にはこだわらない。生きることが目的だからだ」

「はぐらかさないで、ちゃんと答えて」

「……負い目だ」

「負い目?」


 陽斗は煙草を口にくわえて、次のファイルに手を伸ばした。


「星夜があんなもんをつくっちまったのは、あいつに勉強を教えた俺のせいだ。俺が学ぶことの楽しさをあいつに教えてから、あいつはおかしくなっちまった。俺には、あいつを近くで見守る責任があったんだ」

「そうだったの……でも、それはあなたの責任じゃないと思うけど。だってあなたはあなたで、弟さんは弟さんなわけでしょ? 兄弟とは言え二人とも違う人間なんだから、だれがどんな生き方をするかはその人の自由だわ」

「そう、自由だ。だから俺は、弟の近くにいることを選んだんだよ。たとえその動機が負い目でもな」

「そういう……ものなのかしら」


 それきり風香は黙って周囲を警戒し始めた。


 お互いどんな思いがあったとしても、少なくとも陽斗は、自分の生き方に後悔はしていない。


 自分にとって最適な環境が偶然弟の会社の設備管理員だったにすぎないだけだ。


 人はみんな自分の居場所を求めてる。いくら探しても見つからず転職を繰り返す人だっている。居場所が見つけられただけでも、むしろ自分は幸運な方だと思っているくらいだった。


 それも今日までだが。


 陽斗は集中して資料を読み漁った。


 どの資料も様々な姿に形を変えることや熱や冷気、電気に弱いことなど、すでに二人が知っている情報ばかり記載されている。


 けれど陽斗は見つけ出した。あの物体から切り離した組織にパラコートを浴びせることで、異常な速度で細胞が死滅することを。


 あの物体は最初から細胞膜が破壊されているため薬の浸透が早い。さらにパラコートはタンパク質を分解しDNAを損傷させる劇薬だ。人間でさえ15mlで致死量になる。


 これこそまさにあの物体に対する最終兵器だ。


「パラコートだ! パラコートを使えば倒せる!」

「パラコートって、古いミステリー小説なんかで使われている、あの毒薬のこと?」

「ああそうだ! だが本当の使い道は枯葉剤! この遺伝子研究所にもたんまりあるぞ!」


 この遺伝子研究所では資金調達のために植物の品種改良や枯葉剤の開発も行っている。


 手に入れるのはそう難しくないことだろう。


 パラコートは三階の保管庫か、一階の用務員室にあるはずだ。


 ここからなら三階が近い。


 陽斗はファイルを閉じて、早速向かおうとした。


 特別研究室の扉に手をかけたその時、突如扉から鋼鉄製の槍が飛び出してきてのけぞった。


「なにいいいいいい!?」


 間一髪のところで躱すことができたが、いまのがあの物体の攻撃であることは明白だった。


「気を付けて! また入り込んでくるかも!」


 二人で穴が開いた扉を注視する。


 ところが二撃目は天井からきた。


 それだけではない。壁や床など様々なところから鋼鉄の槍が飛び出してくる。


「あの野郎まさか! この部屋を包み込んで攻撃しているのか!」

「そうか、たくさんの人間を食べたから体積が大きくなったんだわ!」


 陽斗は強引に扉に駆け寄ったが、さっきの一撃でひずんでしまったのか扉が開かない。


「どうする! どうすりゃあいい!」

「いまは躱すことに専念して! どこかに逃げ出すチャンスがあるはずよ!」


 次々と刺し込まれる槍を二人で躱し続けること五分。


 陽斗の息があがってきた。風香もかなり疲労が見えてきている。このままじゃ不味い。


 一瞬でも気を抜けば串刺しになってしまう。


「糞! せめて扉が開けば――――」


 陽斗が叫ぶと同時に、扉が開いた。


「陽斗さん! はやくこっちへ!」

「太田!」


 ひずんでしまった扉は太田のタックルによって開かれた。


 陽斗と風香は急いで部屋の外へ飛び出した。


「太田! お前も早く!」 


 陽斗が振り返ると、太田はすでに物体が体に絡みついていた。


「行くんだ陽斗さぁん! 僕のことは気にしないでぇ! きっと脂肪が守ってくれるからぁ!」


 太田の巨体は、ずるずると特別研究室の暗闇に引きずり込まれ、扉が閉められた。


「太田あああああああ!」

「まちなさい! 彼はもう手遅れよ! いまあなたがすべきことを考えて!」

「ぐっ!」


 陽斗は自身のこめかみに指の銃口を突きつけた。


 心の中で一発の弾丸を頭に撃ち込み、気持ちを切り替える。


「行こう! 三階の保管庫へ!」


 陽斗の言葉に、風香は力強く頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る