泡沫の変幻自在的悪夢 2-2
「おええええええええええええぇ」
研究員の口からなにかが吐き出された。尋常ではない量だった。バケツの一杯や二杯などというものではない、バスタブ一杯分ぐらいの量を男が吐き出した。
口からだけではない。鼻や目、耳といった、顔面のあらゆる穴から吐しゃ物をぶちまけている。
男は吐きながらどんどん頬がやつれていく。二十代半ば頃だった顔は、最後には老人のように老けこんでいた。
男が吐ききると、彼は自身の吐しゃ物の中に沈んだ。
「嘘でしょ……」
ここは遺伝子研究所。なんらかの薬品や細菌を研究している場所。風香の脳裏によぎったのはウィルスや細菌の漏洩。
急いでこの場を離れなくては。
そう思った矢先、風香の視線の先で奇妙なことが起こった。
吐しゃ物が、蠢いている。
四方に広がった吐しゃ物は一点に集まり、中央がせりあがり、その姿を人の形に変形させていく。
その物体は、あっという間に黒髪の美女へと変貌を遂げた。
「うふふ」
美女は風香を見下ろしながら妖艶に微笑んだ。
風香は呆気にとられ、数歩後ずさりして、尻もちをついた。
ようやく目の前の異常事態に思考が追いついた時、彼女は全力で悲鳴を上げた。
「あははははははは!」
研究員の口から出現した美女は、甲高い笑い声をあげて伸縮自在の両腕で風香に襲い掛かってきた。
彼女の細い首に物体の手がかかろうとしたその時、ティー字路の横の通路から足音が迫ってきた。
「おおおおおおおおおおおおお!」
それは作業服を着た男だった。
黒髪を後頭部でまとめており、頬やあごには無精ひげが生えている。
男はラバーカップを美女の姿をした物体の顔面めがけて振り下ろしたが、物体は体を液体のように変形させると、ティー字路の奥へと床を滑るように移動して角の向こうへと姿を消した。
「おい、あんた大丈夫か!?」
男に肩を掴まれ揺さぶられた。
「い、いまのは?」
「わからねぇ。わからねぇが、あの物体は人間を襲うことだけはたしかだ」
視界の端には、まるで全身の体液を絞りとられたかのように干からびた研究員の死体が転がっていた。
「い、急いで逃げないと!」
「ああ、あんたは逃げろ。俺はあの物体を殺す」
「無理でしょ! いまの見たでしょ!? 人間の体内に入ってたのよ!? しかも笑ってた! 私をみて笑ったのよ、さっきのあれ! 危険よ!」
うまく言葉がでてこない。
風香が伝えたかったのは、笑うほどの知能があるということだ。
さっきの物体は、檻から逃げだした猛獣よりもずっと危険な存在なのだと目を見てわかった。
「それはわかってる。俺の弟も殺された。だから許せねぇ」
「弟さんが……あれ、あなた」
風香は男のネームプレートを見て気が付いた。
葛城陽斗。この葛城研究所の所長である葛城星夜と同じ姓だということに。
「俺はここの所長の兄貴だ。弟のケツは俺が拭かなきゃならねぇ。……あいつには借りもあるしな」
「借りって……?」
「あいつの机から金を盗んだり、飯をたかったり……あとは研究所の所員にセクハラもした」
「ごめんなさい、私、あなたのこと嫌いかも……」
風香はげんなりとした。
颯爽とあらわれたヒーローかと思いきや、この人はけっこうな駄目人間のようだ。
「別に好きになってもらう必要はない。ほら、さっさとそのデカい尻を上げて帰んな」
「で、デカくないですけど!」
風香は慌てて立ち上がって尻を隠した。
なんなんだろうこの人、嫌い。
風香は理屈ではないなにかを感じ取る。
「私一人じゃどこから帰ればいいのかわからないわ。道案内してもらえないかしら」
「いまそれどころじゃないんだ。俺ともっとおしゃべりしたいのはわかるがーーーー」
風香は陽斗の胸倉を掴んだ。
「おしゃべりしたいなんて微塵も思ってないし、あんたが忙しいとか私には関係ない! さっさとここから私を解放して! そのあとは化物対治でもなんでも好きにしてよ!」
「お、おいおいおい、落ち着けよ……わかった、わかったから」
陽斗が納得したことで風香は手を離した。
「私は北原風香よ。よろしく」
「俺は葛城陽斗。太陽の陽に北斗七星の斗で陽斗だ」
北原に陽斗。まるで北風と太陽。この人と仲良くなれない予感はますます大きくなっていく風香だった。
二人が名乗りあった直後、ティー字路の奥、先ほど物体が逃げていった方向から女性の悲鳴が聞こえた。
二人してその方向に顔を向けると、通路の奥からとてつもなく大きな胸の女性が脇腹を押さえながら肩を壁にこすりつけてこちらに歩いてきていた。
「たす……けて……」
どうやら怪我をしているようだ。
風香は反射的にその女性に駆け寄ろうとしたが、陽斗に肩を掴まれて彼を睨みつけた。
「なに!? はやく助けないと!」
「ちょっとまて。あんな巨乳、みたことがねぇ」
「ねえ本当になんなの!? このスケベ!」
「そうじゃねえ! 逃げろってことだよ!」
陽斗に手を引かれて女とは逆方向に走り出す。
「まって……まってよ、お願い……」
振り返ると、女はこちらに手を伸ばしていた。
悲痛な表情で助けを求める女と目が合い、風香は胸が痛んだが、陽斗の手を振りほどくことができない。
「まって……まって……あは……あはははははははは!」
悲痛な表情が獰猛な笑顔に変わったのは一瞬だった。
女の髪が無数の蛇となってこちらに牙を向いた。
女は背筋を伸ばして立ち、みるみる体が大きくなっていく。
天井すれすれまで身長が伸びていることから、ざっと二メートルはあるだろう。服は体に吸収され、いまは一糸まとわぬ姿だ。
体の変化は身長だけではない。両腕も、まるで熊のように大きくなり、四本の鋭い爪がそれぞれ生えている。
「まって! まって! まってえええええええええええ! あははははははは!」
がりりりり、と壁を爪で抉りながら追いかけてくる。
発達した大腿筋を躍動させ、迫ってくる。
「きゃああああああ! なんなのあれ! なんなのあれ! 髪が蛇なんだけど!? 腕が熊なんだけど! てゆーか、デカいんだけどおおおおお!」
「知るか! 俺に聞くんじゃねぇ! とにかく走れええええええ!」
中央ホールを通り過ぎ、陽斗が突然立ち止まった。
「なんで止まるの!?」
「こいつがあるからだ!」
陽斗が壁のボタンを拳で叩きつけた。
すると、廊下の天井から金属製のシャッターが降りてきて廊下を塞いだ。
「はぁ……はぁ……よく知ってたわね、あなた」
風香はシャッターを背にずるずると腰を下ろした。
「この施設で俺の知らないことはない」
陽斗は得意気に答えると、風香に手を差し出した。
風香がその手を握り返した瞬間、彼女の頭上に鋭い爪がシャッターを突き破って出現した。
「みぃつけた」
物体は無理やり爪をねじ込んでくる。
シャッターに開いた隙間から身の毛もよだつような笑顔を向けてくる。
「いやあああああああ! もうなんなのよおおおおお!」
「逃げろ!」
再び始まる追跡劇。
風香たちは食堂へと飛び込んだ。
食堂には無数の死体が転がっていた。
どれも、上半身や下半身など、体の大部分が欠損している。
まるで猛獣が食い散らかしたかのような光景に、隣に立つ陽斗が口を抑えた。
「うっ……こりゃひでぇ」
凄惨な光景にショックを受けている陽斗とは裏腹に、風香は冷静だった。
彼女は死体に慣れている。
物体が現れた時にはさすがに驚いたが、ちょっと損壊が激しいくらいの死体を見たところで動じることはない。
風香は、こんどは逆に陽斗の手を引いてキッチンへと進んだ。
「こっちよ!」
「お、おい!?」
ざっと周囲を見回して、風香は包丁を手に取った。
次にガスコンロのホースを次々と突き刺していく。
風香の考えがわかったのか、陽斗も「そういうことか!」といって、手首に巻いていた時計を外して電子レンジに放り込んだ。
「何分にする!?」
「三分!」
陽斗の問いに即答する風香。
彼女は全てのホースに切れ込みを入れると、包丁を床に投げ捨てて冷凍庫の扉をあけた。
「この中に! 早く!」
陽斗を誘導し、二人で冷凍庫の中に入る。
気温はマイナス二十度。いまは冬でそれなりに厚着をしているとはいえ長時間留まるには厳しい温度だ。
だが、あの時の寒さに比べればどうってことないと風香は自分に言い聞かせた。
「あんた、何者なんだ?」
小声で陽斗が問いかけてくる。
「どういう意味?」
「あんな死体を前にしても冷静だし、それにあの物体を見て慌ててはいたがパニックにはなっていなかった。普通じゃない」
「パニックにはなっていたわよ。悲鳴を上げるなんて私らしくもない」
「はぐらかさないでくれ。あんた、何者なんだ?」
「私は……ただの三流ゴシップ誌の記者よ。ただ十年位前に、大量殺人鬼が潜んでいる雪山で遭難したことがあるだけ」
「十年前……それに大量殺人鬼? それって、北海道で起きた、卒業旅行中の中学生を狙った大量殺人か?」
ずくん、と風香の胸が脈打った。
「ええ、そうよ。私はその生き残り」
その事件は計画性が高いものだった。
犯人は十数名の中学生たちが宿泊するロッジに侵入して次々と惨殺。
数人の生徒と引率の教師が夜の雪山に逃れるも、ほとんどは凍死し、一部は猟銃や刃物によって殺された。
犯人は猟銃の他にも雪山に様々な罠を仕掛けていたほか、暗視ゴーグルや赤外線センサーなどを用意しておりニュースではマンハント事件として連日取り上げられたほどだ。
最終的に犯人をロッジに誘い込んで火をつけた生徒がおり、その生徒のおかげで犯人は焼き殺され一人だけが生き残った。
その生き残りというのが、風香なのである。
「酷い目にあったんだな……」
「まぁね、仲の良い人たちだけで行った旅行だったし……。だからって同情しないで。あの事件は、私の中ではもう終わったことだから」
思えば、いまの会社に就職できたのは面接でこの事件の生き残りだと話したからだ。
編集長は、自分が危機的状況を乗り越えられる人材だと見越していたのかもしれない。
例えば、今回のような事件に巻き込まれる可能性を最初から想定したのではないだろうか。
答えは、いまはまだわからない。生き延びて、直接編集長に問いただすまでは。
「俺はあんたを尊敬するよ」
陽斗の真剣な眼差しになんと返事をすればいいのかわからず口ごもっていると、キッチンの扉がぶち破られる音がした。
二人で口に手を当てて静かにしていると、冷凍庫の外から足音が聞こえてきた。
不意に鍋や食器を破壊する音が聞こえて、二人とも体を硬直させる。
(まだなの……)
風香は心の中で呟いた。
足音が近づいてくる。
冷凍庫の前で止まった。
風香の心臓が、破裂しそうなくらい鳴っている。
次の瞬間、凄まじい轟音とともに冷凍庫が揺れた。
体が浮き上がって壁に激突したが、意識は失っていない。
耳はほとんど聞こえないまま、傍で倒れている陽斗を揺り起こした。
「起きて。はやく」
「う、うう……畜生、耳がいてぇ……」
二人で起き上がり、冷凍庫の扉を開いた。
キッチンは白煙に包まれており何も見えない。
「やったか?」
まだ聴力が戻っていないため陽斗の声が遠く聞こえる。
先に出ようとしたが、陽斗が前にでた。まるで騎士のようにラバーカップを握りしめて。
(どうにもかっこよく思えないのよねぇ、この人)
ドン・キホーテを先頭に一歩踏み出す。
すると、白煙の一部がうねった。
煙の中から水色の物体が飛び出してきて、陽斗の首に巻きついたのだ。
陽斗はとっさにラバーカップを振り上げるがそれもまた物体に絡み取られて折られてしまった。
白煙の中から姿を表した物体は、いまだ美女の姿だったが、体の右半分を吹き飛ばされている。
体の断面からどろどろした水色の内部が顔を覗かせていた。
風香は床に落ちていた鉄パイプを拾って物体の頭部に殴りかかった。
物体は防ぎもせず鉄パイプを受け入れた。その感触は粘土を殴りつけたかのような不確かさで、物体にもダメージがないように見えた。
「ぐっ、畜生……!」
「離しなさいよ! この! このぉ!」
いくら殴りつけても物体はまるで動じない。
このままでは陽斗が死んでしまう。
けれど、物体に異変が起きた。
物体の手が、陽斗の首をしめるために冷凍庫内に入っている部分が、凍り始めたのだ。
「そこよ!」
風香が凍り付いた腕を叩くと、凍り付いた腕はガラスのように砕けた。
「ぎぃいいいいいいい!」
物体は悍ましい鳴き声をあげて再び半液状の体になると、排水溝の中に逃げていったのだった。
解放された陽斗は首に巻きついた物体を冷凍庫の奥へと投げ捨て、胸ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「助かったよ」
「いいのよ。それより早くここをでましょう? いつまた襲われるかわからないわ。いえ、もう襲われないのかしら? 排水溝に逃げたってことは、そのまま下水道にでていっちゃったかも」
風香がそういうと、陽斗はふぅ、と紫煙を吐き出した。
「それはない。この研究所は特別製で、非常装置が作動すると排水管も末端で途絶される仕組みになっているんだ。俺たちにとってもあの物体にとっても、この研究所は金網デスマッチのリングってわけさ」
「そうなのね。でも出口はあるんでしょう? はやく連れてってよ」
風香は傍に落ちていた果物ナイフを手に取った。
損傷は激しくない。物理的な攻撃はあまり効果がないことはさっきの打撃で判明したが、念のため持っておくことにした。
「……なぁ、頼みがある」
「頼みって?」
「あの物体を殺すの、手伝ってくれないか」
「はぁ!? 私が!?」
「ああ、あんたとならやれる。俺はそう思う」
腕を掴んできた陽斗の力は強く、彼の決意を表しているかのようだった。
どうやら彼は本気だ。
でなければ、殺されかかったのにこんな目はできない。
どちらにしろ彼の協力を得られなければここから脱出することはできないのだから、風香は腹をくくることにした。
「わかったわ」
「なに?」
「あの物体の退治を手伝うって言ってるの」
「おいおい、そんなに簡単に決めていいのか? 俺がいっといてなんだけど、死ぬかもしれないんだぞ?」
「そーかもね。でもーーーーいい記事が書けそうでしょ?」
風香は悪戯っぽく笑った。
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