泡沫の変幻自在的悪夢 2-1

※  ※  ※



 トイレに詰まった糞と格闘すること一時間。


 陽斗は実に清々しい気持ちになっていた。


「ふぃー、今日のは大物だったぜぇ」


 ラバーカップをバケツに放り込んでトイレを後にする。


 資料室や保管庫が並ぶ三階の廊下を歩いていると、正面から息を切らして歩く巨漢がやってきた。


「あ、陽斗さぁん。お疲れ様まぁ」

「おお、太田ふとだか。調子はどうだ?」


 陽斗が気安く話しかけると、太田は恵比寿様のような顔をますますにっこりと歪ませた。


「毎日ご飯が美味しくて幸せですよぉ」

「だろうな、じゃなきゃトイレにあんな爆弾産み落とさねーもんな。快便でなによりだぜ」


 陽斗が親指を上げると、だっはっは、と二人して笑いあう。


「陽斗さんは巡回中なのぉ?」

「ああ、まだ仕事が残ってる。せっかく三階まで来たし、屋上の変電設備キュービクルの記録をとってから事務所にもどるつもりだ」

「そっかぁ。設備管理の仕事って大変じゃないのぉ?」

「大変かどうか、か……」


 陽斗は指を銃の形にしてこめかみに押し当てた。


 昔からこうすると考えがまとまりやすい。


 きっかけは映画ディア・ハンターで見たロシアンルーレットで、そのシーンのあまりの緊張感に感化され、なにかを考えるときはこうすることで緩んだ思考のネジを引き締めることができるのだ。


 設備管理の仕事はとにかく歩く仕事だ。


 まず施設内の全ての空調機を毎日チェックしなければならない。空調機の役割は人が働きやすい環境を作ることにも使われるが、研究所においてはむしろ機械の放射熱を制御し、オーバーヒートしないように一定の温度を保つために使われることの方が多い。


 または空調機の不具合で結露水が漏れ出していた場合は、機械をショートさせてしまう原因にもなるため実はかなり重要度が高い仕事だ。


 排水板ドレン・パンの清掃やファンモーターの交換など、簡易的な修理を自分で行うこともあるため、知識と技術も必要である。


 それと照明の管理。例えばフィラメントが切れてしまった電球の交換なのだが、照明は時に漏電といった事象を引き起こす。


 漏電するのはスタンドライトのようにアームが動くタイプの物が主で、ほとんどはケーブルの損傷が原因だ。


 漏電に関してはフロアごとに漏電検知器が設置されているため、すぐにわかるのだが、問題はどこで漏電しているのかを特定することだ。


 なにせ電気は目に見えない。見えないものがどこから漏れているのか特定するには長年の経験で培った勘や電流計クランプメーターの正しい使い方を理解していなければならない。


 さらに給排水設備も設備管理の仕事の一つ。トイレの詰まりや手洗い場の整備。時には配管交換も行う。はっきりいって汚れ仕事だ。


 他にも火災報知機や散水栓などの消火設備の管理、非常用発電機ジェネレーターの管理、空調機の本体である冷温水発生機の管理、各所に入るための鍵の管理などなど様々な管理項目がある。


 業者を呼べば見積書の作成や注文書の発行、月末の出費報告書のまとめ、経年劣化具合から機械の交換時期を算出したり、新規で機械を取り付ける際には熱不可計算ーー室内の広さに応じた空調能力の計算ーーや揚水ポンプの容量の計算など、数字に関する業務も多岐にわたる。


 業務内容は膨大かつ責任が重大ではあるが、給料が安くまた施設内をひたすら歩き回るため肉体労働の側面も持っている。


 オマケにドライバーやモンキーレンチといった工具が入った道具袋を腰に巻いているため、重りをもって歩いているようなものだ。警備員も兼ねている陽斗は、工具の他にもスタン警棒などの防犯用具も携帯している。


 まさに薄給激務という言葉がお似合いな仕事だ。


 陽斗は手を銃の形にしたまま、太田に人差し指を向けた。


「ま、大変っちゃ大変だな。忙しいのに給料安いし」


 ほんとうに、もう少し給料がよくてもいいと思っている。


「給料安いんだ?」

「まぁな。設備管理ってのは直接利益を生み出す仕事じゃない。いくら施設を最適な状態に保ったって、その施設で作ったものが売れなきゃ俺の仕事も意味がないのさ」

「そんな仕事、楽しいのぉ? なんか、研究員の稼ぎに便乗してるだけな気がするけど」

「楽しいさ。それに便乗してるわけじゃない。設備管理は、そこで働く人たちを支える仕事なんだ。みんなに頑張れよってエールを送って、遠くから見守る仕事ってこと」

「ふーん、そうまでして僕らを見守りたいのぉ?」


 陽斗の脳裏に星夜の顔がよぎった。


 星夜はどこか危ういところがある。


 昔から純粋で自分の興味があることに対しては愚直なまでに執着する癖があるのだ。


 高校まで勉強に興味がなかったため成績はよくなかったが、陽斗は彼の才能を見抜いていたため、彼に勉強を教えるときは理屈っぽく説明するのではなくとにかく勉強が好きになるように誘導し続けた。


 その結果、星夜は兄である陽斗をもしのぐ天才へと成長したのだ。


 そのあまりの熱心さに、陽斗は喜ぶどころか恐怖すら覚えた。


 日がな一日書籍を読み漁り、暗い部屋の中で茸のように過ごす弟を見て、陽斗は自分がしたことが正しかったのか疑問を抱くようになった。


 もともと教師を目指していた彼は、次第に自分の教育理論のせいで弟の人生を捻じ曲げてしまったのだと思い込むようになっていった。


 その考えが彼を苦しめ続け、そしてあの劣等生の星夜が首席で大学に入学したと同時に陽斗は大学を去ったのだった。


 大学に入学してから星夜の勉強癖はいくらかおさまった。


 けれど、いまでもまだ危ういところがある。


 どうやって資金を調達したのかはわからないが、あの年でこんな立派な研究所をもち、まるで我が家のように寝泊りして一日中研究室にこもっている。


 健全であるはずがない。


 仕事がうまくいっていなかった時に星夜の方からここへこないかと誘われたときは、正直なところ悩んだ。


 間近で星夜を見ることは自身の後ろめたさを直視することだったから。


 それでも陽斗は星夜の傍にいることを選んだ。


 それが兄の責任だと思ったからだ。


「ああ……どうしても見守りたい奴がいるんだ」

「そっかぁ、じゃあみんなを見守っている代わりに僕が陽斗さんを見守ってあげるよぉ」

「おお、そうか! じゃあ俺の働きぶりをしっかり見ててくれよな!」

「うん! またトイレが詰まったら呼ぶねぇ!」


 そう言い残して、太田はのしのしと歩き去っていった。


「……また詰まらせるつもりなのかよ」


 太田の返事に呆れながら、陽斗は屋上に向かった。


 変電設備の計器類を確認して記録をとる。


 記録をとっている最中に、妙な音が聞こえた気がした。


「なんだ? 悲鳴、みたいだったけど」


 耳をすませてみる。


 やはり、聞こえた。


 しかもその声は星夜に似ている。


「星夜……?」


 陽斗は早速走り出そうとしたが、立ち止まり、バケツに放り込んでいたラバーカップを手にもって再び駆けだした。


 エレベーターを待つ時間がわずらわしいので階段を駆け下りた。


 屋上から三階、三階から二階。二階の廊下に飛び出し、グレーのパネルマットの上を走る。


 南の角部屋である所長室の前についた。


 扉の前に立つと、足元のマットが濡れていることに気が付いた。


「なんだぁ、こりゃあ?」


 靴の裏を指でこすってみる。水ではない。親指と人差し指の間で糸を引いている。なんらかの粘液のようだ。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 突如、扉の向こうから絶叫が聞こえた。


 星夜の声だ。だが陽斗は、いまだかつて星夜のこんな声を聞いたことがない。


 それどころか、こんな声を出す人にだって遭遇したことがない。


 いったいどれほどの苦痛を味わえばこんな地獄の底から響くような叫び声が出せるというのか。


 陽斗は腰に結着していた鍵束を手に取り、二階のマスターキーで所長室の扉を開いた。


「なんだよ、これ……」


 扉の向こうの景色に、陽斗は絶句した。


 上半身裸の金田が、いや、上半身だけの金田が星夜に襲い掛かっている。


 下半身を水色の物体に覆いかぶされた星夜は、口から泡を吹いて倒れている。


 陽斗は考えるよりも早く、動き出した。


「うおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 雄たけびをあげて果敢に腕を振り上げる。


 金田らしき物体が陽斗に気づいて振り返った。


 直後、物体の顔面にラバーカップが押し当てられた。


「俺の! 弟に! いったい! ぜんたい! なにしてくれてんだこのビッチがあ!」


 がっぽんがっぽんがっぽん、と容赦なくラバーカップを上下に振るう陽斗。


 あいてが下半身が融解した上半身裸の美女だろうと微塵も躊躇することはなかった。


 物体はラバーカップによって顔面に空気を送り込まれて飛び散っていく。


「おらおらおらおら!」


 容赦なく攻め続ける陽斗だったが、物体は両手でラバーカップの柄を握りしめて抵抗した。


 攻撃が止んでしまうが、陽斗は力づくで押し込もうとした。


 ところがその時、物体の脇の下が細く変形し、頭部を蛇の形に変えて陽斗の首に噛みついた。


「ぐあ! ってぇな糞が!」


 陽斗はラバーカップを手放して首にかみついた蛇を引きちぎり、今度は腰に差していたスタン警棒を取り出して物体の鳩尾に押し当てた。


 持ち手のスイッチを押し込むと、チチチチチ! という炸裂音とともに物体がのけぞった。


 物体は瞬く間に溶解して、床をはいずり、壁をよじ登ってガラリをぶち破って通風孔の中に逃げていったのだった。


「はぁ……はぁ……なんだったんだありゃあ……」

「兄……貴……」

「星夜!」


 陽斗が駆け寄るも、星夜はすでに瀕死だった。


 腰から下は火傷になったように爛れている。


 よく見ると腹部には穴が開いており、内臓らしきものがはみだしていた。


「星夜! しっかりしろ星夜!」

「兄貴……非常装置を……机の下の……」

「馬鹿野郎! それよりお前を病院に連れて行かないと!」


 陽斗が星夜を抱きかかえようとすると、胸倉を掴まれた。


「駄目だ……あれを外に出しちゃ駄目なんだ……僕はもう、駄目だ……だから、兄貴……僕の代わりにあれを……あの物体を……殺してく……れ……」


 星夜の手から力が抜けて、ぱたり、と床に落ちる。


「兄……貴……これだけはいっておく……僕は、あの生物を作れて……研究に没頭できて……幸せだ……った……」


 星夜は、死んだ。


 陽斗は拳を握りしめて震えた。


「う……ぐ……おおおおおおおおおおおお! なんでだよ! なんでお前が死ななきゃならないんだ! ぐ……糞お!」


 陽斗は自分を殴りつけた。


 そして銃の形にした手をこめかみに押し当てた。


「落ち着け落ち着け落ち着け。冷静になるんだ。やるべきことを考えろ」


 非常装置----クリアになった頭の中にまっさきに浮かんだのはその言葉だった。


 陽斗は転がる様な勢いで今朝金を盗んだデスクに駆け寄り、机の下を覗き込んだ。


 そこには赤いボタンがついていた。


 陽斗は迷わず押し込んだ。


 瞬間、けたたましいサイレンが研究所内に鳴り響いた。


 所内の各所に設置されていた回転灯が赤い光りを発している。


 次に窓や出入口がすべてシャッターによって塞がれた。


 これでだれも出ることはできない。


 それは同時に、だれも逃れることはできないということでもあった。


「星夜……」


 陽斗は星夜の亡骸を見下ろした。


 あまりにも無残な死にざまに、数秒しか見られず顔を背けた。


「お前の仇は、俺が必ずとってやるからな……」


 陽斗は天井の通風孔を睨みつけた。


 その先には、終わりの見えない暗闇が広がっていた。


※ ※ ※


 午後四時半。取材が終わってから、風香は星夜に勧められた食堂に足を運んでいた。不本意ながら、だが。


 ここは郊外の山の麓。近くに飲食店の類はなく、あるのはせいぜい異様に値段が高い給油所や聞いたことがない名前のローカルなスーパーくらいなものだ。


 風香が求めていたような蕎麦屋などもってのほかで、ここに住む人々はいったいどうやって生活しているのか気になるくらいだ。


 同時に、わざわざこんな場所に研究所を建てた理由も気になった。


 あえて人目を避けている。そんな意図を感じた。


「さーて、どんなお味かなー」


 その疑問の答えを知ることができるチャンスはすでに過ぎ去った。


 いま風香の頭のなかにあるのは、目の前の盛り蕎麦の味だけだ。


 つゆに浸して、ずずっ、と小気味よく麺を啜る風香。


 実家のほうが美味いわね、と心の中で鼻を高くした。


 許せないほどではなかったため十分ほどで完食。蕎麦湯まで堪能して一息ついた。


「はぁー、記事どうしよっかなー」


 腹が満たされたことで思考は自然と他の満たされないことへ向けられた。


 星夜の取材で得た情報は、彼が人並みに苦労したことと、人並み以上の幸運に恵まれたことくらいだ。


 若き努力家で実力もあった彼に、編集長が資金を貸し付けた。


 その後は順調に農薬の開発や植物の品種改良などで事業の規模を拡大。経営状況は実にまっとうで投資家にとっても魅力的だろう。


 だがそんな表向きの顔に、風香は興味をそそられなかった。


 秘匿性の高い住所、所長である星夜が発した新生物という言葉、なにより編集長がお金を貸したという事実。


 あまりにも引っかかる点が多すぎる。


 特に三番目だ。編集長は金貸しのヤクザではない。見た目もやり口もヤクザそのものだが、心の底から超常科学を求める求道者シーカーだ。


 その彼が星夜の研究のために資金を調達し、研究を進めるように促したということは、この研究所でなんらかの超常科学が発生すると予想したからに違いない。


 とはいえ風香はいまだかつて超常科学などというものをみたことがない。


 本当にそんなものが実在するのか、それさえもわからない。


 わからないし、実はあってもなくてもどっちでもいいと思った。


 自分はただ取材をして記事を書くだけ。それが仕事でそれで給料をもらっている。


 その内容が編集長の求める情報とは違っていたとしても、風香の目を通したこの研究所のありのままの姿を書くしかない。


 編集長は売れる記事を書くなとはいわない。嘘は書くなとしかいわないのだ。


 ならばその指令オーダーを犬のように忠実に遂行するまでである。


 考えるだけ無駄。はやく帰って草稿を書こう。早めの夕食を終えて風香が立ち上がると、突如窓のシャッターが降りてきた。


「は? え? なに?」


 動揺したのは風香だけではなかった。食堂を利用していた数人の研究員たちもざわついていた。


「お、おい、これって……」

「コード・レッドじゃないか……?」

「嘘でしょ、ね、ねぇ、だれか、所長に連絡してよ……」


 明らかに異常な様子に、風香は彼らに歩み寄って尋ねた。


「ねえ、なにがあったの?」

「え? あ、いや、それが我々にもわからないんだ。すまない」

「そう……」


 研究員たちは風香など蚊帳の外でああでもないこうでもないと話し始めてしまった。


 風香は食べ終わった皿の乗ったトレイを返却窓口に返すと、頭を付き合わせている研究員たちを尻目に食堂を後にした。


 廊下も全ての窓が塞がれていた。


 これは不味い状況かもしれない。


 風香は早足で正面受付を目指した。


 廊下を抜けて、額縁に入れられた太陽や風車の絵が飾られた中央ホールにでる。


 中央ホールから南側に進むと受付がある。受付の向こうで事務員が電話対応に追われているのが見えた。


「すいませーん。……いまは無理か……あの、入場許可証をここに置いときますねー」


 窓口に入場許可証を置いて出入り口に向かう。


 出入り口にはシャッターが下ろされていなかったが、取っ手を押しても引いても開かない。


 ガラス張りの観音扉の向こうには夕日に照らされた森が見える。ほんの数十メートル先の駐車場には、風香の赤いクーパーも見える。


 だが、そこまでたどり着くことができない。


「もう、ほんとにどうなってるのよー。とりあえず警察に電話……あれ、嘘でしょ? スマホがない! ……へ?」


 一瞬、照明が切れた。


 次に非常電源が作動したのか足下灯がついた。


 いましがた歩いてきた廊下を振り返ると、真っ暗闇を橙色の光りがぼんやりと照らしている状態になっていた。


「ちょっとちょっと、なんなのよこれ……ねぇー! すいませーん! 外にでたいんですけどー!」


 窓口のカウンターを叩いて事務員の中年女性に大声を張り上げる。


 中年の事務員は受話器を片手で押さえて「いま取り込み中だから―。ごめんねぇ」といって再び電話対応にもどった。


 なんなのよもう、そんな気持ちを表すかのように、風香は口を尖らせた。


「ん?」


 妙な音が聞こえた。


 空調の音ではない。もっと本能的に恐怖を感じるような音。いや、これは声だ。


 悲鳴や呻き声が織り交ざった無数の声が廊下の奥、食堂方面から聞こえていた。


「な、なんなの……?」


 風香が額に汗を浮かべていると、ぴたり、と声が止んだ。


 次に天井からなにかがものすごい勢いで移動する音が聞こえ、風香はとっさに頭を抱えて屈んだ。


「きゃあ!? なに!? ね、ねずみ!?」


 天井を見上げて目を瞬かせる風香。


 彼女の背後で、窓口の奥にいる事務員がふわりと宙に浮いて音もなく天井に吸い込まれていく。


「ねえ、いまの聞きました!? ぜったいなにか変ですよね……って、あれ?」


 風香が振り返るも、窓口の向こう側にいたはずの事務員の姿がなかった。


「おっかしいなぁ……」


 窓口の中に身を乗り出して中を伺うが、やはり事務員の姿はない。


「ぎゃああああああああああああ!」

「ひぃ! な、なに!?」


 さらに体を押し込もうとしたとき、食堂とは反対側の廊下から叫び声が聞こえた。


 びくりと身を震わせて体をひっこめる風香。廊下の奥を覗き込むが、人の姿はなく、足下灯がぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる廊下が伸びているだけだ。


「だれか、階段から落ちたのかな……」


 風香は廊下の奥へと進むことにした。


 受付の下に赤い靴が片方だけ転がっていたが、彼女がそれを見つけることはなかった。


 廊下を進んでいくと、ティー字路にさしかかった。


 その角の中央に、膝を抱えてうずくまっている研究員を見かけて風香は駆け寄った。


「あの、大丈夫ですか!?」


 風香が駆け寄るも、研究員は親指の爪を咥えたまま動かない。


 なにかに怯えているようで、がたがたと震えている。


「こ、声が聞こえるんだ。だ、だ、誰だ? 君は? 俺? 俺、か? は、ははは、嘘だ。この声は……この声は、俺の中から……」


 しきりに独り言を呟いている。


 風香は研究員の白衣がなにかで汚れていることに気が付いた。


 乏しい灯でははっきりとわからないが、直感的に、これは血ではないかと感じた。


「あの?」


 風香が研究員の肩に手を触れようとしたその時。


 研究員は「うぷっ」と呻いて頬と喉を膨張させた。

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