泡沫の変幻自在的悪夢 1-3
※ ※ ※
星夜が取材を受けている間、金田は彼に任された物体の観察を続けていた。
物体の主な成分はタンパク質。それとナトリウム、マグネシウム、リン、鉄、その他のミネラル。実は水分の含有量は見た目ほど多くなく、全体の六十パーセント程度。人間と同程度だ。
その生態はアメーバなどの単細胞生物よりもタコのような軟体動物に近い。
実際にこの物体は単細胞生物ではなく多細胞生物だ。生命体として不完全であるがゆえに、細胞同士の結合が弱いので肉体が半液状になっているのである。
人間に例えるならそれは、全身の細胞膜が破れた状態で活動しているのと同じだ。
この物体には人間と同じく、消化器官も備わっているし、脳も存在する。金田達研究員は核と呼んでいるが。
この物体は様々な擬態能力を持つ生物の遺伝子を解析し融合させた新生物。
ゲノム編集技術によって生み出された、いわば科学の結晶だ。
生命としては不完全であるためほとんどの固体は死滅したが、このサンプル609《シックス・オー・ナイン》だけは半年以上も生命活動を持続している。
それどころか日々擬態能力を成長させ、知能までもを獲得し始めている。
この物体は獲物を包み込んで消化する。そのさいに対象の形状を覚えて擬態を可能にする。
単に擬態するだけではなく、一度覚えた形状は他の形状と組み合わせて発現した例もある。
たとえば、蛇の尻尾をもつ猫とか。
知能も現在はチンパンジー程度まで発達している。物体そのものの成長もあると思われるが、どうも消化、吸収した対象の脳細胞の連結を学習し模倣することで自身の知能を向上させているようだ。
学習高原も段階的に進んでおり、すでに三歳児程度の知能を持っていると推測されている。
生後半年で人間の三歳児と同程度となると、恐ろしいほど成長速度が早い。
「まるでアルジャーノンのようね、あなた」
金田は水槽の向こうにいる物体に語り掛けた。
すると物体は再び金田の顔を作りだし、それがまるで笑っているように見えて金田はぞっとした。
金田はハンディカメラとバインダーを置いて深呼吸をした。
いつまでもこんな気色の悪い物体を眺めていたら夢に出てきそうだと思った。
少しでも気持ちを穏やかにしたいと考え、彼女は星夜が普段から使っているデスクに腰掛けた。
ぎっぎっ、と背もたれに体重をかけ、今度はデスクにつっぷして鼻から息を吸った。
香ってくるのは消毒液の香りだけだったが、不思議と心が落ち着いた。
落ち着きすぎて瞼が重くなってきた。
このまま少しだけ眠ってしまおうか。いいや、仕事しなくちゃ。彼のためだもの。
金田にとって星夜は人生の質を向上させるために必要なパーツだ。
かつて金田は虐められていた。
けれどいつも見返してきた。
頭が悪いと言われれば猛勉強して、運動音痴だと言われれば鍛錬に励んだ。
不細工だと嘲笑されれば整形さえも躊躇わなかった。
あらゆる欠点を潰してきた自分には、星夜のような若くして成功したパートナーがふさわしいと思っていた。
悶々と過去を振り返っていると、彼女の背後の水槽の蓋が開いた。
ゆっくりと、横にスライドしていく。やがて水槽の蓋は落下。けれど地面に落ちる寸前でなにか《・・・》がぶつかるのを阻止した。
そのなにかは丁寧に水槽の蓋を床に置いた。
「はぁ……先生……星夜先生……」
甘い声で想い人の名を囁く金田の足元に、水色の物体は音もなく這いよって行く。
金田は足首に冷たい感触がした途端に飛び上がった。
「きゃっ――――うぐ!?」
物体の動きは凄まじかった。
それまでの緩慢な動きからは考えられないほど俊敏にその物体は金田の体を這い上がり口を塞いだ。
「ごぽっ! ごぽぽ!」
呼吸をしようにも口から出てくるのは気泡ばかり。それどころか、物体は徐々に金田の口から体内に入り込もうとしてくる。
「がぽっ……」
呼吸を止められ、金田が白目を向いた。
全身から力が抜けて、椅子にもたれかかる。
放たれた尿までもを啜り、物体は、金田を包み込んだ。
物体と金田は大きな一つの塊になり、やがてその姿を変貌させていく。
すらりと伸びた足が生え、白枝のように華奢な腕が生え、豊満な乳房とさくらんぼのような乳首がぴんとたちあがる。
隙のない腹部のラインから脂肪が乗った臀部へと形成されていく。
人体の中でもっとも複雑な顔面は時間がかかっていた。
それでも物体は金田の切れ長の瞳を再現し、高い鼻と形の良い唇を作り出した。
背中の中央まで伸びた長い黒髪に関しては、もはや本物以上の艶があった。
肉体の模倣が完了してから、物体は彼女がつけていたルージュやアイラインを再現し、次に肉体から服を作り出していく。
そうして、物体は金田へと姿を変えた。
※ ※ ※
所長室にもどってデスクの安全装置を外し引き出しをあけた。
中に入れておいた十万円が七万円になっている。
嫌な小人もいたものだ。どうせなら靴屋の小人のように、いま抱えている山のような資料をまとめてくれればいいものを。
以前、それとなく金を盗んだことを問いただしたら、陽斗は「開けられる鍵だったからてっきりもらっていいと思った」などとのたまった。
それから星夜はより難しい仕掛けを施し、陽斗がそれを突破する関係ができた。
これはある種のゲームだと星夜は思っていた。
わざと金を盗んだり盗ませたりしているのは、お互い大人になってしまった兄弟の不器用なコミュニケーションなのだ。
目減りした金を眺めるこの時間は、星夜にとって兄との繋がりを実感できる貴重な時間だ。
それは酷く歪で、人に胸を張れるような代物ではないけれど。
「昔は頼りがいのある兄貴だったんだけどなぁ」
星夜は遠い昔の記憶を振り返る。
星夜は、いまでこそ研究所の所長という立場にいる。大学ではかなり優秀な成績を納めており、大学側から教員になるようにスカウトされたこともあるほどだ。
けれど昔は違った。
高校生までの星夜は勉強が苦手だった。数学に関しては繁分数の計算さえできないほどだった。
そんな彼に勉強のコツを教えて大学に入学させたのは、他でもない陽斗その人なのだ。
陽斗は昔から頭が良かった。運動もできたし、人望もあった。
星夜にとって憧れの兄だったが、彼にとって陽斗がヒーローのような存在だったのはあくまでも高校までの話だ。
星夜が大学に入学すると同時に入れ替わるように退学した陽斗は、キャバクラのキャッチや交通誘導の仕事などで生活をしていた。
そういった仕事が悪いわけではないし、非難するつもりもない。
けれど星夜は、毎日汗まみれになって働く陽斗の姿がどうしても似合っていないと思っていた。
四度目の仕事をクビになった陽斗を研究所で働かせているのも、他でこきつかわれるよりマシだと思ったからだ。
自分の近くにいれば、また昔のように頼りになる兄貴に戻るかもしれない。
そんな思いからだった。
しかし現実は金をたかり飯をせびり仕事はサボってばかり。
一度本気で真面目に働けと訴えかけたことがあったが、陽斗曰く「俺は生き方にはこだわらない、生きることだけに専念しているだけさ」といってまともに取り合ってはくれなかった。
星夜はここ数年で陽斗に対して幻滅しきっていた。
むしろ陽斗は、わざと星夜が幻滅するように振る舞っている気さえする。
星夜には陽斗がわからなかった。
兄としてのプライドはないのか、人としての尊厳はないのか。
トイレに詰まった糞と格闘する日々で本当に満足しているのだろうか。
陽斗ならもっと高い場所に行けるのに。自分より高い場所にいて欲しいのに。
結局のところそれが、日々のプレッシャーに押しつぶされそうな自分への言い訳だと星夜は気づいていた。
自分は頼れる誰かが欲しいだけなのだと、気づいていたのだ。
星夜が行っている実験は自然界の法則を大きく乱しかねない禁忌。
銃弾も刃物も効かない生物兵器。敵に擬態して潜入し、内部から殺戮を実行する恐るべき兵器。
すでに裏の取引では破格の値段がつけられている。スポンサーも各国の軍部やテロリストばかり。
いまこの時点ですでに明日の命も危うい身だ。この
そういったリスクを承知の上で星夜はこの実験に取り組んでいる。
この実験が完成したところで称賛されることはないことくらいわかっていた。
むしろ生命を弄ぶ行為は神への冒涜として批難されることだろう。
それでも彼は実験をやめられない。一度目覚めてしまった知的好奇心は止められなかった。
自身をこれほどまでの狂科学者にしたきっかけは間違いなく陽斗だ。
陽斗が自分に勉強のコツを教えなければ、学問の面白さを、探求することの奥深さを教えなければここまでくることはなかった。
だからこそ星夜は陽斗に固執する。
責任をとって自分の研究を支えて欲しいと願う。
どれほど嫌っても心のどこかでは頼ってしまっている。
いくら幻滅しても彼を傍に置こうとするのは、兄に対する歪んだ執着からだった。
「しっかりしなくては」
両手で頬を叩き気合を入れる。
あの人を頼ろうとするな。頼るなら自分だ。そう言い聞かせる。
気を取り直して資料をまとめようと思った矢先、所長室の扉がノックされた。
「先生……私です……」
「金田さん? どうしたんだい?」
もしや物体になにか異変があったのだろうか。星夜は急激な不安に襲われた。
「先生……入れてください……扉が開きません……」
所長室の扉は設備管理員がもっているマスターキーかパスワード出なければ開かない。
金田がそのことを知らないはずはないのだが、と星夜は気になったが、声の調子が可笑しいことも気になった。
もしかしたら体調を崩しているのかもしれない。
「扉の横のコンソールにパスワードを入力して」
「いくつですか……」
パスワードまで忘れてしまうとは、いくら何でもおかしい。
星夜の脳裏にあるひとつの恐ろしい仮説が浮かんだ。
「……金田さん」
「なんですか、先生……」
「君は……本当に、金田さんなのかい?」
「…………」
室内が静まり返る。
「金田さん……?」
いつまでたっても返事がない。
星夜は椅子から立ち上がり、扉に近づいた。
そして扉に耳を押し当てようとしたその時、扉が激しく叩かれた。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! 先生! 先生! アハ! アハ! アハハハハハハハハハハハハハ!」
「う、うわあああああああ!?」
星夜は驚いて尻もちをついた。
痛みが走る腰を気にするより、少しでも扉から離れようともがいた。
扉は激しく叩かれている。いまにも壊れてしまいそうなほどに。
甲高い笑い声も続いている。鼓膜に刺さる様な、不快な音で。
「や、やめてくれええええええええ!」
星夜が叫んで頭を抱えると、ぴたり、と音が止んだ。
「はぁ……はぁ……」
全身から脂汗がにじみ出ている。
なのに脊椎に氷水を流し込まれたかの様な寒気がする。
星夜はなぜ音が止んだのか気になった。
恐る恐る、床に頬をつけて、扉の下の隙間から向こう側を覗き込んだ。
すると、隙間の向こうから、大きなガラス玉のような瞳がこちらを覗き込んでいた。
「ひぃ!」
星夜が短い悲鳴を上げた直後、扉の隙間から物体が入り込んだ。
物体は星夜の足に絡みつき、脛を、腿を、信じられないほどの力でへし折った。
「ひぎゃあああああああああ、うううううううぅぅ……」
あまりの痛みに呼吸ができなくなり悲鳴は萎んでいく。
物体は星夜の体の上で、徐々にその姿を変貌させていく。
「先生……」
その姿は金田だった。
上半身だけが裸の金田の姿となり、臍から下はどろどろの半液状の物体が星夜の下半身を包み込んでいる。
消化液によって肌が焼かれ熱を帯びてくる。
下半身の激痛と洗浄的な眼差しを向けてくる金田の妖艶な姿が同時に星夜に襲い掛かり、彼は半ばパニックに陥っていた。
「あ、か、金田さ……助け……」
朦朧とした意識の中でそれが本物の金田ではなく物体であるにもかかわらず星夜は金田ならざるものに救いを懇願した。
「ああ、先生……先生……先生……」
物体は星夜を呼び続ける。
結合した股間部分に物体の体組織が集まっていく。
溶解した服の下で、星夜は自身の大事な部分に異変が起きていることがわかった。
固いなにかがあてがわれている。まるで口のようなものに包まれているかのようだ。
歯のようなものまで感じられる。歯のようなそれは、星夜の大事な部分を上下から挟んでいる。
「ああ、先生! 先生! 先生! 私は先生が欲しい《・・・》」
物体が嬌声を上げると同時に、星夜の大事な部分から、ぶつん、という繊維を嚙みちぎる音が鳴った。
「ああああああああああああああああああああああ!」
星夜の絶叫が室内に響く。
「あああああああ! 先生! 先生はもうなにもかも私のものよ! 細胞の一片までもが私のものなの!」
金田の姿をした物体は頬を染め、悶えるように両手を頬に当てながら体をくねらせた。
愛くるしい仕草とは裏腹に、物体は滑らかな体を星夜の肛門へと滑り込ませた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
星夜の腹部が歪に変形し始めた。直腸を通過し、S字結腸へと侵入する。小腸にまで入り込んでくる。
物体から消化器官を内側から消化しようとする酵素が分泌され、星夜は体を内側から焼かれる地獄の苦しみを味わうこととなった。
「ああ、先生……素敵……」
恍惚とした表情で、物体は舌なめずりをしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます