泡沫の変幻自在的悪夢 1-2
※ ※ ※
葛城研究所二階、特別研究室ーーーー大小様々な大きさの水槽や、緑色や赤色で膨大な情報を表示する計器類がひしめくその部屋で、葛城星夜はひときわ大きな水槽を覗き込んでいた。
水槽の中には薄い水色の物体が鎮座している。
半透明で、液体と固体の中間のような質感をしたその物体は、赤い核のような部分を星夜に向けていた。
それはまるでこの生物に見つめられているような不思議な感覚を星夜に感じさせた。
星夜が食用ラットを水槽の前でチラつかせる。
すると水色の物体が緩慢な動作で変化を始めた。
四肢が生え、尻尾が生え、胴体や頭部がはっきりとしていく。
終いには体色までもが毛を引き抜かれたラットと同じ乳白色に変化した。
星夜はその様子を腕の中のバインダーに記し、水槽の中に食用ラットを放り込んだ。
物体は本物のラットのように歩いて近寄り、食用ラットの傍まで来ると再び体を半液状に変化させて包み込んだ。
「今日も異常なし、だな」
星夜は物体の食事風景をまじまじと観察しながらそう呟いたのだった。
「先生、いらっしゃいますか」
突然、研究室の扉が開かれたが、星夜は動じることなく眼鏡の位置を修正して振り返った。
扉の前に立っていたのは、妙に胸元を強調した赤いワンピースに白衣を羽織った女性が立っていた。
「金田さん。ここに入るときは僕の許可をとってからにしてくれないか」
「入ってもよろしいでしょうか」
「その言葉は、入る前に欲しかったかな」
星夜はちらりと視線が下がってしまったが、すぐに彼女の目を見るように意識した。
けれど金田は星夜の様子をしっかりと見ていたのか、微かに口元を歪めたのだった。
「先生、ここのところ根を詰めすぎなのではないですか?」
「いまが研究の佳境だからね。やるべきことはすべてやらなきゃ、後悔するのは明日の自分だ」
星夜がそうって眼鏡のブリッジを押し上げると、金田が彼の首に手を回した。
そうして耳に唇を近づけて、わざとらしく息を吹きかけるように囁いたのだった。
「先生、たまには息抜きしないと駄目ですよ。明日の自分のために」
「……君は素敵な女性だと思うけど、いまはそういう気分じゃないんだ」
それは心からの言葉だった。星夜はいままさに頭の中の血液が全身へと巡り抜け出ていくような感覚を覚えていた。
冷静な頭脳で、冷静な心で、金田の方に手を置いて彼女の顔を正面から見据えた。
大きな黒い瞳と視線が交わる。隙のない化粧を施した、整いすぎた美人がそこにはいた。
「では、いつなら?」
けれどもその声はまるで十代の少女のように震えていて、星夜は自身の胸に暖かい気持ちが湧いてくるのを感じた。
見た目は近寄りがたい美人でも、心は恋に身を焦がし不安と戦う一人の女の子。
そう思うと、研究ばかりしてきた朴念仁の自分でも許されるかもしれないと思ったのだった。
「研究が一段落したら、食事に行こう。水族館や美術館にも行こう。とことん付き合ってもらうからね」
星夜がにこりと微笑むと、金田はいっそう蕩けるような表情になり「私の家で、手料理を振舞ってもかまいませんか?」と尋ねた。
「もちろんさ。ああ、もちろん。むしろ、本当にいいのかい?」
「ええ、ええ、もちろんです。きっと、先生はそういうのがお好きなのかなと思いまして」
そんな彼女の想いに答えるように、星夜は金田と唇を重ねたのだった。
その時、ごとり、と水槽が揺れた。
星夜が水槽をみると、物体が激しくうごめいていた。
「なんだ? ……金田さん、急いで録画を開始して!」
「は、はい!」
金田が研究室のデスクに置かれていたハンディカメラで撮影を開始すると、物体は徐々に彼女の顔へと形を変えていった。
「こ、これは、私!?」
「これはすごい! 取り込んでいない物体に姿を変えるなんていままでなかったぞ!」
「で、でも、どうして私に……」
喜ぶ星夜とは対照的に金田は複雑な面持ちだった。
なにせ、物体が模した彼女の顔は酷く歪でかろうじて彼女だとわかる程度のものだったから。
体色も水色のままで、擬態としては不完全だ。
「わからない、なぜだろう……」
「ア……アア……」
物体から声らしき音がでて、星夜はますます自身の血圧が上昇していくのを感じた。
「声帯模写までできるのか!?」
「な、なにをいっているのでしょうか」
「静かに……よく聞くんだ……」
二人して押し黙り、物体の声に耳を傾ける。
「ア……セ……センセ……センセ……アア……」
「どうやら君の模倣をしているようだね。言葉と行動にいまのところ意味はないように感じる。神経系の発達による成長過程の一種だろう」
「そうでしょうか……。あ、そういえば先生! 取材の方がお見えになっています!」
「取材……? ああ、あの人の……わかったすぐ行くよ」
「素直に取材に応じるなんて、先生にしては珍しいですね?」
「二十そこそこの僕が、こんな立派な研究所の所長をやっていられるのも彼のおかげだからね……君は記録を撮り続けてくれ。頼んだよ」
感謝というよりも重荷を吐き出すような口ぶりで答えた後、星夜は研究室を出ていったのだった。
※ ※ ※
応接室のソファで座って待つこと三十分。
風香はそろそろ飽き始めていた。
この部屋に入った当初はふかふかの赤いソファに興奮したし、艶のある重厚な切り株のデスクにも感動した。
部屋に飾られているお餅に毛が生えたような物体の絵にぐにゃぐにゃの迷路のような絵、それとDNAの模型にはまるで興味はなかったが、なんだかすごそうだぞ、という感じはした。
だが飽きた。
飽きるものはしかたがない。
人間は飽きる生き物だし、だからこそ新たな挑戦を望む生き物でもある。
不倫がいい例だ。
飽きがなければ人生の発展はないだろう、というのがいまこの場で刹那的に作り出した風香の持論である。
もはやこの部屋そのものに対する興味は欠片もなく、取材がおわったら今晩の食事はどうしようかとそんなことで頭がいっぱいになっていた。
「とはいえ、ここは郊外の山の麓だしなぁ。そうだ、お蕎麦屋さんとかないのかな」
スマホを取り出して検索を開始した直後、応接室の扉が開いた。
風香は慌てて立ち上がり、その時スマホが床に落ちてソファの下に入り込んだことにも気づかず勢いよく頭を下げた。
「どうもお世話になります! 月刊オカルト・サイエンスの北原と申します!」
毎度名乗るたびに変な名前の出版社だと思う。
社名の由来は「超常現象のような激ヤバ科学を紹介したい」ということだそうだが、だからといってオカルトとサイエンスという対極を社名にするセンスはいかがなものかと風香は常々感じていた。
「ああ、どうも。葛城研究所所長の葛城です。どうぞ楽にしてください」
風香が「はい!」と威勢よく返事をして顔をあげると、そこには短い髪の爽やかな好青年が立っていた。
少々頼りない雰囲気はあるが眼鏡の奥の知的な眼差しはなかなかそそるものがある。
風香は習慣的に葛城の採点を開始し、「なかなかの高得点だわ」と小声で呟いた。
「おかけになってください。立ったままでは話しづらいでしょう」
葛城博士は向かいのソファに座ってそういった。
「話し方も優雅だわ……」
「はい? なにかおっしゃいましたか?」
「いえいえ、なんでもありません。いやー、それにしても素敵なお部屋ですね! 後ろの細胞? の絵なんかとても素敵!」
「ああ、ミトコンドリアとゴルジ体ですね。素敵……かどうかはよくわかりませんが……」
明らかに怪訝な反応を示す葛城博士を見て、風香はしくじったと内心舌打ちをした。
「そ、そうそう! ミラノ風ドリア! はい、それじゃあえーと、取材を始めさせていただきます。まずは――――」
それから小一時間ほど研究内容について話を聞いたが、重要なことはほとんど教えてもらえなかった。
話しを研究の方向に向けようとしても葛城博士は実に巧みに話しを切り替え、研究所立ち上げ時の苦労話や、人員の補充の時は常に自分が面接しているといった話しばかり。
それだけならまだしもリボソームやテロメアといった細胞に関する話が出てきて頭の中は真っ白に塗りつぶされていく。
終いには緑の革命なんて単語が出てきて科学の授業なのか歴史の授業なのかよくわからなくなってくる。
このままでは記事にできないという焦りから、風香はどうにももどかしい気持ちになっていた。
「大学時代のアルバイトでおたくの編集長さんと出会いまして、その時に僕はいったんです。まずはどこかの研究所に所属して少しずつ前進していくつもりだと。そうしたら編集長に、いやいやそんなまわりくどいことはやめるんだと一喝されましてね。若さを精一杯使い切るには最初から全力で取り組むべきだ。だからお前は自分の研究所を持て! そのための金なら何とかしてやる! なんていいまして。しかも実際にお金を集めてきたんですよねあの人」
「はぁ、だからいまでも頭が上がらないと……」
「まぁ、そんなところです」
はにかんだ顔も素敵、なんて考えが頭をよぎったがもう取材の時間はほとんど残されていない。
これが最後のチャンスだと思い、風香は強引に話しを切り出すことにした。
「博士! 一つだけ、一つだけでいいので教えてください!」
「は、はい? なんでしょう?」
「ズバリ、博士はなにを作ったのですか!?」
風香の質問に、葛城博士は指を銃の形にしてこめかみに押し当てた。
しばらく逡巡したあと、葛城博士の口が開いた。
「新生物、ですかね」
「新……生物……?」
「おっと、もうお時間のようですね。それでは僕はこれで失礼します。オフィスにもどってまとめなければならない資料があるので」
「あ、で、でも!」
「ああ、そうだ。もしよろしければ研究所の食堂でご夕食をとられてはいかがでしょう。助手のこだわりで味は保証しますよ。特に蕎麦は絶品です。それでは」
「あ……」
葛城博士が部屋を出ていき、風香は一人取り残された。
ぐぅ、と情けない音が腹から鳴った。
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