間章1
革命と革命と革命のエチュードと革命のエチュード
羽場高校の二年生としての生活が始まって数日が経った。今日は四月十一日。新入生は部活動見学についての説明を聞いてから自分が入りたいと思っている部活や、名前などを見て惹かれた部活に見学に行くことだろう。俺が所属しているピアノを弾く部活には新入部員は来ないだろう。完全に上位互換である部活が幾つかある。わざわざ辺境の部屋にあり、部員が俺しかいないという部活に入る奴はほとんどいないだろう。入ったとしてもすぐに辞めてしまうだろうし。俺は俺と同じく暇人である謎部活の奴らがいるから別にいいのだけれど。
そんな事を思いながら今日を終えようとしていた俺だけれど、無意識に先輩としての本能が芽生えたようだ。一年生の顔を見るために一年の教室の近くに来ていた。当然ながら知っている奴はほとんどいない。中学の時だって後輩とは積極的に関わろうとしていなかった。同じ中学だったとしても名前も顔も知らない可能性が高い。収穫は何もないと思い、その場から立ち去ろうとした時に俺の視界に一人の一年生が映った。俺の脳は彼を知らない一年の一人と判断した。しかし俺の中の何かが自らに訴えていた。魂を響かせるような、強烈な既視感を。遅れて気づく。名前だけは噂として聞いていた。それが事実であることを俺は知らなかった。気づいたら俺は彼に近寄り、その肩を掴んでいた。
「黒御克治か…………?」
その一年生、黒御克治は俺の顔を見ても何の反応も示さなかった。もしかしたら俺の事を覚えていないのかとも思った。しかし彼はその無表情のまま言った。
「
どうやら彼は俺の事を覚えていたようだった。彼のような天才からしたら俺の事なんか眼中にないのかもしれないと思っていた。だが、彼の記憶の中に俺は在中していた。俺は頷く。
「ああ」
彼と初めて出会ったあの日の事が思い出される。忘れもしないあの日。神童と呼ばれて鼻を高くしていた愚かな俺が、その鼻っ柱を真正面から叩き折られたあの日の事を。
会場全体に響き渡った、静かな革命を。
俺は永遠に忘れることはない。
屈辱は既に通り過ぎて、敬意へと転じた。俺の幼心は圧倒的な自分以外の才能に対して激しい嫉妬と怒りと屈辱を覚えた。しかし成長していくにつれ、それらは敬意へと転じた。
あの日の事を、俺は絶対に忘れてはならない。
きらきらした会場で父さんが父さんよりも髭が濃い人や、母さんよりも綺麗な人たちに笑顔を振りまいている。僕に話しかけてくる大人もいるけれど、すぐに別の場所に行ってしまう。僕は父さんに言われたように、愛想よく笑顔を振りまき、礼儀正しく大人に接し、姿勢正しく立つ。でも周りを見る事は禁じられていない。見ていて、僕と同じくらいの子供がいることに気が付いた。その子供は隅っこで立っている。話に行こうかと思ったが、父さんに勝手な行動はするなと言われている。慎むことにした。だが僕にも仕事がある。壇上にあるグランドピアノでこの後僕は演奏をする。父さんの知り合いの学者?とかいう人が開いたこのパーティーで、その余興として僕は呼ばれた。本当に小さい頃からピアノを習ってきた。先生にも親にも煌びやかな服を着た客にも天才と持て囃された。ただ自分の思うように指を動かし、感情を籠めるだけで僕は褒められた。ピアノを弾くのは好きだし、別に構わなかった。
技術ではなく僕を見て欲しい。そう思ったことは幾度もある。でも考えるのは止めた。技術を見られている間は、少なくとも褒められないという事はない。怒られるよりはよっぽどましだ。
へこへこ頭を下げている父さんを見ていても情けないとは思わない。偉い人には癒着すればいいし、弱い人には威張ればいい。仕事をしているときの父さんは格好いいし、今日の分を差し引いてもプラスだ。
あそこで突っ立っている子供もこの中に沢山いる大人が連れてきた子供だろう。誰の子供なんだろうと思ったが分からない。そう考えていたら父さんがこちらに近づいてきた。父さん…………ここではお父様だったか。その隣には男の人がいた。
「どうされたんですか、お父様」
「琢磨、この人がこの屋敷の主人の黒御さんだ」
黒御さんと呼ばれた人は今までの大人たちとは違った。冷徹な視線をこちらに向けていて、表情には何も浮かばない。氷のように凍てついたその顔つきに少し怖気づく。しかし父さんの顔を潰すわけにはいかない。僕は作法通りの礼をして、挨拶をした。
「初めまして、黒御さん。僕は真田琢磨と申します」
表情は、動かない。というかここの主人という事はこの人が学者というやつか。何でそんなに無表情なんだ?もしかして僕が礼儀作法を間違えたか?いや、父さんの表情はにこやかなままだ。間違えてない。
黒御さんは言った。
「噂はかねがね耳に入ってくる。ピアノが弾けるそうだね」
答えないと。この人は怖い。
「はい、まだまだ未熟ですけれど」
この受け答えは正解なのだろうか。業界のトップクラスの人達と比較すれば、僕なんてまだまだひよっこだ。とは言え一番の得意分野ではあるのだ。そこで謙虚になるという判断は正しかったんだろうか。
「君はまだ若い。熟練を気にする必要はない」
「…………はい」
そこからは父さんが黒御さんと受け答えをしていた。会話の中で一度、克治という名前が出てきた。話の流れからするに黒御さんの子供だろう。隅で立っているあの子供だろうか。そうだとすれば、似ている。表情が全く動かない所とか。
結局そこではその真相を知ることは出来なかった。あの子供も表情をぴくりとも動かすことはなかった。そして、僕のピアノ演奏以外の全てのスケジュールは滞りなく終了した。
父さんがマイクを握っている。そろそろ僕の出番がやってくる証だ。緊張はしない。いつもと同じことをするだけ。僕の演奏を聴く人たちが業界の偉い人たちだというだけで何の問題もない。会場は暗くなっており、壇上だけがライトで照らされている。そう言えば、屋敷と言っていたけれど黒御さんの屋敷に元々これだけの設備があったという事なのだろうか。いや、今は良いか。
父さんの話もそろそろ終わるようだ。
「僭越ながらこのパーティーの締めとして、私の息子の演奏を披露させていただきます。披露させていただくのはショパンの『革命のエチュード』でございます」
視線が僕の方に向く。僕は壇上に続く小さな階段の近くで待機していた。僕は階段をゆっくりと昇り、壇上に立つ。壇上の中央あたりに立ち、礼をする。拍手が聞こえる。ピアノの方を見る。そこに近づき、座る。椅子は僕の身長に合わせて調整してくれている。僕は鍵盤に手を置く。ペダルにも足を置いておく。楽譜は完全に覚えてきた。
大丈夫。会場全体が静寂に包まれる。呼吸をしよう。一、二。
僕は手に力を籠めて演奏を始めた。怒りと圧倒的な激しさ。これを全身全霊で音で表現する。革命というのはそういう作品だと僕は認識している。だから。
ここから五分程度だろうか。
この会場は僕が支配していた。誰もが僕の演奏に聞き入り、僕が注目を集めている。一回だけミスをしてしまったが、許容範囲内だろう。焦ってその後の演奏がごちゃつくという事もなかった。演奏が終了したとき、大きな拍手が鳴り響いた。僕はゆっくりと立ち上がり、演奏前に礼をしたところに行く。そしてもう一度、礼をした。
階段を下りる。僕は壇上から下りた。それから何分かは大人の相手をしていた。僕がピアノを始めた時の事や、講師の事などを聞かれた。そして大人たちがいなくなった時、一人の子供が近づいてきた。突っ立っていた子供だ。恐らく名前は、
彼は透き通るような声で、静かに言った。
「あれ、ピアノっていうんだっけ?」
黒御克治は黒御さんと同じようにほとんど感情の籠っていないような声で言った。彼は壇上のグランドピアノを指さしている。
「あ、ああ」
彼は続けて聞いてきた。周りの大人がこちらを見ている。何故か注目が集まっているようだ。
「さっきの曲」
…………。
「革命の事か?」
黒御克治は頷いた。ピアノという名称に不安を覚えるという言動からも、ピアノに関してはあまり詳しくないようだった。この世界はピアノが絶対ではない。ピアノで将来を掴む人もいれば、学問で将来を掴む人もいる。だから別にそれに関しては何とも思わなかった。
だけど、次のセリフは何かの冗談だろうと思った。
「あれ、今からやってみたいんだけど。教えてくれない?」
冗談でなければ僕の事を馬鹿にしているのか、そう思った。周りにいた大人たちも騒めいているようだった。僕は言葉をオブラートに包んで断ろうとした。
「いや、それは難しいと思うけど…………」
しかし大人たちのかげから一人の大人が現れた。その大人の事を僕は知っていた。黒御さんだ。彼は僕の方を向いて言った。
「真田琢磨くん、だったかな」
冷たい声。僕は出来るだけ冷静に受け答えをしようと務める。間違ってはいけない。父さんはこの人に敬語を使っていた。しっかりと対応しなければいけない人だ。
「はい」
「悪いけれど、克治にピアノを教えてはくれないかな」
「それは構わないですけど、克治さんは今から革命を弾きたいと言っていました。今から革命を弾けるようにするには時間がないんじゃないですか?」
黒御さんはそこで押し黙る。今は午後七時ぐらいか。そろそろこのパーティーも終わる時間だ。スケジュールが詰まっている、財界や政界の人達も何人かいることだろう。いや、別にこのパーティーで披露する必要はないのか。それなら…………でも今日中には無理だろう。
そう思っていたが、黒御さんは唐突に信じられないことを言った。この場にいる全員に向けて。
「皆さん、本来ならばこの後は閉会となる予定だったのですが、四十分ほどお時間をいただけないでしょうか」
…………四十分だと?その数字が何を意味しているのかぐらい僕にだって察することはできる。まさか、有り得ないとは思うがこの人は。
「三十分で克治を仕上げますので、それまでは屋敷のホールでお待ちください。その後、演奏をし、残った時間で閉会を行うという流れにさせていただきます」
この後の流れを説明しているが、何を言っているんだこの人は。三十分で黒御克治を革命を弾けるまでに仕上げろと言っているのか?それは僕の技量の問題じゃない。人間としての限界の話になる。彼はピアノという名前にすら確信を持てていなかった。ドレミファソラシドすら知らない可能性がある。楽譜は当然読めないだろう。
それを、革命を弾けるまでに高め上げる。無理だ。だが黒御克治の顔に焦りのようなものは見えない。驕っているのか、それとも。
大人たちは黒御さんの指示に従ってここから出ていく。そんな彼らの呟きの中からこんなものが聞こえてきた。
「いくら天才とはいえ、三十分じゃ無理だろう」
彼は天才と称されているらしい。だが、黒御克治は分かっていない。難易度という次元を超えた、絶対の不可能。
父さんが僕の方を見ていた。その視線の意味は分からない。
僕は失敗してはならないのだろうか。だが、成功は…………僕のピアノ人生が否定されることになる。三十分。僕がピアノを始めて三十分の時はせいぜいドレミファソラシドだ。
革命なんてありえない。黒御さんも大人たちに続いて出ていく。彼は見ていかないのか。この広い会場に僕と黒御克治だけが残る。彼はこちらを見て言った。
「じゃ、いそごっか」
「僕はお前の事を何て呼べばいいんだ?」
「黒御でも克治でも何でもいいよ」
僕らは、壇上に上がった。
何から教えればいいのやら。僕は困った。とりあえずドレミファソラシドを…………いや、そんなことやってたら三十分なんて過ぎていく。でもとりあえず教えるか。
僕はドから教えることにした。
「まず、ここが」
しかし克治はそれを止めた。
「三十分だから部品の名前とかは良いよ。まずはさっきの曲を弾いてみて」
こいつ…………。克治は真顔で言っている。本気なんだろう。そちらから指示してくるならもういい。こいつの言う通りに動こう。それでどうなったとしても克治の責任だ。どうせできないとは思うけれど。
そこのところ、こいつはどう思っているんだろう?
「お前、三十分後に弾けるようになってると思うか?」
「うん、多分ね」
「あっそう」
僕はもう一度革命を弾いた。さっき失敗してしまったところも、今度は間違えなかった。だが、これで何が分かるというんだ。
そう思って克治の方を見ると、彼は疑問を顔に浮かべていた。初めて感情らしい感情が見られたと思った。感情らしくはないか。
「ここ」
克治はこちらに近づいてきた。退いてと言ってきたので、立ち上がる。彼は僕が座っていた椅子に座る。そして鍵盤の上に手を置く。そして、さっき僕が失敗した…………今回は成功させた部分。両手のユニゾンで一気に音の高さを下げていく場所。それを弾いた。それだけでも人智を超えた光景だったが、彼はその後言った。
「ここ、さっきと違ったけどどっちが正しいの?」
その内の一つ。正しい音と、先程僕が間違えた音を鳴らした。まさかこいつ、この一回の演奏を見ただけで弾けるようになったとでもいうのか?いや、有り得ない。有り得ないのだけれど。
とりあえず、この質問に答えなければならない。
「今、今弾いた方が正しい」
「じゃあ、さっきのは間違えたの?」
っ…………!
「…………ああ」
「そう。それ以外は間違えてないんだよね?」
「……………………ああ」
「そう」
何だ。何なんだ、この屈辱感は。克治はもうこちらには目を向けずに、鍵盤の上で手を踊らせる。革命はただ弾くのが難しいというだけじゃない。そもそも手を広げて、鍵盤に届かせることも難しい。子供の話ではあるが。だがこいつは当然のようにそこにも手を伸ばす。適切な場所で、完璧にペダルを扱う。…………くそ。
何度も練習した。何度も楽譜を読み込んで、曲の理解を深めた。ショパンは何を考えてこの曲を作ったのか。ショパンは何を考えてこの音符を選んだのか。その全てを何度も確かめて、何度も失敗を繰り返して、今の形に仕上げていった。
苦しくても、上達していくのが分かったから続けられた。僕はピアノが好きだ。ピアノから奏でられる音が好きだ。自分が上手くなれば、もっと綺麗な音を出せる。もっと壮美な音を出せる。そう思ってたから、血反吐を吐くような思いで練習を続けた。
一度ミスはあったけれど、それでも今まで練習してきた時とは違う何かがあった。音楽に携わる人として次のステージに行くための何かを掴めそうな予感。それも全て、長い時間をかけた練習があったからだ。
それを、二回聞かれ、一度見られただけで超えられた。しかも相手はピアノに触れたこともない子供。ドレミファソラシドも知らなくて、ショパンという名前もきっと知らない。革命のエチュードのエチュードというのが練習曲という意味であることも知らない。このピアノがアップライトピアノじゃなくてグランドピアノであることも知らないだろう。白鍵と黒鍵の違いも知らないし、和音も知らない。四分音符と二分音符の違いも知らなくて、どういう原理で音が出てくるかも理解していない。この曲がかの音楽家、リストですら初見では弾けなかったという事も知らないんだろう。
なのに…………なのに!なんでお前は!これじゃ、これじゃあ…………まるで、…………
天才。神童。今までは僕がそう呼ばれていた。でも僕は知ってしまった。自分が神童でも何でもない事を。神なんておこがましい。僕の前で演奏をしている怪物こそに相応しい。それが、どうしようもないぐらい、分かってしまった。彼が本気でピアノに取り組めば、僕なんて瞬時に追い抜かれる。いや、もう追い抜かれているのかもしれない。僕が勝っているのなんてピアノに関する知識だけで、技術に関してはもう。
僕が間違えたところも平気で弾き、彼は演奏を終えた。何だよ、これ。彼はこちらを向かずに聞いてきた。
「この曲は誰が作ったの?」
「ショパン。フレデリック・ショパン」
「…………何とかのワルツの人か」
…………子犬のワルツ。いや、それはどうでもいい。克治は僕に背を向けたまま、質問を続けた。
「どうして作ったの?」
「…………簡単にでいい?」
流れは分かっているけれど、世界史的な所を説明されろと言われても詳しく説明は出来ない。
「いいよ」
僕は説明を始めた。
「ショパンの祖国はポーランドだったんだ。ポーランドは昔、ロシアに支配されてたんだけど…………ポーランドの人達はロシアの人達に反乱を起こしたんだ。えっと、名前は…………」
「11月蜂起?」
知ってるのかよ…………。
「そう、それ…………。知ってるなら分かると思うけど、反乱は鎮圧される。体が弱くてショパンはそれに参加できなかったんだ。ロシアに対する怒りの気持ち、つまり革命に参加できなかった自らに宿った怒りをこの革命のエチュードに込めたんだ。まあ、一説だけど」
克治はそれに答えを返さなかった。代わりに演奏をしていた。僕はそれについては何とも思わなかった。時間は三十分しかない。練習できるだけ練習しておいた方がいいのは間違いないだろう。だが、先程の演奏とは確実に違っているのを僕は理解した。それは僕が知っているはずの革命とは全く違う物だった。
「…………お前、今の説明聞いてたのか」
「聞いてたよ」
未熟な僕だけれど、断言できる。
「その革命は、違う」
「そうだね。これだけじゃ駄目だね」
静かな革命と表現するしかないその革命は、怒りや激しさという物を全て取っ払っていた。それはそれで凄い。革命のエチュードはとても激しい演奏を要求される。それを静かに奏でるなんてありえない芸当だ。だが、それは革命ではない。革命に怒りや激しさ、悲しみが込められていることは間違いないだろう。そんな無感情の革命は間違っている。
が、克治は言った。
「あと十分ぐらいだけど、何する?」
「そりゃ、練習を」
「それはもういいかな。…………君の名前は?」
「何で今」
克治はようやくこちらを向いた。やはり何の感情も見られない。だが最初に弾いていた時。静かではなかった革命。あれは感情が籠っていた。黒御克治には感情がないわけじゃない。その厚い皮に隠れてしまっているだけで、きっとそこにある。
僕はとりあえず名乗った。
「真田。真田琢磨」
「真田さん、君は何のためにピアノを弾いてるの?」
「ピアノから奏でられる音が好きだ。それを聞くために僕はピアノを弾いている」
だが克治はそれに賛同することはなかった。疑問をこちらにぶつけてきた。
「君が世界で一番うまいならまだしも、そうじゃないなら上手い人のを聞けばいい話じゃない?それは違うのかな」
「それは違う」
その疑問は僕自身もぶつかっている。僕はその質問を何度も自身にぶつけて、答えを得ている。僕はすらすらとそれを答えた。
「僕がその人より上手くなれば、その人より綺麗な美しい音が出せる。そうなるために僕はピアノを弾き続けている」
…………だけど、僕は心の中でこうも思っている。克治がピアノを習い始めたら、僕はこいつに永遠に追いつけなくなる。それは許容できない。自分で自分を許せない。なまじ神童として評されたばかりに、僕は自分の才能に自信を持ってしまっている。その自信が真正面から打ち砕かれた。それが跡形もなく消されてしまったら、僕はきっとこれからを生きていくことが出来ない。
ピアノ人生という意味でも、まともな人生という意味でも。
「まあ、それについては応援するよ」
「あっそう。…………お前ピアノ始めないの?」
「今回だけだよ、僕がピアノを弾くのは」
「…………そう」
こいつは練習をしないと言っていた。つまり、もう克治の演奏を聴く機会は一回しか存在しないのか。その一回を大切にしなければならないな。それを目標にして、いつか超える。革命の解釈を静かに弾くと捉えるようなやつだ。正しく解釈して、何度も何度も練習を繰り返せば、いずれ超えることだってできるはずだ。
「ピアノ教えてくれたことは、感謝してるよ」
「何でだよ」
「多分、まともに何かを教わったのは初めてだから」
「小学校は?」
「まだ」
今、僕は小学一年だ。克治はそこまで年下には見えないから、幼稚園年長と言ったところなんだろうか?
考えれば考えるほど恐ろしい。ピアノに触れたことのない幼稚園児が、革命を弾いた。化物じみている話だ。知り合いから聞けば、嘘としか思えないだろう。
ただ。彼は11月蜂起を知っていた。ならそれは、どこで知ったんだろう。教わってはいないのだろうか。だが一つだけ突っ込みたいところがあったので、それは言っておくことにした。
「この教え方はまともじゃない」
「ああ、そうなの」
そんな他愛もない話を何分か続けた。いつの間にか三十分は終わっていたようで、大人たちが戻ってきた。僕は克治と一緒に壇上から下りる。向こうで説明やらは終えていたようで、幾らかの言葉を置いてから、黒御さんは言った。
「さて、それでは今から克治の演奏を披露させていただきます。演奏する曲は先程と同様、『革命のエチュード』でございます」
彼は克治にしっかりと出来たかの確認すらしなかった。会場に入って、大人たちが聞く位置を確保したのを確認したら、克治の方に視線すら向けずにそう言ったんだ。
信頼、無関心。そのどちらが正しいのか今は分からない。だけれど、克治は大丈夫だ。あの静かな革命のままならば少し心配だが、それはその前の完全に僕を超えた革命を見ているから関係のない事だと思える。あれを弾ければ、何の文句もないだろう。
それに、感覚が狂い始めてしまっているが、ピアノをやったことがない人間が三十分で革命を弾けるようになるという事態は世界の常識を塗り替えるほどの異常事態なんだ。
克治は再び壇上に登る。そして先程の僕と同じ位置に立ち、礼をした。拍手が聞こえる。僕も拍手をする。克治はピアノの前の椅子に座った。今、会場は静寂に包まれている。誰も物音を立てない。少しピアノをたしなんでいれば分かる。僕たちが見ようとしている光景は、有り得ない。しかし有り得ない可能性を見るために彼らは、そして僕はここに残った。
彼らが見ようとしているのは子供のお遊戯のような演奏ではない。彼らは音楽の常識の革命ともいえる事象を目の当たりにするためにここに来たのだ。それ程の期待が、僕よりも小柄なあの少年に寄せられている。しかし彼はそれをものともせずに…………
そして指が、走る。
静かな、革命。
一瞬の落胆は恐怖に変わる。そしてその恐怖と共に、絶望も迫りくる。また、静か。そう思ったが違った。すぐに分かった。静かさの裏に、溢れんばかりの、隠しきれんばかりの、周りを焼き尽くすほどの憎悪と怒りの炎がある。
それに、そもそもの演奏技術も格段に上がっている。何が、何があった。あの無意味な会話の中に、何があったというんだ。何がここまで黒御克治を高めた!
その日その時、その日その時までの僕の短いピアノ人生は終わった。彼の数十分に、僕の数年間は完全に敗北した。幼い頃からずっと練習を続けてきた。それも全て無に帰した。その全ては彼を完成させるためにあったのかもしれない。そう思えてくるほどに絶望的な差。僕がピアノを始めた時にあんなことが出来ただろうか。
絶対にできない。無理だ。彼は平気な顔をして革命を弾いているけれど、そんなのおかしい。第一、彼は楽譜を見ていない!それどころか楽譜も読めない!
何も知らない彼に、音楽の大体の事は知ってる僕は完全に負けている。黒御克治は僕が失敗した部分も難なく通り抜け、革命のエチュードを弾き終えた。
礼をして、壇上から下りる。大きすぎる拍手が起こる。僕は、拍手できるほどの気力は残っていなかった。彼は超然とした表情で会場を見ていた。最後から最後まで、彼は浮世離れしていた。周りの大人たちからもざわめきが。
「天才とは聞いていたが、芸術方面にもか」
「絵を描かせてみるか?」
いや、どうでもいい。何だよ、これ。何のために僕は、ピアノを。美しい音を聞くために、それを自ら出すために僕はそれを始めた。でも、克治のこの演奏は二度と脳裏から離れることはないだろう。
もう、ピアノする必要ないんじゃないか?音楽界の進歩という観点から見ても、僕なんかより克治が取り組んだ方がずっと開拓されていくだろう。僕は克治と比べ物にもならないほど下手だし、何よりもう考えられない。自分が楽しくピアノを弾いてる姿を。これから、一つ音を出すたびにそれを克治と比べ、絶望するんだろう。そんな思いをしながらピアノを弾くぐらいだったら、そんな事を考えながら音を奏でるぐらいだったら。
「…………閉会します」
ピアノ、やめようかな。
その日僕は、初めて親に叱られた。ピアノをやめると言ったこと、克治に完璧に負けたこと。僕の事を叱るには十分すぎたらしい。父さんは僕のピアノで黒御さんの鼻を明かしてやるつもりだったらしい。天才と名高い黒御克治も、芸術方面ならば勝てるだろうと。それも失敗に終わったのだが。
僕は当分、ピアノをやめれないだろう。そしてピアノと向き合うたびに、彼の顔と音を思い出す。
そんな恐怖を耐えることなんて、出来ない。耳に残り続ける革命のエチュードを振り払いたい。僕の汚い革命のエチュードを聞きたくない。
音楽界の歴史から見ても、異例な事態が起こった。それまでの常識への革命が起こった。
それだけではない。僕という人間の中の価値観に革命が起こり、僕という存在に大きな変革をもたらした。
僕自身の変化が良い方向へと進んでいくのは、数年後の事だ。
そして黒御克治と再会したのはさらにその後の事だ。それが、今。一年四組の教室の前で、黒御克治を見つけた。もう、自分の中に沸き起こった感情を抑える事なんかできない。
「説明会をサボって、俺と一緒に来てくれないか?」
彼は記憶の中に残る彼よりもずっと感情的に言った。
「…………概要を聞いてからにします」
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