色々な事がありまして

俺は芸術棟の四階に克治を連れてきていた。まだ鍵がかかっている吹奏楽部の正式な部室の扉の前で俺は腰を下ろす。克治に目線で促す。彼はその意味を察して俺の隣に座った。彼は俺に質問をした。


「話をしたいって言ってましたけど、何の話ですか?」


「部活動の説明だ。教師の面倒くさい説明を聞くより、こっちのほうがずっと楽だぜ?」


「わざわざ連れてくるほどの事じゃ…………まあ僕も話したいことがあるんでいいですけど」


克治はそんな事を言った。こいつが俺に話したいことなんてあるのかとも思ったが、それはとりあえず置いておこう。俺は克治に部活動について説明して、こいつを部員にする。

部員はいらないと言った。だがそれが黒御克治ならば話は別だ。俺はもう一度こいつの演奏を聴きたい。それに、部員は入ってくるなら歓迎する。周りの部室の奴らがちょっかいを掛けてくるのだ。漢字ゲーム部とかいう謎の部活ですら俺の部活の十倍の人数を誇っており、倉敷はいつも俺を虚仮にしてくる。

…………早く説明を終えないと、はやしに文句を言われるかもしれんな。始めよう。


「じゃ、始めるぜ」


「はい。真田先輩」


「この学校には大きく分けて四つの建物がある。教育棟、芸術棟、部活棟、体育館だ。ほとんどの部活は部活棟に属している。が、中にはそれ以外の所で活動をしている部活もある」


克治は黙って聞いている。が、途中で頷いたりしている。十年前ぐらいか。あの時とはずいぶんと変わったものだ。


「芸術棟では三つの部活が活動を行っている。吹奏楽部、軽音部、美術部だ。だが芸術棟のほぼ全ての場所は吹奏楽部が占拠している。様々な大会などで実績を残しているからな。世間でも有名だ。軽音部と美術部は同好会のようなもので、義務として大会に出たり、描いたものを出展したりしてるだけだ。その影響で吹奏楽部がその勢力を伸ばしているというわけだ」


「へぇ」


今度は無感情だな。表情は相変わらず動いていないし、変わったと言っても少しぐらいなのかもしれない。


「芸術棟ではどこにいても吹奏楽部の演奏が聞こえてくる」


「一種の騒音ですね」


「吹奏楽部部長は強いからいいのよとか言ってたな」


瀧口たきぐち先輩は強い人だ。誰かに文句を言われてもそのまま真っ直ぐ突き進んでいくのだろう。それでいて頭が悪いわけではないのが末恐ろしい。何らかの思考があって、その上で突っ込んでくるのだ。恐ろしい。

まあ瀧口先輩の事は置いておこう。


「運動部は大体外か体育館だ。体育館にも色んな部活がある。バレー部とか、バスケ部とか、チアダンス部とか」


「そんなに沢山いて、場所分けてるんですか?」


「知らないよ、俺文化部だし。運動部の知り合いほとんどいないし」


「そうですか」


どうなってるんだろうな、そこのとこ。山下なら知ってるかもしれないが、俺はあいつが苦手だ。表面上は性格もいいし、明るいのだけれど…………上手く言葉にはできないが裏があるというか。滅茶苦茶失礼だが、あいつは俺が死んだら自分の夢を叶えられるとしたら平気で生贄に捧げるだろうというか。

あいつとは話をするだけの関係に収めておいた方がよさそうだという結論に至る。些細な事であっても恩は売らないことにしよう。


「まあ後は部活棟か。部活棟は簡単に言えば校舎の教室が全部部室みたいな感じだ。クイズ部、けん玉部、カードゲーム部、ボードゲーム部みたいなやってることが分かりやすい部活もあるし、検定部とかいう何をするのか分からない部活もある。後、暗黙の了解のようなものだけれど上の階になればなるほど変な部活になるという傾向にある。シャクシャインの会とかな」


俺の部活は辛うじて三階に収まった。というか、部活棟の部室は一月に刷新される。十二月の最後の方にある部活動会という生徒会と部活棟の各部活の部長たちが話し合い、部室の位置と活動のための部費を決める会議があるのだ。俺は蚊の涙ほどの部費と三階の部室を得た。今考えても危ないところだった。あと一歩アピールを間違えていれば俺も変人と愉快な部活たちの仲間入りをするところだった。

克治は質問してきた。


「検定部は何をする部活なんですか?」


「色んな検定を取ったり、研究したりする部活だったかな」


玉田たまだ…………検定部の部長のそいつは既に五十を超える検定に合格していると言っていた。怪物だ。一般部員でも十個はざらに合格しているというのだから恐ろしい奴らだ。それらの活動のたまものと言うべきか、奴らは一階に位置している。悔しい事だ。


「まあ、この学校にはそのように謎の部活や普通の部活が犇めいてるってこった」


そう言えば、無風部を説明し忘れていたがあれは良いだろう。霧遙だって新たな新入部員が入るとは思っていないだろうし。だが、去年まではあの部活は二人だった。もう一人は…………やめよう。少なくとも俺は悲しむだけの関係性は持っていなかった。その感情を抱く権利は俺にはないだろう。

克治は「ありがとうございます」と言った。俺は気にかかったことを聞く。


「なあ、お前が俺に質問したいことって何だったんだ?」


「ああ、それは…………」


彼は信じられないことを口にした。


「先輩ってまだピアノやってるんですか?」


俺はそれに即答する。


「やってるよ。ずっと続けてる」


「そうですか。…………それなら、良かったです」


俺は克治の事を見た。身長は高いとはいえず、髪の長さは女子ぐらい長い。顔の造形はどちらかと言われれば微妙に女子寄りの中性的な顔だ。そして、その目や顔に宿っている感情は…………。

俺は気が付いたら言葉を漏らしていた。


「変わったな、お前」


克治はそんな事を言われると思っていなかったようで、少し驚いたような顔をする。彼はどこか誤魔化すように目線を逸らした。


「…………そうですかね」


「まあ、俺が知ってるのはだいぶ昔のお前だけだけどさ」


「色々ありましたからね、中学生の時に。それが僕を変えたんだと思います」


中学の時か。何か克治を変えた人というか、出来事のようなものがあったのだろうか。それを聞いて何か墓穴を掘ることになるのは嫌なので、それについてはスルーしておく事にする。

俺は克治に入部についての相談はいつするかを考えた。後回しにしておいて、他の部活に入部してしまったら後悔することになる。やはり、今しかないだろう。そうに違いない。

何故か真っすぐ前方を見ている克治に俺は話しかけた。


「なぁ、克治」


克治はちらりとこちらを見る。どこか困ったような視線だが何だろうか。俺はとりあえずそれについては考えずに、自分の目的を切り出そうとした。その瞬間、俺は何者かに足を踏みつけられた。克治じゃない。克治は俺の隣で体育座りを少し崩したような姿勢を取っている。

俺は先程まで彼が見ていた方向に目線を向ける。そこには吹奏楽部が一人、はやし有紀ゆきがいた。彼女は俺の足を踏むのを止めてくれない。俺は抵抗の意思を示す。


「やめろ、俺は今久闊を叙してる」


「うっさい」


まあ確かに、久闊を叙するという表現を使うほど、親しくもなかったと思うがそれ程鮮烈な出来事ではあった。使っても構わないだろう。

林はそんな俺の台詞を無視して克治の方を見ている。三秒ほど見つめていただろうか。林は本気で不思議そうなトーンで俺に質問をぶつけた。


「あんた、黒御克治の知り合いなの?」


「何で克治のこと知ってるんだ?」


「何言ってんの、あんた。…………ていうか、黒御克治って思ったより女の子みたいなのね」


林は先程以上に本気で不思議そうに俺に言った。後者については賛成だがそこはまあいい。

林の後ろには何人か俺の知り合いの吹奏楽部の奴らがいて何かを話している。そして、その会話の中に黒御などの単語が出てくるのを俺は聞き逃さなかった。俺は林に聞く。


「いや、どこで会ったんだ?」


「…………初対面だけど。あんた本当に知らないの?」


「何を」


「黒御克治の噂」


「知らん。この高校に入ったかもって噂ぐらいだ」


他には人生で生きてきてただ一度たりとも聞いたことがない。俺の答えを聞いて、林は大きな溜息をついた。何だよ、そこまで呆れられるほどの事じゃないだろう。俺は言い返す。


「知らない奴だっているだろう、それぐらい」


「…………ほんの数か月前にニュースになってるんだけど。あんたテレビ見る?」


「…………月に一回ぐらいは」


というか、ニュース?


「何で克治がニュースになるんだよ」


「行方不明になったの。結局その後どっかで見つかったみたいな話になったけれど」


「…………よくそんなの覚えてるな。赤の他人の行方不明事件なんてすぐ忘れるだろ」


さっきよりもずっと大きな溜息をつかれた。何だよ、その溜息は。克治の方を見ると、彼も驚いたような顔をしていた。


「何だよ」


「いや、本当に何も知らない人がまだこの地域にいたんだなと思いまして」


そこまで常識となっていることなのか?みんなが博識すぎるだけじゃないのか?というか、俺は結局さっきの大きすぎる溜息の意味を理解していない。克治が行方不明になったというのも十分に気になる話ではあるけれど、それは後で本人に聞いてみることにしよう。


「で、林。何だその溜息は」


「黒御が中学二年の時にやった事、本当に知らない?」


「知らないって言ってるだろ」


「…………噂だから事実は知らないけど、クラスで何人も病院送りにしたみたいな。それで黒御克治って名前は戸澤俊徳って名前と一緒に広まってるのよ」


また知らない名前が出てきたな。


「トザワトシノリ?」


林とその後ろにいる女子、そして克治までもがこいつマジかと言いたげな視線を向けてくる。…………待て、冷静に思い出せば大丈夫なはずだ。とざわとしのり。漢字に変換しなくては。俺は克治に聞いてみた。


「漢字でどうやって書くんだ?」


克治は言った。


「人の口に戸は立てられぬの戸に贅沢の沢の旧字体、俊敏の俊に人徳がないの徳で戸澤俊徳」


「そいつなら知ってる。礼儀正しいお坊ちゃんのような奴だろう?」


幼い頃、どこかのパーティーで見たことがある。その時はとても落ち着いていて感心したものだ。しかし俺の評価に賛同を示すものはいなかった。この場にいる全員が渋い顔をしていた。克治はあまり表情は動いていないが、少しの変動から戸澤俊徳への警戒のようなものが感じられる。


「真田、あんた今の総理大臣言える?」


「馬鹿にするな」


俺は総理大臣の名前を言った。林は目を見開く。どうやら正解だった様だ。


「知ってるの、驚きだわ」


「舐めんな、それぐらい知ってる」


だが俺は噂に疎いようだ。林にテストの点数で負けたことは一度たりともないが、それでもここまで差が出ている。悔しいものだ。とは言え、噂を一から調べようとは思わないが。噂は風と共に入ってくるものだ。俺の周りに風が吹いていないのならば、それはそれで落ち着いていていいものだ。


「で、戸澤俊徳は何をしたんだ?」


「奇行を」


林はそう答えた。だがそんな答えでは俺も眉を顰めるしかない。


「それじゃ分からん。もっと詳細に説明してくれ」


「私もよく知らないのよ、黒御君に聞けば?」


「戸澤俊徳は何をしたんだ、克治」


克治はすぐには答えなかった。自分の中でどう説明するべきか考えているようだった。挙句の果てに導き出された説明はかなりひどいものだったが。


「刀を振り回したり、人の事を馬鹿にしたり、人の不幸を笑いの種にしたりですかね」


…………何があったんだ、あの少年に。まあ第三者が俺の幼い時と今の俺を比べ見たら同じ感想を抱くことになるのかもしれないが。というより、全ての人間はそうなのかもしれないけれど。

まあそいつの事は良い。俺が知りたいのは克治についてだ。クラスの何人かを病院送りにしただと?完全に不良じゃないか、やってることが。俺はその真偽を確かめることにした。


「さっきの、病院送りってのは本当なのか?」


「デマですよ、根も葉も…………まあ、葉がない噂です」


林たちはデマなんだぁーとか言っているが、俺はそんな事はどうでもいい。俺は克治のその説明の仕方に引っかかった。根も葉もないうわさと言えばいい話なのに、葉がない噂と言った。という事は、根はあるのだ。そもそも火のないところに煙は立たない。噂が流れたからには、流れるに足る出来事があったという事なのだ。


「じゃあ、事実は?」


克治は言いよどんでいたが、諦めたように言った。


「クラスの一人を、…………少年院送りにしました」


俺は克治ににこりと笑いかけて、言った。


「変わったな、お前」


「事情があったんですよ」


それなら仕方ないな。


「あ、そうだ。私達部活やるからそこどいて」


すみません。










その後、俺は林と瀧口先輩を説得して全体練習が始まるまで待たせてもらう事にした。克治は何でそんな事をと言っていたが、何でだろうか。吹奏楽部の圧巻の演奏を見せたいのだろうか。まあ、そうだろうな。この羽場高校のいい所を教えてくれるいい先輩というイメージを定着させて、部に勧誘する。あ、そう言えば勧誘するのを忘れてた。まあ、全部終わってからにすればいいか。

俺たちは吹奏楽部の部室の外で待っていた。中で瀧口先輩の熱い声が聞こえてくる。そろそろ終わるな。そう思った瞬間、扉が開いた。部員たちがぞろぞろと出てくる。吹奏部員たちの進行が終わったのを見届けてから、俺たちは部室の中に入った。

中に残っていた瀧口先輩と林の視線がこちらに向く。そう、この部室は作戦室のような扱いで、実際にここで演奏を行ったりはしていない。いやはや、贅沢な事だ。俺にも少し分けて欲しい。マジで、一室でいいから。


「何よ、真田」


「さっきも聞いたけど、見ててもいいんだよな」


「まあ、部活動体験日だし。いいけど、黒御君はこの部活はいるの?」


「入れさせねえよ?」


「何様よ」


まあ、克治の許可を取らずにそんな話をするのは良くないか。俺は克治が俺の部活に入ってくれることを祈るしかないか。吹奏楽部には入れさせない。これ以上、この部活の勢力を拡大させるわけにはいかない。こいつらは教育棟や部活棟にまで侵食しかねないほどの勢力を誇っている。これ以上は、危険だ。止めなければならない。五月蠅いのだ。が、真正面からそんな事を言ったらぼこぼこにされること間違いなしなので、心の中にとどめておく。


「林先輩」


「何?」


「真田先輩は吹奏楽部なんですか?」


その質問に二人は大笑いした。笑うな。頼むから俺の部活の事を悪く喋ってくれるなよ。マジで。俺の計画が完璧に崩れてしまう。四階落ちは嫌なんだ。階は上がるのに、位としては下がるのが嫌なんだ。くそ、最初は二階だったのに、いつからこんなことに。

瀧口先輩が笑いながら言った。


「真田君は吹奏楽部じゃないよ。彼の所属してる、というか彼が作った部活は」


「うっさい!しゃべるな!」


「先輩に向かって何だ、その口の利き方は」


「ぐっ」


だがこのままだと、俺の部活名が露呈してしまう。クソ、適当にピアノ部とか言ってその場を乗り切ろうとしてたのに。後からこっそり名前変更の申請を出しておこうとしてたのに。嫌だぁー。公開処刑だぁー。若い頃の俺を殺したい。

あゝ無情。先輩は俺の所属している部活の名前を躊躇いもなく口にした。


「革命部だよ。いやはや面白かったね。無風部に並ぶ謎部活が誕生するかと思ったよ。この学校に革命を起こそうとする気概のあるやつが現れたのかと思って見に行ったら、ただのピアノ弾いてるヒョロガキだったよ」


くっ。克治の視線が痛い。というか、ヒョロガキって言うな。そもそも、学校での革命の発生を期待するな。それに、無風部は名前に反してそんなに変な部活じゃない。この学校の部活のほとんどは名前に反さず変な部活ばかりなんだけれど、無風部はやってることはまともなのだ。しかも歴史も長いらしい。

まあ、名前のとんちきさは似たようなものだし、革命部も後の伝説になる可能性もなくはない。期待しておこう。

そんなことを思っていたら、克治が聞いた。


「革命部はどんな部活なんですか」


くそ、それも適当な事を考えて説明しようと思ってたのに。瀧口先輩に実態を説明されてしまう。というか、こうなってみると克治への勧誘の成功というのは空中楼閣だったのかもしれない。かなり穴があるな。いや、それでも黒御克治は必要な人材だ。演奏を聞きたい。

いや、こうしている間に瀧口先輩が事実を垂らしてしまう。あああ、喋らないでくれ。が、時すでに遅し。


「何だっけ?革命のエチュードを研究するとか、弾きまくるとかだったかな。暇なときは徘徊して他の部活にちょっかい出してるよ」


「へぇー」


変なイメージを植え付けるな。全部事実なのに悔しい。というか、革命のエチュードだけじゃないわ。他にも弾くよ。たまにだけど。だが、この変なイメージによって黒御克治が入部しないことを決意してしまっていたら、吹奏楽部は俺と完全に敵対することになる。覚えておけ瀧口。ついでに林。

俺がとりあえず瀧口先輩の行ったことを弁解しようとすると、幾つもの楽器によって奏でられる音色が響き始めた。吹奏楽部の演奏が始まったようだ。


「じゃ、俺らはもう行くよ。…………行くぞ、克治」


「ああ、はい。それじゃ林先輩、瀧口先輩。ありがとうございました」


「また来てねー」


「時間があれば」


そうして俺と克治はこの部室から出た。広い廊下には何人かの吹奏部員がいて、皆それぞれの楽器を演奏している。床にはその楽器が仕舞われていたであろう楽器ケースや荷物が整頓されて置かれている。俺たちは演奏の邪魔をしないようにくねくねと動きながら芸術棟を徘徊していった。俺お得意の学校徘徊だ。真っすぐ下りはしない。四階、三階、二階、一階の全エリアを回って俺たちは演奏を聴いた。いつも暇で歩き回っているおかげか、俺はほとんど体力を消費しなかったが、克治はどうだろうかと思い見てみると彼もそこまで消耗していないようだった。

俺は聞いた。


「どうだった、吹奏楽部の演奏」


「うるさかったですけど、上手な演奏だったと思いますよ。棟を占領するだけはあると思います」


「やっぱ、そうだよなぁ」


吹奏楽部は名声に恥じない実力を保持しているのだ、うるさいけど。同じような結論に至ったことに安心しながら、俺たちは渡り廊下を歩いて部活棟に移動した。そうして一番最初に聞こえてきたセイッとかハアッとかいう掛け声に俺たち二人とも気圧される。だが俺は学校生活の経験のお陰でそれが何の部活なのか知っている。部活棟の一階に位置している理由がよく分からないけん玉部だ。克治は「何してるんだ」と呟いていた。ほんと、最初は分からなかった。実際に見てみると、熱いバトルが繰り広げられていた。まるで曲芸師の様だった。

そして俺たちは二階に上がる。二階で歩いている途中、ピコーンという音が鳴った。クイズ部だ。俺と克治は足を止める。扉があるため中の様子は分からないが、緊張が漂っていることだろう。知らんけど。中から「グレシャムの法則」と答える声がした。武山たけやまの声だ。なら正解だろう。

そして俺の予想通り、ピンポーンという音が鳴る。俺たちはそれを聞いてから歩き出した。

…………グレシャムの法則とは何だったか。聞いたことがあるような気がする。おもりの大きさに比例するのはフックの法則だ。理科のなんかだとは思うんだけど…………後で調べるか。途中に山岳部や裁縫部があったが何故か今日は見学なしと言った旨の貼り紙が貼られていた。何かあったのだろうか。

俺たちは三階に上がる。そして、三階に上がってから四つ目の部室。それが俺の、恥ずかしき革命部の部室だ。俺はその扉を鍵を差し込んで解錠して、開ける。


中には殆ど何もない。あるのはただ一つ、グランドピアノだけ。前にあったらしいウルシュプルフ研究会とかいうどうやって三年間青春を謳歌するのか分からないような部活のおさがりだ。まあ、それは革命部にも同じことが言えるのだけれど。俺はそのグランドピアノに近づいた。そして、克治の方を向いて言った。


「克治、あれから十年ぐらいたった」


「…………そうですね。大分、昔です」


克治は置いてあったパイプ椅子に座る。何であるんだっけ。忘れた。それはいい。今は格好つけるところだ。俺は言った。


「もう一度、俺の革命の演奏を聴いてくれ」


克治は最初戸惑っていた。だけれど俺の意思を理解してくれたようで、頷いた。俺も頷き返して、ピアノ椅子にゆっくりと腰を下ろす。俺は鍵盤の上に指を置く。ペダルに足をかける。弾く準備は整った。頭の中で革命のイメージを構築する。そして、かつて見た最高の演奏も思い返す。

俺はあの演奏に敬意を示している。初めてピアノを弾いた人間が最高峰の革命を弾いたのだ。敬意を示さないはずがない。だけれど、敬意だけ覚えるほど俺も人間が出来ていない。俺はいつしかこう思うようになった。

俺は俺のやり方であれを超える。激しさと怒り、絶望。あの時確かに抱いたその感情をこの演奏にぶつける。ショパンと方向は違えど性質は同じ。その感情を、ぶつける!

俺は演奏を始めた。革命部の部室に音色が響く。この間、克治はずっと黙ってその演奏を聴いていた。左手の動きが難しい、昔はそう思っていたが何度も弾いたおかげか間違える可能性などみじんもない。かつてあの時失敗した部分も、もはや難所とは思っていない。

俺は革命を弾き終えた。たった一人の観客から拍手を受けた。だけれどその拍手は確かに、この十年近く望んでいたもので、人生で受けた拍手の中でも最もうれしいものだった。俺は克治に言った。


「どうだった?」


克治は少し考えて、言った。


「変わりましたね、真田先輩も。前よりずっと上手い」


「…………それは、良かった」


!!!ここだ、このタイミングしかない。今ここでこの時、俺は黒御克治を勧誘する。革命のエチュードを弾き終えた後で、好感度メーターは高い位置にあるはずだ。ここで勧誘すれば、成功する確率は限りなく高い!

俺は、勧誘の言葉を口にした。


「克治」


「何ですか?」


「革命部に入ってくれ、この部活にはお前が必要だ」


俺は真摯なまなざしを克治に向ける。克治は困ったように目線をずらす。あ、不味い。これは失敗のフラグが立っている。

克治は申し訳なさそうに言った。


「あの…………僕、もうすでに無風部に入る事決めちゃってて」


むふーぶ?俺はその言葉の意味が分からなかった。むふーぶ。むふうぶ。無風部。…………無風部?いや、噓だろ。しかし克治は真顔だ。本気で言ってる。断られた。いや…………マジか。マジか…………。

マジかぁ………………………………。霧遙に負けた。クソ、何もかも負けちまう。どうなってんだ、あの女は。成績も運動神経も性格も人脈も俺以上。何もかも駄目だ。勝てるのはピアノだけ。

黒御克治まで取られてしまった。あぁ、テスト勉強しようかな。


「そうか…………」


俺が絶望が存分に詰まった言葉を口にしたのがきっかけではないだろうが、克治は何かを思い出したような顔をする。そして申し訳なさそうに俺に言った。


「あの、すみません。霧遙先輩に呼ばれてたの思い出しました」


俺は何も考えずに答える。


「あぁ、そっち優先していいぜ」


克治が頭を少し下げたのが見えたような気がした。


「それじゃ、ありがとうございました」


克治は扉を開けて革命部の部室から出ていった。その後、克治が出て行ってから三十秒ほど硬直していた。俺はその場に蹲る。くそー、新入部員はいらないと言ったものの俺の心にいつの間にか芽生えていたリトル真田先輩はめちゃくちゃ欲しがっていたみたいだ。勧誘失敗を地団駄を踏みながら悲しんでいやがる。

俺は気づけば叫んでいた。


「ちっくしょー!」


その痴態を見ていた人間が一人。


「うるせえよ」


俺は震えながらそいつを見る。眼鏡をかけており、身長が高くすらりとした男。革命部の部室の隣に部室を構える漢字ゲーム部の部長、倉敷圭人がそこにはいた。彼は笑みを浮かべながら俺の事を見下ろしていた。彼に見下ろされるのは屈辱的なのですぐに立ち上がる。

彼は俺に聞いた。


「何やってたんだよ、久しぶりに格好いい演奏が聞けたかと思ったら、アホみたいな叫び声が聞こえてきて頭おかしくなったのかと思ったぞ」


「頭おかしくもなるぜ。ずっと会いたかった黒御克治の勧誘に失敗したんだからな」


俺がそう言うと、倉敷はこいつ何言ってるんだと言いたげな顔をした。


「黒御克治って、あの?」


「ふん、噂に惑わされる愚か者が。克治は凄いんだよ」


「どういうところが?」


「まずなぁ、まぁ見た目から話すか。髪が女子ぐらい長くてな、細くて顔も可愛いんだよ」


倉敷は一歩下がった。何でだ?俺は一歩近づく。倉敷は後ずさる。…………?


「どんな受け答えにも冷静に対応する所とか、言葉の端々から感じられる知的な雰囲気とか色々完璧なんだよ」


「あー…………そういう事」


「どういう事だ?」


「改めて聞くが僕とお前はただの友達だよな?」


…………認めるのは癪だが事実だ。俺は頷く。倉敷は安堵した様に息を吐いた。いや、何でだよ。倉敷は肩をすくめながら言った。


「僕にまで恋愛感情を向けられてるかと思ったよ」


「恋愛感情?…………俺は克治にそんな感情向けてないぞ?」


「ほんとかぁ?」


彼は怪訝そうな表情を見せる。何か誤解してしまっているようだが、しょうがないな。俺が克治をどのような存在として捉えているのか、みっちり説明してやることにしよう。

倉敷は一歩ずつ近づいていく俺から後ずさろうとするが扉はしまっている。彼はそれを開けようとしたが、俺はそれを食い止めた。


「じゃ、始めるぜ。まずは馴れ初めからだ」


「彼女の紹介の仕方じゃねえか」


それから部活動の終了を告げるチャイムが鳴るまで、俺は倉敷に克治の事を説明し続けた。彼はげんなりしたような顔をしていたが、チャイムが鳴った瞬間に「分かった分かった。会ったらお前の言葉が本当か確かめるよ」と言って革命部の部室から出ていった。

倉敷に話している中で俺自身の克治への思いについても理解できた。俺は想像以上に彼の事を神聖視していたようだ。あぁ~、もう一度あいつの演奏が聞きたい。成長した今、さらに素晴らしい演奏が聴けることだろう。あああああああ!余計に彼を勧誘できなかったことが悔やまれる。もう二度とタイミングが合わずに会えなくなるかもしれない!そんなことは有り得ないとは分かっているが、ネガティブな思考がどんどん湧き上がってくる。


「アアア嗚呼アァアアアア嗚呼!!」


隣から「うるさい!」という倉敷の声が聞こえてきたがそれは無視することにした。そのまま革命部の床でしばらく転げ回っていた。いずれ下校する時が来るが、それまではこのまま暴れておくことにしよう。そう思って五分ほどそうしていると、扉をノックする音がした。俺はすぐに立ち上がり、服についた埃を掃う。


「どうぞ」


扉が開く。そこには克治がいた。俺は歓喜を隠せず、思わず聞いてしまった。


「入部するのか!」


「いや、しませんけど。一つ言いたいことがあって…………」


次の克治の言葉を聞いて、その場で飛び上がるのを我慢できた俺の事をほめて欲しい。


「時々ここに来ますよ。弾いてほしければ、ピアノも弾きますし」


「本当か!」


「はい。…………僕はやることがあるので今日はもう帰ります」


「お、おう!またな」


「はい」


克治は部屋から出て、扉を閉めた。暫く俺はわなわなと震えていた。そして今のが夢であるかどうかを確かめるために自分の頬を思い切りぶん殴る。痛い、現実だ。素晴らしい現実だ!

俺は思わず飛び上がって叫ぶ。


「ひゃっふー!」


「うるせえ!」


その日、まじで久しぶりに倉敷に怒鳴られた。いや俺も悪いけれど、こんな時間まであいつは何やってたんだよ。そんな疑問を抱えながら俺は、スキップと鼻歌をしながら自分の家に帰った。


次の日、クラスで噂になっていて恥ずかしかった。

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