陽気な性格の二人目と人を怖がる三人目

「私も三年だし、もうそろそろ受験じゃん?だから、苦手な国語を何とかしたいなって思って。で、葉子が国語得意だから、教えてもらいに行ったの」


山下先輩は国語が得意なのか。まあ、わざわざ教えてもらいに行ったのだし、当然ともいえるか。倉敷先輩の話を聞くに、漢字に関しても通暁しているようだったし。まあ、国語が得意という事と漢字に詳しいという事に相関はないけれど。だが…………得意か。一応、どれくらい得意なのか聞いてみるか。そう思った時に、三田川が聞いた。


「山下先輩はどれくらい国語が出来たんですか?」


「いっつも九割は超えてたと思うよ?」


「ありがとうございます」


丁度いいタイミングだった。九割を超えているぐらいの『得意』か。まあ、動機には関係ないだろう。長野先輩は中断した春休みの話を再開した。


「葉子が生徒会で鍵を管理してるのは知ってたから、生徒会室に行って、特に苦手だった作文の対策を教えてもらったの。一時間ぐらい教えてもらってから、そのまま帰ったかな」


「そうなんですか」


これで終わりか。倉敷先輩と比べて、詳しくはない。こちらから聞くことで、情報を得ていくしかないか。まずは鍵の事についてだ。


「先輩は春休み中、鍵の場所は分かってましたか?」


「そりゃ分かるよ。印鑑にかけてあったからね」


「そうですよね」


そう言えば、鍵とは言っているけれど、生徒会室の鍵もここにはあったのだろうか。いや…………関係のない話か。でも関係ないとすると、部活棟の窃盗と教育棟の窃盗との間で、『矛盾点』が生じるな。それを解決するアイディアはないではないが…………そのような時間があったと言う方が妥当だろうか。どちらにせよ、長野先輩からはその情報が得られる可能性は低いだろう。


「教えてもらったとは言いましたけど、どんな風に教えてもらったんですか?」


「関係ある?それ。…………えーっと、葉子が問題をホワイトボードに書いて、それを私が解いて、葉子が採点しながらアドバイスをするみたいな感じだったかな」


「ありがとうございます」


逆に、こう質問してみようか。長野先輩が犯人だったら誤魔化されるかもしれないが。


「長野先輩がもし、今回の事件を起こすとして…………何があったらこんな事をすると思いますか?」


「私が?…………うーん、そうだな…………」


長野先輩はしばらく考えていた。そして結論が出たようで、それを口にした。


「盗まれた人達を困らせてやろうって、そんな感じ?」


今回の場合で言えば、山岳部、裁縫部。そして、先生たちか。物が盗まれたとなれば、いろいろと面倒くさいことになっただろう。

さて、可能性は低いとはいえ、一応聞いておくか。


「山下先輩が、長時間席を外したことはありましたか?長野先輩が生徒会室にいた時に限らず」


「私がいた時には、無かったと思うけど?」


まあそうだろうな。長野先輩が犯人だった時を考えて、カマをかけてみるか。僕に上手くできるか分からないけれど。…………どうやればいいんだろう。特徴的なワードを呟いてみればいいのかな。


「秘密のドア」


「え?いきなりどしたの?」


「いや、何でもありません」


分からない。やった意味はなかったな。それにしても…………僕は長野先輩を見る。僕は気になったので、尋ねてみた。


「先輩、身長高いですけど部活動に入ろうとか思わなかったんですか?」


倉敷先輩ほどではないけれど、山下先輩よりは確実に背が高い。バスケやバレーで活躍は出来そうだけれど。まあ、身長がすべてではないが。

長野先輩は僕がいきなりそんな質問をしたので、面食らったようだったが、答えてくれた。


「まあ、入ろうかなとも思ったけど…………中学の時は部活に集中しすぎて成績が下がってたから、高校はやめとこっかなって」


「そうなんですか、それもいいですよね」


無味乾燥な返答だった。他に何かないだろうか。そうだ。倉敷先輩にも聞いたが、教師に対する悪感情がないかどうかを聞いてみるか?長野先輩のではなくとも、生徒たちの間での教師たちへの評価のようなものを知っておきたい。

僕は聞いた。


「生徒たちの間で、嫌な先生として話題に上がるような人はいますか?」


「答えたくないよ。叶原先生いるもん」


僕は叶原の方を見た。やはり倉敷先輩が気づけなかっただけだったみたいだ。僕は彼に言う。


「席外してください」


「嫌だよ、何で俺が」


「お願いしますよ」


叶原は大きな溜息をついて、本を持ったまま図書室から出ていった。ありがたい。彼がいる中では長野先輩も生徒たちの実情を話してはくれないだろうし。僕は改めて、長野先輩に聞いた。


「それで、いますか?そういう人は」


「私らの間では多々良とか?いちいち気持ち悪いっていうか。他の学年だと、西とか勅使河原が話題に上がってるんじゃない?」


多々良という名前は初めて出てきたな。それと、西先生と勅使河原先生か。学年の垣根を越えても轟いている悪名らしい。今回は叶原の名前は出てこなかった。僕は質問する。


「多々良先生は何の先生なんですか?あと、何で嫌われてるんですか?」


「国語よ。理由は、何だろ。見た目とか喋り方とかじゃない?」


「そうですか。先輩が羽場高に入った時からどのクラスの担当だったかとか知ってます?」


そこで長野先輩は即答しなかった。思い出しているようだった。それはそうだろう。僕だってそんなの逐一覚えないだろうし。しかし十秒ほどして彼女は答えた。


「一年の時は四組で、二年の時は三組。今年も三組よ」


「一年、二年、三年の順番で担任になってるんですか?」


「そうよ。だから毎年顔見なくちゃいけなくって」


成程。とりあえずは、良いだろうか。僕は長野先輩に言う。


「これで終わりで良いですかね」


「あ、そう?」


先輩は唐突に終わったことに驚いているようだった。


「先輩、今日は話をしていただきありがとうございました」


「いいよ、いいよ。それじゃね」


先輩は椅子から立ち上がり、手を振って図書室から出ていった。そして入れ替わるように叶原も図書室に入室した。叶原はこちらを睨みつけていた。


「何ですか」


「俺に命令したんだ。どれだけの結果が出たんだ?」


「まあ、少しの事が分かりましたけど」


叶原はそうして彼の定位置となりかけているカウンターの席に戻っていく。委員会の担当も決まれば、あの彼の席もなくなってしまうのだろうけれど。俊徳はスマートフォンを操作している。また山下先輩にメッセージを送っているんだろう。

と、ここで三田川が聞いてきた。


「ねえ、黒御。実際のところ、どれぐらい分かってるの?」


「動機が先生への恨みかもしれないってこと。盗んだものの多くがブラフかもしれない事、かな」


「ブラフ?」


聞き返す三田川に、自分が言った言葉の意味を説明する。


「マッチとか菜箸とかロープとか。色んなものを犯人は盗んだけれど…………犯人が本当に盗みたかったのは、その中の一部なのかもしれない」


「何で?」


「僕が予想している犯人の、物を盗んだ方法だけれど、これにはロープなどが必要になってくるんだ」


俊徳がそこで口を挟んだ。


「何で言ってくれなかったんだよ。飛び降りて欲しいのかと思ったぞ」


「そんな訳ないだろ」


「何の話?」


霧遙先輩が俊徳に聞いた。彼も僕もそれは隠しておきたいことだったのだけれど、誤魔化してもいつかはばれる。彼は正直に答えた。


「克治が、思いついた盗む方法が正しいのかどうか、俺に確かめて欲しいってことで…………」


俊徳はバツが悪そうに言った。いや、バツが悪いのは僕も同じなのだけれど。


「夜の学校に潜んで、実践したんす」


「…………何やってるのよ」


先輩が僕らに言う。解決のためとはいえ、こちらに非があることは確かだし、普通に犯罪だ。この場合、俊徳が実行犯で僕は教唆犯か。頼むから、この二人が僕らを通報しないことを祈っておこう。そう思った時、カウンターの方から「ほーーーん」という声が聞こえてきた。


「…………何ですか」


「いんや?紅羽に話すネタが増えたなって」


「悠くんと悠奈ちゃんがいるんで、翡翠さんとは言っても、連れ出されるのは嫌ですよ」


「翡翠さんねえ。望川もそうだが、何で俺と赤羽は尊敬されないんだか」


やはり。翡翠さんと翼さんと赤羽を同じくくりで囲っているという事は、共通点があるという事。叶原含め、あの四人は…………。


「先生。やっぱりあなた達は…………」


そこでドアをノックする音が聞こえた。またもや、霧遙先輩が「はい」と答える。遅れると言っていたが、思いの外、山下先輩は速めに来たようだった。扉が開かれる。

二人の女子生徒が図書室に入ってきた。僕は山下先輩と共に入ってきた女子生徒を見て、その顔に見覚えがあったことに気付く。


「あ…………先輩だったんですか」


部活動開始初日。僕は図書室に遅れてきた。そして、既に席について話をしている彼らを見た。その時にいたのは、窓側に俊徳と三田川と霧遙先輩。そしてその向かいに、山下先輩と…………もう一人。何の感想も湧かない表情を浮かべた女子生徒がいた。その人は喋らないし、霧遙先輩たちも触れないから、何なんだろうと思っていた。しかし霧遙先輩が部員はここにいる人で全員なんて言うから、その人も無風部なのかと思っていたら一向に来ない。あの日も三人が学校を回るときに閉じかけていた扉を閉めようとしたらゴトリと音を立てて立ち上がり、足音を立てながら近づいてきたから、扉を開けるとそのまま出て行ってしまった。

まさか、その人が。


「あなたが、立花先輩だったんですか」


リボンをよく見てみると、二年生のリボンだ。あの日はよく見ていなかった。人を見た目で判断してはいけないな。


「…………はい」


しかし、立花先輩は山下先輩の後ろに隠れてしまった。山下先輩は言った。


「ごめんね。怜美ちゃん、色々あって人苦手だから」


「別にいいですけど」


一年の頃にあったことが原因だろうし。いや、だからずっと喋っていなかったのか。すぐに図書室からも出ていったし。しかし一つ気になる点がある。


「あの日、何してたんですか?」


「その日は私と話をしながら歩いてて、私が無風部に相談しに行くって言ったら、着いてくって言って。それで着いてきてもらったの」


「それで、何で残ってたんですか?」


「え?…………ああ、いなかったの。もう少し図書室にいるって言ったから、残ってもらったの」


そういう事だったのか。そんなに、図書室を見ていたようには見えなかったけれど。山下先輩の話を聞くのに集中していたから、気づかなかっただけなのかもしれないけれど。まあ、とりあえず話を始めなければ。


「それじゃ、立花先輩。座ってください」


「あ、はい…………」


しかし座ろうとはしない。そこで、山下先輩が言った。


「じゃ、私も同席するよ。それならいいでしょ?」


立花先輩は彼女の後ろで頷いたようだった。三田川の向かいに立花先輩が、僕の向かいに山下先輩が着席する。それにしても、先輩に敬語を使われると不思議な感じがするな。

さて、話を始めるか。僕は立花先輩の方を向いて、言った。目を逸らされた。


「それでは質問を始めます。話せないことは、話さなくても結構です。大体の流れと言うか、状況のようなものは知っていますか?」


「あ…………はい。葉子から、聞いてます」


「そうですか、では」


この質問も四回目になるのか。


「春休み中の生徒会室での行動を教えてください」


「え……っと、私、一年の時に…………その、いじめられてて、葉子が同じ二組で、よく助けてもくれて、話も聞いてくれて…………それで、春休み中に…………話を聞いてくれるって言ってくれたから…………生徒会室に行ったんですけど…………」


小さい声で、訥々ととはいえ、立花先輩は話し始めてくれた。そしてやはりと言うべきだろうか。立花先輩が抱えていた問題はいじめだった様だ。山下先輩の話からの印象で、放してくれないと思っていたけれど何か心変わりでもあったのか。それとも最初から話すつもりだったのか。…………そこはどうでもいいか。

先輩は続ける。


「それで、…………今後どうすればいいか、とかを教えてくれて…………すごい、助かったんです」


そこで黙ってしまった。話は終わったらしい。ここからは僕の質問に移る、という事になるのか。まずは一応、あれを。


「生徒会室にあった鍵の場所はその時分かりましたか?」


「…………はい。えっと、印鑑?に、…………あったので、覚えてます」


「ありがとうございます」


全員、印鑑に鍵がかけられてあったことは分かっているようだった。僕は山下先輩に聞く。


「先輩。生徒会室の鍵もそこにかけてたんですか?」


「いや、部室の鍵だけだよ」


「…………にしては、印鑑って」


何か変な気がするけれど。そんなにたくさんの鍵を掛けられるか?そんなことを疑問に思ったのだけれど、先輩は否定した。


「勘違いしてるよ。春休み中に部活をやってない部って、結構少ないんだよ?」


「あ、そうなんですか」


「本当、五個か六個ぐらい」


それだったら、印鑑でもギリギリか。だからあの印鑑は出っ張っていたのだろうし。そして、山下先輩が思っていたより、鍵の在り処はバレバレらしい。当たり前だが。

いじめの詳細は聞かなくてもいい。必要ないし、聞きたくもない。それなら、何を聞こうか。


「生徒会室に行ったのは、それが初めてですか?」


「い…………いえ、その前までにも何回か…………あります」


「そうですか」


春休み中に複数回行っている可能性もあるのか。一応聞いてみることにした。


「春休み中に学校に行ったのは何回ですか?」


「一回、だけです」


毎度考えてしまうが、聞くべき質問という物は存在するのだろうか。難しいな。何を聞けば、犯人の解明につながるのかが分からないな。現実の警察や探偵はどのようにしているんだろうか。まあ、僕は別にそれらにならないだろうし、知らなくてもいい。でも、今はそのテクニックが欲しいな。

教師の事について聞いてみるか。その前に。


「叶原先生。退出してください」


「へいへい」


叶原は今度は文句を言わずに図書室から退出していった。これで倉敷先輩のような被害者はいなくなる。僕は立花先輩に聞いた。


「何か、恨みのある教師とかはいますか?」


「…………い、いません」


そうなのか。僕は山下先輩に聞いてみる。


「山下先輩は?」


「あんまいないけどな」


この人たちの性格がいいのか、さっきまでの二人が教師嫌いだったのか。まあ、どちらかと言えば、前者だろうな。他の学年の人に聞いたとか言っていたし、話の種になるほどにはそういう話は湧いてくるんだろう。

立花先輩に、先程長野先輩に聞いた質問をしてみた。


「先輩が今回の事件のような物を盗むとしたら、どんな理由で盗みますか?」


「私、ですか?」


立花先輩はそこで困ったような顔をして、考える。まあ、それはそうか。物を盗むとしたらその理由は?なんて即答できるはずもないか。先輩はしばらく考えたけれど、申し訳なさそうに言った。


「…………すみません。なにも、思いつきません」


「そうですか。それなら別にいいんです」


僕は考える。何を聞くべきか。何を聞きさえすれば、犯人を解き明かすことが出来るのか。会話のつなぎの様に、僕は山下先輩に聞いた。


「そう言えば、盗まれたロープとどれくらいの長さだったんですか?」


「結構長くて、20mとかじゃなかったかな」


「そうですか」


なんともない無意味な質問。そんなものをしてみようかと思った。だけど妙に思われるかもしれないな。いや、別にいいか。人の評価なんて、それぐらいじゃ大して変わらない。落ちたとしても、どうせこの件が終われば同じ学校にいるだけの他人だ。


「春休みは、風がほとんどなくて良かったですよね」


『今日は天気が良いですね』のような発言に聞こえるな。


「そう、ですかね。…………風がないのは、一日ぐらい…………でしたけど」


どうやら、春休み中は良く風が吹いていたらしい。何だか、質問するべきことが思いつかなくなってくるな。もう終わりでいいのかもしれない。僕は言った。


「質問はこれぐらいで良いです。立花先輩、ありがとうございました」


「あ、はい…………」


「山下先輩も、今日はありがとうございました」


「別にいいよ!こっちが相談したことだしね」


それじゃ!と言って山下先輩は立花先輩と一緒に図書室から出ていった。それからすぐに叶原が入ってくる。叶原はさっきまでは開いていた本を閉じている。この短時間で読み終わったのか?流石に速すぎやしないか。あの本、山月記以外の中島敦の本も収録されていたような気がするのだけれど。叶原は僕の方を見て、言った。


「聞き込み調査は終わったみたいだが、少年。何が分かったんだ?」


僕は少し考え、正直に答える。


「多くの事が分かりました。今日、あの三人に質問できたのは僥倖でした」


少し躊躇い、思い直す。そして、言う。


「全てが上手くいけばですけど、運が良ければ明日には解決します」


僕の脳に浮かぶのは、矛盾点がないかどうかを確かめる思考と、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる男の顔だった。今日は自分の思考を整理する。そして、明日の部活動の時間。山下先輩と犯人と思われる人物を呼び出して、説明を行う。その人が犯人ならば事件は解決。犯人じゃなければ僕の評価は落ちて、振出しに戻る。

そして、振出しに戻るという事は、犯人はあの四、五人の中に存在しないという事。それはこの事件の解決の不可能性を表している。先輩が何人いるかは知らないが、その全てに聞き取り調査をして、少しずつ論理を組み立てていくなんて、素人の僕らが一朝一夕で出来ることとは思えない。数ヶ月はかかる。その数ヶ月の間に、記憶はうつろうだろうし。運も大きくかかわってくる。

明日の説明に、この事件は解決可能かそうでないかがかかっている。僕が今日の今日まで頑張っていたのは、解決可能だと思ったからだ。あの中に犯人がいないなら解決は警察などの公共機関の手に委ねない限りは不可能だ。

僕は今の発言の真偽を三人に話している。まだ確信を得られていない部分は誤魔化し、大まかな概要だけを口にする。願わくば、これがあっていますように。


「で、多分その人が犯人だ」


反応は三者三様。面白いと思っているやつもいるし、本当かどうか考えている人もいるし、自分はどう思うかを考えているのもいる。叶原は何も言わずこちらを見ていた。僕は信用している大人に、自分が今話した推理の筋が通っているかを聞いてみることにした。


「どう思いますか、先生」


叶原は適当にこう返した。


「さぁな。俺は今回の件で推理に興味はない」


「…………そうですか」


それならそれでいい。明日、僕は無風部員として、学生は部活動に所属している場合、部活動を力を入れて行うという義務に基づき、推理を披露する。もしかしたらそれは、何も知らない人に欺瞞を押し付けることになるかもしれない。だけれど、そんなのはどうでもいい。批難も、怒りも、侮蔑もどうでもいい。本当は去年のクリスマスに死ぬはずで、かけられた励ましの言葉のようなもので屍のように生き続けているような僕は、そんなのはどうでもいい。

生きているのに、喜べない人がいる。悲しめない人がいる。楽しめない人がいる。苦しめない人がいる。もがけない人がいる。

生きているのに、喜ぼうとせず、悲しもうとせず、楽しもうとせず、苦しもうとせず、もがこうとしない僕の無為な意識を、その人に移植する方法はないだろうか。日常は誰にとっても何の価値もなく消費されていく。でも僕が無価値に消費する日常と、その人が無価値に消費する日常の重みは全く違う物だ。僕は無意識にそれを消費している。その人も無意識に消費している。でもその人は日常を体感することなく消費していく。そんな残酷なことがあるだろうか。そんな日常があるのは何故なのだろうか。

日常。普段と変わらないことを意味する言葉。同じ日なんてないのに、そんな言葉はよく使われる。普段と変わらないというのは、本質の事を言っているんだろう。ならば、その人にとっての、あの現状は日常という檻に嵌め込まれてしまうのだろうし、僕にとっての、この現状は日常というぬるま湯に溶けていくのだろう。

だけどきっと僕は、待つことしかしないんだろう。意識を移植する方法など探そうとはしない。探さない理由を探している。もし長年かけて見つけたとして、その人が目を覚ました時、その人が知っている人はいないだろう。なら僕がゼロから研究を始めるより、今生きている人たちの研究を待った方がいい。そんな最低な事を考える。そして、今ある守らないといけないものを守って、それが手元から離れれば、いつの間にか死んでいくんだろう。

しかし僕はその人に助かって欲しいし、僕は積極的に生きようとは思わない。義務ではないこの活動を、この権利を、享受できないその人に寄与したい。誰もが抱えている矛盾を、僕は抱えている。

僕は世界の変化を望んでいる。いくら金があっても捻じ曲げられないルールがあるこの世界が嫌いだ。僕の変化を望んでいない。何もできない癖に、自分の考えすらも貫けないなら死んだほうがいい。

どうかこの事件で、僕に大きな変質がないことを祈りたい。僕という人間が歩む道を、踏み外さないことを祈りたい。

無神論者の僕は、無為にそう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る