義務の転換

他に見たいものは何もないな。そう思い、山下先輩に申し出ようとする。だけれど、後で会長が来ることを思い出した。容疑者を春休み中に生徒会室に来た四人に絞ったんだ。会長の話は聞いておきたい。彼も容疑者の一人ではあるのだから。では、それを待っている間に何をしておこうか。山下先輩に話でも聞いてみるかな。


「山下先輩、立花先輩の『相談』っていうのは、流石に教えてもらう事は出来ませんよね」


山下先輩は考えもせずに即答した。


「少なくとも、私から話せることは何もないよ。怜美ちゃんも、話さないと思うし」


「じゃあ、これだけは教えてください。…………学校での問題ですか?」


山下先輩は迷っているようだった。それはそうだろう。僕、黒御克治が信用に足る人間であるかどうかを見定めているはずだ。ここまで情報を秘匿するという事は、余程の事情があるのだろう。だが、それが学校での問題だとすれば…………考えられる可能性は限られてくる。

山下先輩は言った。


「…………うん」


「教えてくれてありがとうございます。無理を言ってすみません」


「いや、いいんだよ!」


学校での問題はほとんどの場合、とある一つの単語に帰結する。もちろん、友達との喧嘩や先生からの体罰などもありうるけれど、前者の場合はそこまで秘匿することかという疑問や、友達に重々しく相談することかという疑問が湧いてくる。怜美ちゃんは弱っていたと言っていた。友達との喧嘩程度で、目に見えるほど弱るような繊細な心の持ち主だったら、山下先輩だって突出して説明したりはしないだろう。そして後者。先生からの体罰だが、そんなことが羽場高校で起こったなんて聞いたこともない。それに、立花怜美は部活動に所属していない。つまり春休み中には離任式以外では登校する義務はない。この学校にそれがあるかは知らないが、どちらにせよ立花怜美は学校に来る必要はない生徒だ。

教師からの体罰を受けている生徒が、自ら学校に来るだろうか?そして、喧嘩と体罰が否定されたならば残された可能性は一つだ。そしてそれが立花先輩の抱える、もしくは抱えていた問題なのだとすれば…………それも教師からの体罰と同じ理由で否定されてしまうのだろうか?

いや、違うのかもしれない。普通は春休み中、部活動がなければ学校には来ない。山下先輩は長嶋さんとも話したようだし、元々そういう人助けをしたりする気質なんだろう。それに、鍵を保管しておくという仕事もある。先輩の土日の予定は知らないが、すぐに相談をしたいとなれば学校に来るほかない。

作文を書くコツを教えて欲しい。漢字のゲームのベータテストをしてほしい。入学式で話す言葉の推敲をしたい。

そして学校で抱えている問題の相談を聞いてほしい。…………ふむ。


「先輩、申し訳ないんですけどあと、二つだけ教えてもらってもいいですか?」


「質問によるけど、いいよ」


よし。


「先輩は立花先輩の抱えている問題を、春休み前から詳細に知っていましたか?」


「うん、知ってたよ」


「…………では。その相談をすることを提案したのは、山下先輩ですか?ええと、つまり。山下先輩が立花先輩に、相談に乗ることを提案したんですか?」


山下先輩は本当に不思議そうに言った。


「何でわかるの?」


「いや、これは本当に推理でも何でもなく、こうだったらいいなという希望的観測ですよ」


だがこれで、立花先輩があの問題を抱えていたとしても、春休み中に学校に来た理由が分かったような気がする。山下先輩は立花先輩の問題を詳細に知っていた。その上で、その元凶となる存在がいる場所に立花先輩を呼んだりしないだろう。鍵の管理という仕事を任され、学校に登校する必要がある山下先輩が、立花先輩を呼んだという事はその元凶は学校にいない…………部活動に所属していないという事だろう。したがって、立花先輩が学校に来たことに、奇妙な点は何もない。ただ、相談をするために学校に来たんだ。

鍵を盗み出したかは別として。

その時、扉が開く音がした。スタイルのいい男だ。ぱっと見た時にそう思った。顔も随分と整っているようだった。そして僕はその人の事を見たことがあった。入学式の時に。

状況が分かっていない様子のその人に、山下先輩が説明をした。


「大垣先輩、この二人がさっき言った無風部の子たちです」


「ああ、この二人か。…………戸澤俊徳と黒御克治か?」


何で知られているんだとは言わない。俊徳はここら一帯では目立っているし、それに付き添っているせいで僕の名前も同時に知れ渡っている。僕は頭を下げる。

俊徳は、


「こんにちは、大垣先輩。いやー、そんなに俺たちって有名ですかねー」


と気楽に言っている。僕はそんなに楽天家になれないな。大垣先輩は軽快に笑った。


「まあ、大分ね。俺の耳にも噂は届いてくるよ」


そうなのか…………。全く嬉しくない。

いや、僕の評判は別にどうでもいい。今は大垣先輩から春休み中の情報を聞かなくてはならない。手始めに…………。


「大垣先輩。今無風部がやってることは知っていますか?」


「ああ。学校の備品が盗まれたとか何とか」


僕はうなずく。何だか失礼な気もするが、仕方ない。聞いてみよう。


「盗まれたものの中には春休み中に部活動を行っていなかった山岳部と裁縫部の備品もあります。しかしその二つの部の部室は鍵がかけられ、閉ざされていました。その鍵があったのは、生徒会室です」


「ああ」


俊徳に代わって欲しいな。


「先輩。春休み中、生徒会室に来た時の行動を教えてください」


「分かった。いいよ」


先輩は僕のこの質問で、自分が疑われていることを理解しただろう。それでも悪態ひとつつかず、こちらへの嫌悪感を噯にも出さないのは感服する。こちらとしても、聞きやすくて助かるという物だ。さて、変な質問をしないようにしなければ。必要最小限の質問だけをしよう。まずは大垣先輩の話を聞こう。


「俺の仕事の中に入学式で話をするってのがあったんだけど…………恥ずかしいことに他の生徒会の仕事に追われて、文章をまとめる時間が短くなってさ。一応、形だけは出来たから日本語として変なところはないかとか、もっと簡潔でわかりやすい表現はないかとかを山下に相談をしにいったんだ」


山下先輩にね。…………一つ思いついたけれど、流石に飛躍しすぎだろうか。もしそうだとすれば、妙に考える必要もなくなるけれど、この可能性は最後に検討することにしておこう。僕は気になったことを聞く。


「それって何日の話ですか?」


「四月二日だ。だよな、山下」


「はい。四月二日でした」


仕事に追われて、文章を考える時間がなかったと言っていた。四月二日に相談をしに行ったというのは妥当だ。ただ、犯行可能な日時に含まれてしまっているのは不幸だと言える。

大垣先輩は話を続ける。


「そこで俺は原稿に書いてきた文章を山下に読んでもらって文章をまとめてもらったんだ。大体、三十分ぐらいかな。途中で山下が、来た電話に出て教室から出たな。それが三分ぐらいだ。文章が完成してからは、春休み中の事とか新学年の事を話して、そのまま帰ったな。話をしたのが十五分か二十分ぐらいかな?」


僕はなるほどと呟きながら、窓を見る。この部屋から下校する様子を見ることは出来なさそうだな。そして山下先輩は電話に出るために教室を出たのか。これが、昨日言っていた、犯行は可能だったという事か。

怪しいとは思うが、確信にまでは至らない。他の人の話も聞いていないし。二人がどんな話をしたのかは聞く必要はないだろう。


「何か、聞きたいことはある?」


大垣先輩の質問には、俊徳がじゃあ、と答えた。この会話の間、何をしていたんだろうか。気になるが、今はあいつの質問を聞こう。そう思ったけれど、俊徳は僕の方を向いた。そして言う。


「なあ克治。あれって言っていいと思う?」


俊徳はホワイトボードの方を向いて聞く。なるほど。あの扉の事についてか。確かにそれについては聞いておいた方がいいかもしれない。僕は首を縦に振る。俊徳も笑って頷いた。そして、大垣先輩の方を向いて言った。


「さっき発見したんですけど、あそこに小さな扉があって、その先に小部屋がありました。先輩はそこの存在の事を知っていましたか?」


「扉…………?」


俊徳はもう一度ホワイトボードと物を退かす。再度、扉が外気に触れる。大垣先輩はそれを見て、驚いたように言った。


「こんなところがあったなんて…………この学校で何年も過ごしてきたけど、知らなかったな」


三年生の大垣先輩も知らないとなると、ほとんどこれを知っている人間は限られるんじゃないか?いや、先輩が嘘をついている可能性だってまだ残っているんだけれど。んー。


「中はどんな感じなんだ?」


先輩のその質問には僕が答えた。


「暗くて、狭くて、凸凹していました」


「へぇ。…………俺は入れなそうだな」


大垣先輩は身長が高い。確かにここに入ることは出来なさそうだ。まあ、退かしたものを置く場所はない。僕らは再度、物を動かしてその扉を隠した。ホワイトボードも元の場所に戻す。

さて、僕は何か大垣先輩に聞くべきことはあるだろうか。…………直接は関係ないだろうが、単純な好奇心で一つ聞いてみる。


「山下先輩がこの教室の管理を任されることになったのは、どういう経緯なんですか?」


大垣先輩はそれに即答した。


「山下が立候補したんだよ。家にいてもつまらないし、予定もないからって。正直、山下にはすごく感謝してるよ。文章も考えてくれたしな」









「いやー、あれはモテるなー」


「あれって、大垣先輩の事?」


僕らは生徒会室から出た。もう聞くべきことはないと思ったからだ。僕らは今、とりあえず好川先生の話を聞くためにパソコン室に向かっている。その途中で、俊徳がそんなことを言った。

俊徳は答える。


「ああ。高身長だし、いい人そうだし、イケメンだし。ああいう天賦の才を持ってして生まれたかった。いや、俺がこれから突然変異して大垣先輩と同一の存在になる可能性も無きにしも非ずだな」


「君がそこの廊下の壁をすり抜けることはあっても、それが実現することはないと思うよ」


「すり抜けた俺って俺なのかね」


「どうも難しくてよく分からないね。素粒子レベルでは可能でも、僕らレベルに拡張するとよく分からなくなる。でも、同じ記憶で同じ分子でってなると、もう同じでいいんじゃないの?」


僕の返答に俊徳はあまり納得いっていないようだった。俊徳は何かを閃いたような顔をして、すぐに真顔に戻った。僕は気になったので聞いてみる。


「何?」


「いや?高校の倫理の授業を予習したおかげで、俺にもかばかりの倫理が身についたんだよ」


…………何となく言いたいことは分かった。話を変えよう。


「というか、彼女いるんだからモテる必要はないだろ」


「いや、それとこれとは話が別じゃ?」


「同じだろ。野田さんに言いつけるぞ」


「閑話休題、倫理の話に戻るけど」


戻すのか。


「受験するときは世界史にしようと思ってるんだけどな」


「入学早々、受験の話はやめようよ。もう少し明るい話があるだろ」


僕が心底そう言うと、俊徳はばかばかしそうに笑った。


「くく」


「何がそんなに面白いんだよ」


「いやだって、克治が明るい話って…………ははは!」


そんなに面白い話でもないだろ。僕だって暗い話よりは明るい話の方が好きだ。高校受験を乗り越えて、羽場高校に入学したばっかりなのに、どうして大学受験の話をしなければならないんだ。せめて後一年ぐらいは考えずにいたいところなんだけど。


「それにしても、世界史ね」


「そうそう。克治の得意分野の世界史だ」


僕はどちらかと言うと、日本史の方が得意なんだけれど。まあ、世界史の方が面白いと感じることも確かだけど。文化史に関しては、世界史の方が圧倒的に面白いと僕は感じている。主観に過ぎないけれど。


「ま、俺はナポレオンの事をボナパルトって呼ばないことに納得いってないけどな」


「何で?」


別にいいだろ。しかし俊徳はこう反論してきた。


「トマス・ホッブズはホッブズだし、ヨハン・フィヒテはフィヒテだろ?なのにナポレオン・ボナパルトだけナポレオンなんだよなー」


「それはナポレオンがナポレオン一世として即位したからじゃないか?普通、国王として即位したら、その時の名前を覚えるものだろ。綏靖天皇の事をカンヌナカワミミノスメラミコトって呼ぶ人はいないのと同じなんじゃないの?」


「なるほどねー。その説は有力だ。俺は歴史の王が好きだから、今後ともナポレオンとしてよろしく頼んでおこう」


それにしても、トマス・ホッブズもヨハン・フィヒテもだけれど、よく分からない人選だ。もっとあるだろう。フランソワ・シャンポリオンとか。…………ナポレオンに引っ張られている気がする。いつも通りの無意味な会話とはいえ、結局よく分からない結論が出てしまう。

…………あ。


「閑話休題、数学の話だけれど」


「おい」


「俺が片っ端から色んなこと証明しまくって、トシノリの第一定理とか第二定理とか作りまくったら、どんな問題でもトシノリのうんたら定理より結論はこうなるみたいに出来ないもんかね」


「着いたぞ、パソコン室」


僕は俊徳の肩をたたく。そこで俊徳は自分が既に目的地に到達していたことに気付いたようだった。仕方なさそうに肩をすくめて、僕の方を向いた。


「じゃあ、入るか」


「うん」


「ところで、さっきの話どう思う?」


「君は数学者にならないと思う」


「そりゃそうだ」


僕はパソコン室の扉をノックする。中からは無気力な返事が返ってきた。僕は失礼しますと言いながらその扉を開いた。俊徳と一緒に教室の中に入る。右を見ると大きなホワイトボードがあった。解いても、生徒会室の物のように脚があるわけではなく、壁に設置されているといった感じだ。広い教室だと思った。幾つもの机が並べられていて、その上には五つずつパソコンが置いてある。そして各机には五つずつの椅子があてがわれている。

その内の一つの席。最も後ろの席で、最も左の席。そこに目の下に濃い隈がある空いたエナジードリンクを沢山机に並べた男が座っていた。座っていたとは言っても、相当姿勢が悪いけれど。だけれど、意外なこともあった。その隣に僕の知っている男が座っていたからだ。僕は彼に話しかける。


「何でここにいるんですか、叶原先生」


叶原はこっちに首を向けて、笑った。


「同僚と話す社会人がいちゃだめか?」


そう言われると、駄目ではないような気がする。だけれど。


「あなた、無風部の顧問でしょ」


「俺がいたって変わらないだろ?」


本当にそうだろうか。叶原はかなり発想の転換が上手かったような記憶があるのだけれど。まあ、働いてくれないのならば仕方ない。僕は扉を閉めて、二人の教師に近づいていく。そして、好川先生と思われる人に話しかける。


「すみません。好川先生、ですか?」


「ああ。俺が好川だ。…………おい叶原。無風部は三人も新入部員が来るほど人気なのか?」


「ああ、もちろんだ」


「…………数珠のように続いていくな」


好川先生は姿勢を直さずに会話を続ける。ああ、俊徳と三田川とはもう会っているのか。確かに無風部が人気のある部活とは到底思えない。僕だって霧遙先輩との関りがなければ、見向きもしなかった部活だ。…………そうなると、霧遙先輩は何でこの部活に入ったんだろう。霧遙先輩も、何か『関り』があったんだろうか。もしそのように続いていくとするならば、確かに数珠のようだと言える。


「それで、お前の名前は何だ」


「黒御克治です」


「そうか。黒御、俺は化学室の音なんぞ聞かなかったぞ」


「…………絶対に?」


そこまで言い切れるものなんだろうか。春休み中の事なんだし、記憶が曖昧になっていてもおかしくないと思うんだけれど。もしトイレに行ったりしていれば、聞き逃しているという可能性だってある。いや、それは心理的な側面からという理由で、僕が否定した可能性なんだけれど。

好川先生は姿勢を変えないまま続ける。


「俺はある時、決めたんだ。職場には最初に出勤するし、職場からは最後に退勤する。トイレは朝と夜の一回ずつしか行かない。そんな規則正しい俺が、たまたま聞き逃すなんてことはないんだよ」


…………まるでこの事件のために生まれてきたような教師だな。だが僅かに存在する可能性も消しておかなければならない。


「寝てたという事は?」


「あるわけねえだろ。何のためにエナドリ飲んでると思ってんだよ」


それも…………そうか。ならこの話を信じるとして…………。


「先生が学校に来る時間と、家に帰る時間を教えてください」


「朝は五時、夜は十一時だ。あと、言っとくが朝礼とかで抜けた時間には生徒は登校してなかった」


「教えてくれてありがとうございます」


もうほとんど…………確定したようなものじゃないだろうか。盗んだ方法には何となく見当がついた。だけど誰がやったのかが分からない。あ、もう一つ聞かなきゃいけないことがあったんだった。長嶋さんから聞いた、あの情報。


「好川先生。戸締りの状況についてなんですけど」


「ああ」


「どんな風に戸締りしたんですか?」


僕の質問の意図を察したのかは分からないけれど、好川先生は面倒くさそうに立ち上がった。そしてポケットをごそごそと漁り、沢山の鍵がまとめられた実用性だけのキーホルダーのようなものを取り出す。

そして、左手をポケットに突っ込んで、言った。


「着いてこい、見せてやる」


僕は俊徳の方を見る。しかし俊徳は首を振った。


「俺は少し叶原先生と話すよ」


何を考えているのかは分からないけれど、まあ任せておくことにしよう。叶原も頷いていることだし。僕はこちらを待たずにずんずんと歩いていっている好川先生の後を追った。

好川先生が実演しようとしている場所は化学室らしい。彼は化学室の扉を開ける。そして教室の中に入っていく。僕もそれに続く。

好川先生はこちらの方を向いて、言った。


「見ての通り、窓の鍵は閉じられている。もちろん開けられている場合もあるだろうが、そうでなかった場合はわざわざ中に入ったりはしない。教室の外から、窓を見て閉まっていれば教室の鍵だけを閉じる」


僕は化学室の扉を見る。生徒会室とは違い、内側から開けることのできない扉だった。そして窓を見る。確かにさっき来た時も閉まっていた。

そしてなぜか好川先生は机の一つを指さした。この入り口から最も遠い机。だがあまりよく見えない。


「俺はいつも入り口から点検をする。戸締りの時に気を付けているのはそれだけだ」


「…………ありがとう、ございます」


僕は好川先生の行動と思考が気になった。いや、有り得ないとは分かっているんだけれど、有り得るかもしれない。

僕は質問してみた。


「好川先生は、もう犯人が分かってるんですか?」


「現場も知らない。情報も又聞きしただけの俺が、謎解きなんぞ出来るわけないだろう」


「それもそうですね」


確かに、そうだ。好川先生は鍵をまたポケットにしまって、大きな溜息をついた。猫背で、色濃い隈がある。無気力そうな声。どこをとってもだらしない大人の代表のようなその人は、叶原に気に入られているらしい。叶原は、自分の気に入っている人間を名前で呼ばないという癖がある。癖というか、モットーというか。僕の予想が正しければ、叶原の口から好川という単語が飛び出ることはないだろう。


「俺が出来るのは、機械いじりだけだ」


なんとなく、その理由が分かるような気がした。猫背で、色濃い隈がある。無気力そうな声。どこをとってもだらしない大人の代表のようなその人は、完璧な仕事をこなしてくれるだろう。だからこそ、教育棟の鍵の管理も任されているのだろう。

彼は鍵の管理を任されたから、自分の出勤と退勤の時間を定めたんだろうか。

なら彼は叶原のお眼鏡にかなったに違いない。彼は外見と内面が違う人間を好むんだから。


さて、思いの外と言うべきか。この事件の解決も近いかもしれない。犯行方法は思いついた。僕が解き明かさなければならないのは犯人。でも犯人は恐らく肝要な証拠を残していないだろう。残された証拠は、警察のような調査能力を持たない僕には見通せない物だけだ。それに長い時間が経過している。万が一、何かが残ったのだとしてもすでに消えてしまっている可能性が高い。だが切り口は存在する。

何故犯行を行ったのか。最初に考えるのは無理だと切り捨てた動機。これと場の状況を絡め、犯人を見つけ出す。不可能も可能になる。いや、違う。不可能だと勘違いしていても、その勘違いはいずれ正されることもある。そう言った方がいいだろう。

…………犯人は生徒の中にいる。いや、極端な可能性を考えれば教師や用務員にも可能だ。叶原にでも聞いておくか。二年生以上の部活動に所属していない生徒が有力な容疑者。思考を最大限広げるため、まずは、その中から先程生徒会室で厳選した容疑者に絞る。大垣先輩には話を聞いた。後は、山下先輩に頼んで他の人の話も聞けば…………。後は何だろう。山下先輩からも何か情報が出るかもしれないな。

思考が巡る。何もなかったジグソーパズルにピースが一つずつ埋め込まれていく。さて、この絵は何でしょうという。この問題に僕は取っ掛かりを見つけた。


「あと二日、いや三日かな」


無風部の初活動も終わるだろう。そう思った時、何か幻聴が聞こえたような気がした。


『君はとことん名探偵気質だな』


うるさいな。所属した部活の部活動を行うのは義務だ。義務をこなして、何が悪いというのだろうか。

僕は好川先生に続いて、化学室を出た。

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