記憶の渦に身を委ね

漢字の話をした後、僕が夕食を食べた。その後、しばらくしてから三田川は言った。


「ねえ、黒御」


優しく話しかけるような、そんな声だった。そう言えば、三田川とゆっくり話すのも随分と久しぶりだと思った。春休み中に、三田川たちと会う事はなかったな。ああ、返事をしなければ。

僕は三田川の言葉に、短く返した。


「何?」


「何でもない」


「そう」


なら、いいか。僕も聞くことがあるのを思い出した。それを三田川に聞いてみた。


「最近、親とはどう?春休み中に何か変化とかあった?」


「何にもない。でも、その方がいい」


笑いながら、気楽そうにそう言った。まあそうだろう。いつかは向き合う時が来るかもしれないけれど、少なくとも今じゃなくてもいいだろう。僕は、そう考えている。翡翠さんもそれを認めてくれた。せめて高校を卒業するまでは、三田川は自由に生きてもいいだろう。高校を卒業するとき、その時は親に向き合い、本当の意味で独立する必要があるかもしれないけれど…………どちらにせよ、僕がこれ以上介入する必要はないだろう。


「黒御、図書室に来るまで何やってたの?」


「少し、昔の知り合いに会って…………久しぶりにピアノを弾いた」


彼の顔を思い出しながら、そして彼の奏でた音色も思い出す。彼は今もピアノを続けていて、美しい音を作り出していた。


「ピアノ弾けるの?」


「まあ、少しはね」


僕がそう言うと、三田川はふーんと言って、笑顔を見せた。


「じゃ、今度弾いてよ。確かピアノあったよね、この家」


「ああ、あるにはあるけど…………チューニングとかもしてないしね」


「それこそ赤羽さんに手伝ってもらえばいいじゃない。あの人大抵の事は出来るんだから」


ここで赤羽に頼ってしまうと、後々面倒くさいことになるような気がするのは、僕が悪いのだろうか。いや、そんなことはない。赤羽の普段の言動と性格が、その感想を抱かせる。まあ、向こうも僕に迷惑をかけているのだから、こちら側から頼んでも、それを借りとはしないだろう。その程度の良識はあると信じたい。


「そうだね、いつか弾くよ」


有名な楽曲の楽譜はある程度頭の中に入っている。弾いたことがなくても、ある程度の完成度を持って弾くことはできるだろう。三田川は楽しみにする、と言った。

…………三田川とこんな風に話すようになったのはいつからだろう。確か、中学二年生の時か。三田川と話すようになったのも、委員長と出会ったのも、俊徳が絡んでくるようになったのも、中学二年生の時だった。霧遙先輩とは中学一年の時に出会い、価値観を変えられた。

今思えば、あの時から少しずつ僕は変化していったのだと思う。霧遙先輩と話し、俊徳と出会い、三田川に出会い、委員長と出会った。昔の僕が、今の僕を見ても何も思わないだろう。でも、それでいい。少なくとも今の僕は、このままでいい。

去年俊徳に投げかけられた謎は解けていない。三田川の親の問題は現在進行形で続いている。霧遙先輩だって達成困難な夢を抱いているし、僕も幾つかの問題を抱えている。他の皆だってそうなんだろう。

それは普通じゃなくて、普通なんてないんだから別に良かった。僕が今引き摺っている心の傷だって、いつの間にか風化していってしまう感傷でしかない。世界の全てがそうだってことは、誰もが分かっているけれど、理解かろうとしない。何なんだろうか。世界そのものが自家撞着なのかもしれない。

それでもいい。

僕はこれからも続いていくであろう、つい最近始まったばかりの高校生活に、思いを馳せた。










その後、三田川は自分の家に帰った。僕はそのまま部屋で寝て、次の日起きた。朝食を作り、昼食も作り置く。朝食を食べている二人に話を聞くと、三田川は昨日、かなり面倒を見てくれたらしい。二人は楽しそうに機能の事を話していた。あとで改めて、三田川に感謝をしようと思った。僕は身支度をして、家を出た。

通学路をしばらく歩くと、カーブミラーを背にタバコを吸っている男がいた。非常に邪魔だから、やめて欲しいところだ。その男はこちらに向けて、ポケットから出したまだ吸われていない煙草を向けてきた。


「タバコ吸うか?ガキ」


「吸わないよ」


いつもの会話だ。その男、赤羽あかばねすいは残念がる素振りも見せずにそれらを仕舞う。そしてタバコを吸い終え、ポケットからビニール袋を取り出してそこに入れた。なぜこの男はビニール袋を持ち歩いているのか。


「ポイ捨てはしないんだね」


「環境に配慮してんだよ」


「なのにビニール袋は使うんだね」


赤羽は僕のその言葉を鼻で笑った。ビニール袋をぶんぶん振り回している。


「いいんだよ、燃やさずに家に捨てといたら二酸化炭素も出てこねえだろ」


「その分、家は汚くなるけどね」


「どうでもいいだろ」


赤羽はそう言って伸びをした。そしてにやりと笑いながら言った。


「昨日お前に言われた謎が解けた!」


「へぇ、解けたの」


「ああ、犯人は叶原のクソ野郎だ」


そう言えば、赤羽と叶原は知り合いなんだったな。そう言えば昨日、叶原が翼さんと知り合いかのような言い方をしていたし、赤羽も翼さんの事を知っているのかもしれない。なら、翡翠さんも?僕の知り合いの大人は全員顔見知りなのだろうか。そんな偶然があるか?

が、それは今考えることではない。僕は速く登校したい。適当に相槌を打つ。


「あっそう」


今のところは、赤羽に期待しても無駄だと分かった。僕は赤羽を無視して学校に向かう事にした。チューニングの件に関しては、またいつか頼むことにしよう。そう思いながら歩いていくと、肩を掴まれた。僕は振り返らずに、立ち止まる。赤羽が言った。


「冗談だよ、犯人は怜美ちゃん。理由は疲れたからだ!」


適当に、根拠もなしにそういう事をいうものではないと僕は思うけれどね。赤羽は自信満々に言っているが、信憑性は低い。そもそも昨日の時点で、犯人を絞り込むことは不可能だ。赤羽の理論があったとしても、それはあの四人の中で立花先輩が最も犯人の可能性が高いという結論に至るのが関の山だ。

僕はいつも通りの声で、赤羽に返答した。


「半分正解かもしれないぐらいに受け止めておくよ」


かもしれない、だ。立花先輩が犯人である可能性自体は存在するが、疲れたから盗んだというのはどういう事だと言うしかない。

だから、半分正解かもしれない、だ。そもそも赤羽の話はほぼ全て話半分に受け止めておくぐらいがちょうどいい。肩を掴んでいた手が離れる。振り返ってみてみると、赤羽はポケットからタバコを取り出して、火をつけた。…………健康に関する忠告はしなくてもいいだろう。

僕は何も言わずに、羽場高校に向かって足を進めていった。赤羽も、今からコンビニに行くのだろう。


今日も程々に頑張ろう。










部活の時間になった。今日は部活棟には向かわず、そのまま図書室へと向かう。扉を開けると、そこにはすでに俊徳がいた。俊徳は昨日と同じ椅子に座っていた。彼の後ろには羽場市の風景が広がっているけれど、妙に様になっているのは、彼の家が関係しているのだろうか。性格が関係しているわけではないことは確かだが。


「遅かったな、克治」


「走っただろ」


「走ったよ?」


悪びれずにそう言った。僕は俊徳の向かいに座る。俊徳は何の本も読んでいなかった。流石に、そんな暇はなかったという事だろう。さて、何もすることがないな。考えても息詰まることは目に見えている。僕はどうしようかと思い、とりあえず本棚を見ようと思った矢先、俊徳が言った。


「何か分かった?」


「分からないよ。まだ情報が足りてないんじゃないかな」


「そうじゃなくて、昨日山下先輩から何か聞いたんだろ?」


何で知っているんだ。そう言いたかったが、俊徳にそんなことを言ってもしょうがないというような気にもなる。まあ、今説明した方が手っ取り早いか。僕は立ち上がろうとするのを止め、俊徳に話すことにした。


「山下先輩から…………春休み中に生徒会室に来た四人の話を聞いたんだよ」


「へぇ。怪しいと言えば怪しいけど、怪しくないと言えば怪しくないってところかな」


「まあ、そうだね」


俊徳は好奇心を抱いたのか、身を乗り出してきた。こいつにとってこれはそんなにも心を惹かれる内容だろうか。そうでもないような気がするが。俊徳は、自分が予測できない状況こそを好むはずなのだけれど。まあ、抱いたならそのまま話を続けるけど。


「で、どんな四人なんだ?」


僕はゆっくりと、昨日聞いた四人の情報を話した。昨日帰ってる途中に赤羽にも話したから、詰まらずに話すことが出来た。長野先輩、倉敷先輩、立花先輩、大垣先輩の四人について。俊徳は僕が話をしている間、珍しく静かにしていた。俊徳は聞き終わって、両手を上げた。


「分からないな、これだけだと」


「まあ、そうだね。絞り込むのは不可能だと思い始めているよ」


僕がそう言うと、俊徳は眉をひそめた。何でだ。俊徳は本気で疑問に思っているかのような声をあげる。


「不可能?インポッシブル?克治でも?」


「無理だと、僕は思ってるけどね。決定的な証拠でもない限り、指紋の解析も出来ない僕たちに、犯人を絞り込む方法はないよ」


「決定的な証拠がないって誰が決めたんだって話だ。それに、克治なら行けると俺は思うんだけどなぁ。文化祭の時も凄かったし」


「文化祭、懐かしいけれど…………」


今度は僕が眉をひそめる。


「そのどこから湧き上がったかも分からない信頼はどこから来るんだよ。あの一件だけはまぐれだろ」


「もちろん、俺の熱い、灰色の脳細胞からさ」


「要するに、根拠なしだね」


今度は俊徳も肯定した。まあ、根拠がないことは自覚していたのだろう。俊徳は笑いながら僕の方を見る。僕は、俊徳こそこの謎をすぐに解決するんじゃないかと思っているが、俊徳はその逆らしい。


「克治は実際に現場とか見てないんだろ?見てみたら、何か視点が変わるかもよ」


「視点?」


「まあ、視点っていうか…………どうやってやったのかとかな」


まあ、それは事実だ。僕は三人の話を聞くことでしか、他の教室の様相を知れていない。となれば、実際に見てみることが有用なことは間違いないな。三田川と霧遙先輩を待とう。そう俊徳に言おうとした時、俊徳が言った。


「じゃ、今から行くか」


僕は当然聞き返す。


「三田川と霧遙先輩を待たなくていいの?」


「思い立ったが吉日という言葉があるだろ?」


「物には時節という言葉もあるよ」


「博識だな。まるで田原坊だ」


田原坊に博識なイメージはないが、まあ無視しておこう。…………どうしようか。二人を待つべきかもしれないけれど…………僕は考える。まあ、いいか。ないとは思うが、実際に見てみて犯人か、盗んだ方法が分かる可能性はある。分からなければ、さらに難航するわけだけど。


「行こうぜ、まずは理科室だ!」


「…………手を引っ張らないでくれ。行くから」


俊徳は立ち上がって、僕の手を引いた。僕も立ち上がり、俊徳の手をはらい、俊徳についていく。思えば、こんな風に俊徳と二人で行動をするのも、久しぶりだと思った。僕らは図書室の扉を開けて、羽場高校の廊下に出た。

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