〈シノノメ〉
「もう、大丈夫なの?」
「え、う、うん。さっきよりは落ち着いたよ。」
「そう、なら良かったわ。」
嘘だ。本当は、まだ手が震えている。
温室のベンチに座って、僕はぼんやりと周りを眺めていた。変わったことなんてひとつもないのに、突然、テツグロは死んだ。僕の目の前で、死んでいた。僕は何も覚えていないけど、もしかしたらなんて考えたらパニックになってしまった。
だけど、クチナシのおかげで少しだけ冷静になれた。理由は分からないけど、クチナシの隣は懐かしい気持ちになる。
「それより、聞きたいことがあるのだけど。」
「答えられることなら、なんでも答えるよ。」
「それじゃあ、どうしてここを調べようと思ったの?もっと調べたいところはあると思うのだけど。」
僕は少しだけ考える。確かにどこを調べたいかと聞かれて温室と答えたのは僕だ。だけど特に確信があるわけじゃなかったんだ。ただ、僕は………。
「僕、今日の朝はここで起きたんだ。昨日の夜とか、起きる前とか自分が何してたか分からないから、知りたかった。それくらい、かな。」
「ふーん。まぁ、いいんじゃないかしら。」
そう言うと、クチナシは僕の頭をクシャクシャと撫でた。それはもう、髪が崩れるくらいに。
「思い詰めた顔ばっかしてもいいことはないわ。知りたいんでしょ、何をしてたのか。それなら時間は有効に使わないといけないわ。」
ひとしきり撫でて満足したのか、クチナシは温室の奥の方にためらいもなく歩いていく。「待ってよ」と声をかけても止まることはない。クチナシの背中を慌てて追いかけたとき、僕は彼の気配を感じていた。
──どこに行ってたの?
──『そのうちわかるさ。』
──そればっかりだね。
──『そうかもしれないな。』
僕にだけ聴こえる声。間違いなく彼は存在していていることは断言できるのに、僕は彼自身を知らない。聞いてもはぐらかされるだけだった。
「教えてくれてもいいのに。」
「ん?ごめん、よく聞こえなかったわ。」
「え!あ、いや、独り言だから。」
クチナシは少し首を傾げたあと、「それより」と呟いて地面を指さした。そこには人が横になれそうなくらいの跡と足跡があった。そっと足を重ねてみると、驚くくらいにピッタリ重なった。
「僕の、足跡だ。」
「そうみたいね。足跡は向こうに続いてるわ。」
「そうだね。」
僕は足跡にそって歩いた。そして、そこに誰かがいるのが見えた気がした。ガラスの向こうに佇むその背中が何をしているのか、僕は容易に理解することができた。
だけど、同時に僕は理解した。
これは僕の知らない僕の記憶。
彼が見た、彼の記憶。
「ねぇ、ねぇってば。」
クチナシに肩を叩かれて、意識が現実に引き戻される。
「本当に大丈夫なの?」
「う、うん。ちょっと、思い出したことがあって。たいしたことじゃ無いんだ、たぶん。」
「なんだ、それなら良かったじゃない。」
クチナシは笑う。きっと、僕を安心させようとしてるんだ。でも、僕は…………。
「ねぇ、クチナシ。」
「なに?何か見つけたの?」
「クチナシは、倉庫に来る前、何をしてたの?」
クチナシは黙った。それから、ほんの少しだけ冷たい目になった。
「庭に居たのよ。叫び声が2回聞こえて、それからぐるっと回らないと屋敷に入れないでしょ?だから時間がかかったの。」
「そ、その前、は?」
「その前?資料室の片付けをしていたわ。あそこ埃っぽいから、片付けの後は外の空気を吸いたくなるの。これで十分かしら?それとも、まだ納得できない?」
クチナシの声は、怒っているように聞こえた。ちょっと強気な口調が、僕の記憶の片隅に残るそれとよく似ていて、複雑な気持ちが浮かび上がる。
「…………納得、できないよ。」
「それは、私を疑ってるから?」
「違う、違うんだ。」
僕は、クチナシを疑ってるんじゃない。むしろ、逆なんだ。
「僕は、クチナシを信じたい。信じたいから、疑っちゃうんだ。」
クチナシは驚いたような、困ったような顔をした。
「似てるんだ、僕の姉さんに。僕よりも強くて、落ち着いてて、大丈夫だよってそばに居てくれる。だけど、姉さんは居なくなった。それが、クチナシに会った時に姉さんが帰ってきたんじゃないかって思ったんだ。わかってる、僕の勘違いだって。それでも僕は、僕は…………!」
クチナシは何も言わなかった。ただ黙って、僕の頭を撫でた。さっきよりも優しく、慎重に。それが姉さんにそっくりで、温かくて。
「疑うことも、信じることも悪いことじゃないわ。それに、大切な人を失う気持ちは私にもわかるから。私があなたのお姉さんの代わりになれるなら、それであなたの気持ちが楽になるなら、それで構わないわ。だけど、安易な気持ちで信じると裏切られたときの傷は大きくなるものよ。」
そこでクチナシは言葉を区切った。それから、冷たい声で言い聞かせるように僕にこう言った。
「だから、疑う心は捨てないで。本当に心から信じられると思えるまで調べなさい。そこまでして私を信じられると言うなら、あなたのお姉さんでもなんでもなってあげる。」
少し間を置いて、クチナシは何事もないかのようにまた笑った。それから口調を元に戻して、それよりもう少しわざとらしく明るくして話し始める。
「それにしても、ここはハズレね。あまりいい情報が無いわ。せいぜい黒くなった植物の残骸があるくらい。」
クチナシは少し歩いてしゃがむと、黒くなった何かを指さした。
「腐ってる。それも一部だけ。病気だったら他のものこうなるはず。」
僕がそう言うと、クチナシはソレに手を伸ばす。
「────触るな!」
僕の口から、そんな声が出た。僕じゃない。これは、彼がそう言ったんだ。
「あ、あー、えっと。よく分からないものだから、触らない方がいいんじゃないかなーって。」
慌てて誤魔化す。それから、『なにしてんの』と心の中で文句をつける。
────『悪いな。ただ、あれは毒の可能性が高いから触るとまずいと思ったんだ。可愛いお嬢さんに傷をつけるわけにはいかないだろ?』
────毒なら傷じゃ済まないと思うんだけど。
────『だから止めたんじゃあないか。』
「うん、今のは私の不注意だったわ。止めてくれてありがとう。ただ、その……。」
クチナシは何故か言葉を濁した。そして、ためらいながら、言葉を選ぶように言う。
「独り言には、気をつけた方がいいわ。」
思わず顔が熱くなるのを感じる。それと同時に頭の中に彼の笑い声が聞こえて、僕はしばらくは彼の声に耳を貸さないことを決意した。
第2話
【完】
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