〈ゾウゲ〉

AM10:00

歌が、聞こえた気がした。

懐かしい歌だった。

この歌を、僕は知っている。

どうして?

この歌は…………。


音に合わせて、記憶は遡っていく。

あの日の記憶が、鮮明になっていく。


「こっちだよ!ほら、早く!」

そう言って、彼女は僕の手を引っ張って走った。坂道を登り、階段を駆け上がる。そうしてたどり着いたのは、神社だった。

真っ赤な鳥居が僕たちを見下ろしている。

「見て。キレイでしょ。」

彼女の指の先を見ると、そこには青空が広がっていた。両手を広げて、仕立ての良いワンピースの裾を翻しながら走り回る彼女は、小鳥のように見えた。

『――――――♪』

時々、彼女は歌を口ずさんだ。彼女がなんと言っているのか僕には分からなかったけど、その歌を僕はまだ覚えている。

両親が居ない僕のことを、なぜか彼女はいつも気にかけてくれた。それどころか、堅苦しいのは嫌いだと言って、僕の手を引っ張っては神社に遊びに行った。二人で過ごす時間か、僕は大好きだった。

『―――――――♪―――♪』

そう、この歌だ。彼女はいつもこの歌を


「―――♪、…………、―――――♪」


違う、違う!

これは、あの日の記憶じゃない。

誰かが、歌っているんだ。

どこから、どこから聞こえるの?


僕は途切れ途切れの歌を辿って、屋敷の中を歩いて回った。どうか、忘れてしまう前にもう一度だけ、君に会いたい。


あの日、いつもの時間に君は来なかった。ひとりで登る坂道は、寂しくて怖かった。そんな嫌な予感が、本当になるなんて思ってもみなかった。

赤い鳥居の真下に、紅い血溜まりができていた。その中に、彼女がいるとわかった時、僕はどうしたらいいか分からなかった。そんな僕の代わりに、既にそこには知らない男の人が居て、そいつは手に短刀のようなものを持っていた。


あいつが、殺った?


僕がいることに気づいた男は、何も言わずに走り去って行った。男の腕についた傷から、ポタポタと紅い雫を零しながら。

しばらくは動けなくて、それでもようやく助けなきゃと思ってからのことはよく覚えていない。必死になって彼女を背負って階段を駆け下りて、彼女の家の前についてすぐに僕も倒れた。そう、誰かが教えてくれた。

その日以来彼女が姿を見せることはなくて、代わりに神社には高そうなチェロが置かれていた。どうしてチェロだったのか、考えても分からなかったけど、それが僕宛てのものであることは確かだった。

今日の食べ物にも困るくらいだった。それを売ったら、もう困らずに過ごせるかもしれない。そんなことはわかっていた。だけど、手放せなかった。これを持っていたら、僕のことを見つけてくれるかもしれないから。

チェロの弾き方を習ったことは無い。だけど、僕は使い方を知っていた。

どうして?

わからない。

だけど、僕は必死に練習した。弾いて、弾いて弾き続けて、そうして少しはお金を稼ぐこともできた。

いつかまた君に会えたら、僕は君に聞かせたい曲があった。だから、この歌が聞こえたとき、僕は。


聞こえてくる声を辿ると、そこはモエギの部屋だった。おそるおそる扉を開ける。隙間から部屋の中をのぞき込むと、さっきよりはっきりと声が聞こえてくる。

「――――――――♪」

一体誰が歌っているのだろう。そう思って、扉をもう少し開けて体をねじ込む。そうして見えたのは………。

「あさ、ぎ?」

青い仮面の男は僕の方を見て、動きを止めた。同時に、男の口から流れていた歌が、止まった。

「どうして、どうしてアサギが?」

アサギは動かない。

仮面越しに見えた青い瞳に吸い込まれるみたいに、僕は息ができなくなる。


どうして、どうしてお前が、

あの歌を知っているんだ?


声が、音にならないまま、僕はただパクパクと口を動かすことしかできなかった。すると、アサギは。


――――――――笑った。


それは、決して僕たちに向けられることの無い笑顔だということを僕は知っている。たとえモエギの前だったとしても、こんな笑顔をアサギが見せることは無い。


こんなにも、哀しくて、痛みに満ちた笑顔を見せたりなんかしない。


僕は、足音を立てないようにそっと正面からアサギに近づいた。そうして、手が届くくらいの距離になると、アサギは僕の髪を撫で始めた。

長い、白い髪。元々は黒だった。あるときから、髪も、肌も、瞳も色がなくなっていった。前よりも太陽の日差しが痛く感じるようになって、昼間は外に出られなくなった。夏でも、長袖を羽織らないといけなくなった。

きっと、アサギが見ている人はこんな白い髪じゃない。そんなことは、わかっている。

「………………あ、………モエギ。」

この屋敷の何人が気づいているだろう。数少ない大人として、父として、何事もないように振る舞っているこの男は、その背中に僕たち以上のものを背負い込んでいると。

夜中に悪夢にうなされて叫んでいたことも、暖炉の炎を異常に怖がっていることも、青い髪の中に上手く隠された古い傷跡も全部。

僕は、覚えていた。

覚えていないといけないと思ったから。

今、アサギは僕じゃない誰かの幻覚を見ている。僕がここにいることなんてわからないはず。それでいい。きっと僕もこのことを忘れてしまうから。それなら、アサギが覚えているのは僕じゃない人の方が都合がいい。

「モエギ、ごめん。」

ふいに僕の手を握ったアサギは、俯いてそう言った。その掌に、いくつもの細かい傷がついていた。

「彼女はもう、ここを出ていったんだ。」

何の話だか、僕にはさっぱり分からない。もしここにいるのが本当にモエギだったとしたら、彼女は何と答えるだろう。

僕には、わからない。

「だから、また2人になるけど。」

なんて、答えたらいいのだろう。

僕は、モエギじゃない、から。

「大丈夫だ。一緒にいよう。」


「………………アサ、ギ?」


なんで、目の前にアサギがいるんだろう。

それに、ここは僕の部屋じゃない。

僕は、どこにいるんだろう。


「………………?」


―――――ガタンッ


「……………何の音?」


棚の向こう側で、何かの音が聞こえた。

わからない。

何の音?


「…………僕は…………?」


行かなくちゃ。

どこに?

分からない、だけど。

このままだと、僕は。

僕は、全部忘れてしまうから。


気づくと僕は、部屋を飛び出していた。

アサギを振り返ることはしなかった。

だけど、


彼女の歌が聞こえた気がした。


ドンッ、と何かにぶつかって転んだ。

「ゾウゲ、大丈夫?ごめん、ちょっと考え事してたから。」

手を差し伸べられる。僕は、その手をつかまなかった。

「僕も、ぼーっとしてたから。」


クチナシが何かを言っている。


でも、僕にはわからない。


僕にはもう、時間が無い。


いつか、僕は全部忘れる。

それだけが、確かだから。

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