〈スミレ〉

AM8:00

「どうぞ、入ってください。あ、段差気をつけてくださいね。」

食堂を出てすぐ右の、突き当たりにあるドアを開ければ温室がある。手前の方では野菜を、奥の方では花を育ててる。温室の管理は私の役割だから、暇があればいつも様子を見にきていた。

「ありがとう、スミレ。悪いな、忙しいのにわざわざ案内までしてもらって。」

「悪いだなんて、そんなことないですよ。私、アサギさんに興味を持って貰えて嬉しいです。」

あるときから、アサギさんは温室に来るようになった。本当に植物が好きみたいで、顔を出す度に私の手伝いをしてくれる。

「にしても、ここは一年中花が咲いてるんだな。」

「設備がいいからですよ、きっと。」

「それでも、時期の違う花を一度に見られるのは貴重だと思わないか?」

もしかしたら、アサギさんはもう気づいているのかもしれない。私に、それを可能にできる力があることを。

「スミレも、頑張ってるんだな。」

そう言って、アサギさんは笑った。いや、そう見えただけかも。

「この花、うちにもあったな。名前はなんていうんだ?」

「………福寿草です。根と茎は毒があるので気をつけてくださいね。」

「そうだったのか。それじゃあ管理が大変だろ?今朝みたいにシノノメがうっかり入り込んだら危ないかもな。」

アサギさんは、少し離れた場所の土を指さした。そこにはちょうど一人が横になれそうなくらいの跡があった。そこから少し先に、足跡が続いている。アサギさんはその足跡の通りに歩くと、ピタリと止まった。

「ここで立ち止まったみたいだな。」

ハウスの向こう側を見つめる。ちょうど庭が見える場所だった。

「あれって…………。」

「アサギさん?どうかしましたか?」

尋ねると、少ししてからアサギさんは首を振った。

「なんでもないよ。それより、スミレが花に詳しいのはお母さんの影響だって前に言ってたよな?」

「えぇ、そうです。母が植物に詳しくて、よく育てていたんです。薬草とかそういうのにも詳しかったみたいで、使用人として働くようになってからも花を飾ったり、薬を作ったりしてたみたいです。」

「薬も作れたのか、すごいな。」

「私にはできないですよ………?」

そんな話をしながら、温室を見て回る。なんだか、すごく不思議な感じがした。

私は鬼だ。アサギさんもそれに気づいているはずなのに、当たり前のように私を私として接してくれる。もちろん、私はアサギさんが鬼か人間かなんて知らない。もしかしたら、アサギさんも鬼で同情されてるのかもしれないし、実は人間で本当は鬼のことなんて嫌いなのかもしれない。それでも良かった。

私に父は居ない。物心がついた頃には既に母と2人きりだった。裕福ではなかったけど幸せな日々だった。だけど、私と母が鬼だとわかったその時から、私たちは人間として生きることを許されなかった。家を奪われ、食べ物も無く、ただ彷徨い歩いた。たどり着いた先で運良く母は使用人として雇われ、私と2人で住み込みで働くことになった。だけどその生活も長くは続かない。再び居場所を追い出された私たちは、どこかの街で離れ離れになった。母は、私に青い宝石をひとつ握らせて1人でどこかに行ってしまった。行き先は知っている。きっと、王都の収容所。そこに母はいるはずだった。

お母さんに会いたい。一緒にいたい。ずっとそう思ってる。でも私にはあの場所に行く勇気もなければ、母を連れ出す力もなかった。そんなことを考える度に不安になる。私がここに居る意味はあるのか、母が私を置いて立ち去ったことになんの理由があるのか。

分からない。分かりたくもない。

私は、私の力を知ってしまったから。

私が私を理解したとき、私はきっと戻れなくなるから。

「………れ、スミレ?」

ハッと気づくと、アサギが私の足元にしゃがんで私を見上げていた。

「どうか、しましたか?」

「これ。ここだけ黒くなってるだろ?腐ってるように見えるけど、病気かなんかか?」

アサギさんは、その足元にある黒くなった植物の残骸を指さしていた。

「ああ、それですか?ちょっと前に、怪我しちゃったんです。」

「…………ケガ?」

不思議そうに首を傾げながら、アサギさんはそれに手を伸ばす。

「触らないで!」

ビクリとアサギさんは動きを止める。

「………すみません、大きい声出して。」

「いや、いいんだ。勝手に触ろうとしたのは俺の方だから。触ったら危険なんだろ?ありがとうな。」

そう言いながら立ち上がったアサギさんは、私の頭をぽんっと撫でた後ひらひらと手を振りながら温室を出ていった。

「あ、アサギさん!ちゃんと手を洗ってくださいね?」

私は慌てて追いかけて、だいぶ遠くなったアサギさんの背にもう一度大きな声で叫んだ。

それから物を片付けて、手についた土を洗い落としてから今度は庭に向かう。庭に直通の扉は無い。一度玄関から外に出て屋敷をぐるっと回らないといけなかった。

途中、玄関ホールに置いてある置物が目についた。屋敷を半分に切ったような模型。それから、屋敷の中に駒のようなものが置いてある。その駒の位置が勝手に変わっているのだ。

「気味が悪いわ。」

温室に紫と青、地下室に黒、コハクの部屋にオレンジと白と赤、それから治療室の前に黄色が置いてある。

「………緑がない。」

そう、緑が足りないのだ。普段は8個の駒が置いてある。駒の色は私たちの仮面の色と同じ。だから、余計に1つ足りないのが不自然だった。

「考えても仕方ない、か。」

私は玄関の重たい扉を開けた。ってあれ?鍵がかかってない。誰か開けたのかな?普段は私が鍵を開けるまでしまったままなのに。

違和感が喉につっかえたまま、外に出る。嫌な予感を感じさせないほどの青空が、そこに広がっていた。

そういえば、私がここに来た時もこんな晴れの日だった気がする。ひとりぼっちになって、道の真ん中で動けなくなった私にテツグロおじさんは手を差し伸べてくれた。おじさんからは、何も感じなかった。悪意も善意もなかった。

『お嬢さん、手を。』

たったその一言だけを私に言った。それ以上でも以下でもない。ただそれだけで、私はおじさんを信頼してしまった。

「…………ふぅ。」

ひとつ息を吐く。短くなった影を振り払うように、私は庭へと走った。


影が、私を笑っている。


そんな気がした。



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