稽古が始まる前に②

「じゃあ滑舌について最後の項目ね」

「はーい!」


 もう結構な時間が過ぎた。

 コーヒー二杯でよくもまあここまで粘ったものだ。

 次に来た時は売り上げに貢献しよう……。


「ノートの束とは別にプリントが入ったクリアファイルあるでしょ?」

「ああ、これね」


 風祭さんはクリアファイルを手にとって、その中のプリントの束を取り出した。


「げろううり?」

「外郎売(ういろううり)ね」

「あ、これういろうって言うんだ」

「……役者になりたいと思っているのなら、これくらいは知っといたほうがいいよ」

「あ、はい……すみません……」


 俺の指摘が少し厳しい声色になってしまったせいか、萎縮するように身体を縮めてしまう風祭さん。

 別に責めるつもりじゃなかったんだけれど、やらかしてしまった……。


「いやまあ、普通は知らないよな。すまん」

「いやいや、私も本当にリサーチ不足だったから……」

「……んん、あー、話を戻すけどさ」

「あ、うん」

「この外郎売をソラで言えるくらいに練習しといて。少なくとも一週間以内には」

「え!? これを一週間で!?」


 風祭さんはプリントと俺の顔を交互に見ながら驚愕の表情を見せる。

 そこそこの文章量があるものを一週間で覚えなくてはならないのは、普通は無茶だと思えることだろう。

 でも、現場によってはもっと多い文章量をもっと短い時間で覚えなくてはならない場合もある。

 今のうちから文章を覚える練習をしておいて損はない。


「これはウォーミングアップにも使えるし、滑舌の練習にも演技の練習にも使えるしで結構万能だからねこれ」

「そ、そうなんだ。でもこれ、めっちゃ難しそう……。中盤以降なんて早口言葉のオンパレードなんだけど」

「そう。だからいい練習になるんだよ。俺も今でも定期的にやってるし、芝居をする前はウォーミングアップでやってるからね」


 慣れたら数分で言えるようになるから、喋る仕事の前には楽屋だったり家を出る前だったりと、空いた時間に言うようにしている。

 他にもウォーミングアップ方法は色々あるけれど、それも後々教えることにしよう。


「とりあえず、これから一ヶ月はそれを使って練習しよう」

「え? これウォーミングアップ用じゃないの?」

「ウォーミングアップとして使うのは慣れてからね。まずはそれを使って基礎的な発声と滑舌、あとは鼻濁音の練習や喜怒哀楽の表現にシチュエーション、色んな練習に使えるから、まずはそういう基本的なところを練習していこうか」

「なるほど……。うん、わかった。頑張ってみる」

「うん。とにかく最初はゆっくり一音一音きちんと言えるようにね」

「はーい!」


 風祭さんは元気に返事をして、また外郎売のプリントに目を移した。

 やる気あるようだけど、慣れてない人がこれを滑らかに言えるようになるのは最低でも一ヶ月は掛かるだろうし、それまで飽きてダレたりしてしまうかもしれない。


 そうならないようにこっちでもコントロールしていかないとな。


「あ、そうだ。あのさ、風祭さんは音楽とかって聴く?」

「音楽? まあ人並みに……かな。友達とカラオケ行ったりもするから、最近の流行りの曲とか、昔見てたドラマとかアニメの曲を聴いたりはするよ。あ、もちろん雪月花もね」

「あはは、それはありがとう。じゃあ、洋楽とかは聴いたりしないんだ」

「うーん、そうだね。あんまり聴かないかなぁ」

「オッケー。じゃあこれからは洋楽のR&Bみたいにリズムのある曲も聴くようにしよう。邦楽のダンスミュージックとか」

「えっと、それはいいんだけどその理由は?」

「リズム感を鍛えるため」

「リズム感?」


 風祭さんは今日何度目かのポカンとした表情を見せる。

 言った通り、芝居にもリズム感は必要だ。

 もちろん歌やダンスをするほどの高度なリズム感までは求めないけれど、セリフの言い方や相手との掛け合いで必要になってくる。

 特に掛け合いなんて変なリズムでされたら聞いてる方にも違和感が出てくるし、掛け合いの相手もやりづらい。


「芝居にもリズム感って凄く重要なんだよ。例えばさ、売れっ子の漫才師さんの漫才を見てたらテンポいいな、聞き心地いいなって思うでしょ? それを芝居の掛け合いに置き換えて考えてみて」

「あ、なんとなく白鳥くんの言いたいことわかったかも。漫才も掛け合いも言葉の応酬だもんね」

「うん、そういうこと。リズム感がよければ自分も相手も観客も心地いいリズムでの掛け合いができたり、間を操って芝居に深みを出させたりとかできるんだ」

「なるほどなるほど。リズム感が大事なのはわかったけど白鳥くんは何で洋楽をチョイスしたの? 邦楽のダンスミュージックだけでもよくない?」

「それはね、洋楽って邦楽よりもリズムが細かいんだよ。もちろんどっちも素晴らしいものだし、邦楽でもめっちゃリズムが細かい曲もあるけど、手っ取り早く裏拍やグルーヴを感じるのは洋楽を聴くのが一番だと思ってる」


 もちろんこれは俺の持論なんだけれど、完全に間違いってことはないだろう。


「とりあえず、あとで俺のオススメのアーティストや曲を何個かリストアップしてメッセージアプリで送っておくから、そこから自分がいいなって思うものを聴いてみて。そしてその曲を歌えるようになれたらさらによしだね」

「りょーかいです先生!」


 俺に向かって敬礼してくる風祭さん。

 本当はメトロノームを用意して、そこで狂うことなく手拍子やワン、ツー、スリー、フォーって声に出せるようになったり、声で表、手拍子で裏のリズムを同時に取れるようにする練習をしたほうがいいけれど、最初からそれは難しいし凄く地味でキツいだろうから、まずはストレスフリーでリズム感を磨いてもらうのがいいだろう。

 こういうのは養成所とかスクールとかできちんと教えてもらうのが一番だろうけど、それには少なくないお金が掛かってくるからな。

 一人暮らしのバイトしている高校生にはハードルが高いだろうし。


「あ、あと音楽繋がりだけど、普段聴く曲とか好きな曲でもボーカルだけじゃなくてバックの楽器の音も集中して聴くようにね」

「ボーカルだけじゃなくて?」

「これは耳を鍛えるためね。音感ってめっちゃくちゃ大事だから」

「一応カラオケでの採点とかそこそこ良い方だけど……」

「もちろんそれは凄いことだし、歌手を目指してるわけじゃないから、全部の音を把握できる……みたいな完成度は求めてはいない。それでも何となくでいいから、ギターはこういうメロディなんだなとか、ベースやドラムはここでこういうリズム刻んでるんだなとか、ここはこういうハモリなんだなとか耳で感じられるようにしておいたほうがいいよね。耳がいいってそれだけでとてつもない武器だから」

「耳がいいってことが武器になるの?」

「それはもう。セリフも音だっていうのはわかるよね?」

「うん、それはなんとなく」 

「自分の感覚で正解の芝居ができる天才ならその感覚を信じればいいけれど、そうじゃないならまずは理論で芝居を作っていくのがいいんだ」

「理論で芝居……。でも芝居って感情でやるのがいいんじゃないの?」

「もちろん感情で芝居をするのは大切なことだよ。でも、それはもっと高いレベルの話なんだ。自分がこういう感情を作って、そういう芝居をしても、そのセリフの音が違っていたら全然伝わらないし、わかっていなかったら同じ芝居はできない」

「あ……」


 全部が一発オーケーなんて、相当のベテラン同士の芝居じゃないとできない芸当だ。

 例え自分がいい芝居じゃなくても、相手がミスをしてしまったらリテイクが発生する。

 その時に自分が出した音がわかっていなかったら、次は自分のせいでリテイクになることもあるし、相手もやりづらい。

 だから耳を鍛えるってことは大事なことなんだ。


「こういうセリフなら出だしはこういう音でこういう音の運び方。こういう音ならこんな感情に聞こえる。相手がこういう音でセリフを言い終えたなら、じゃあ自分はこういう音で返す。でもそれは耳がある程度よくなければできることじゃない」

「確かに言われてみたら凄く納得……」

「でしょ? もちろん家で台本をチェックする時もどういうシーンなのか、どういう感情なのか、どういう動きをしているのかをまずは何パターンか考えて、そこからこういう言い方にしよう。こういう音ならこう聞こえるかな? この音は違うからこういう音の出だしでやってみようみたいな考え方をすることが大事だね」


 子役時代は自分の感情のまま素直にやっても、周りの方がフォローしてくれたからなんとかなった部分はあるけれど、成長して素直に感情を出すことが難しくなったり、自分が逆にフォローする側になって、感性だけじゃなく理論的に考えなくちゃいけないことが増えた。

 最初は難しくてよく監督に怒られたり、共演者の方々に御迷惑をかけたりと自信とかボッコボコになって凹みまくったっけ。

 その結果、もっと成長することができたからいい経験になったんだけども。


「わかった。今日から意識してみる」

「うん、最初は凄く難しいけど頑張ってみて」


 とりあえず今日はここまでかな。

 初っ端から結構詰め込みすぎた感はあるけれども、これから先のことを考えたら今からやれることはやっておいたほうがいいからな。

 いそいそとメモをする風祭さんを見ながらそんなことを考えつつ、残ったアイスコーヒーを飲み干した。


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