第2話 月を斬るもの(太極拳)

 「善く勝つ者は争わず、善く陣する者は戦わず、善く戦う者は敗れず、善く敗るる者は乱れず。夫れ、棋は、始めは正を以て合し、終わりは奇を以て勝つ。凡そ敵、事無くして自ら補う者は侵絶の意有り。小を棄てて救わざる者は大を謀るの心有り。手に随って下す者は無謀の人なり。思わずして応ずる者は敗けを取るの道なり。  詩経に云う『惴惴たる小心、谷に臨むが如し』とは此の謂なり」

  「西遊記(一)」小野忍訳 岩波文庫

○ YouTube「Thi Minh Huyen Tran 28th SEA Games Singapore 2015」   ベトナム人Thi Minh Huyen Tran さんの、2015年第28回SEA Games in Singapore   

   WUSHU(武術の中国語読みウーシュウ)に於ける太極拳の演武。46分頃    https://www.youtube.com/watch?v=Oz4pfvb0Uzk


心身統一といい、心がなければ統一もへったクソもない。

心技体(心と技と身体の一致)といい、技と身体だけではちぐはぐだ。

Thi Minh Huyen Tran さんの演武には、心の存在感がある。

だからこそ、何度でも見ることができる。

彼女の身体の動きやタイミングとか間合いといった技術に関して、門外漢の私には全く以て、ただ見ているだけなのですが、彼女の心には同期できる。心の波長が合うからこそ、見る度に心の波長の厚みが増してくる。

そんな彼女の強烈な心の存在感こそが、「月を斬る」ということなのです。

同じ太極拳でも、他の人の演武は、確かにスピードやタイミング等、素晴らしいのですが心がこもっていない。

といっては言い過ぎで、心よりも見た目の美しさや技ばかりを追求しすぎているというか、それらを強調することばかりが目につく。曲芸や軽業を見ているのではなく、極まった心を見るからこそ、太極拳なのではないか。

ところが、演技ばかりに集中している演舞者とは、その源となっているはずの心が見えないというか希薄になってしまっている。

演武者の友人や家族であれば同期できても、赤の他人にまで自分(演武者)の心を伝える・同期させるというのは、一つ次元が異なる。

心を見せるための演武として太極拳。これを鑑賞しようとするならば、彼女たちの心が見える演武をしてもらわねば、評価しようもない(真に楽しめない)のです。

大学日本拳法においては、真剣に・本気で・現実に、蹴って・殴って・投げ飛ばす。そのパワーや技術が、見る側からすれば大きな要素であり楽しみではありますが、私のようなジジイになると、心を見て楽しみたい。若い時に比べて身体が自由に動かないのだから。

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歌舞伎では、役者の衣装や演技よりも、その演技の本(もと)となっている役(人間)の心(喜怒哀楽)に感情移入するからこそ芝居を楽しめる。きれいな着物や身体の動かし方や声だけなら、極端な話、私のような部外者でも練習次第でできる。いずれロボットでもできるようになるもしれない。

しかし、そこに情念やら怨念やら、恋心なり嫉妬なりの心をにじみ出すことのできる俳優・役者こそが、良いというか「真の優れた演技者(演技で心を表現できる者)」といえるのではないか。

演目のひとつ「三人吉座廓の初買い」で、女に化けたお嬢吉座が、夜鷹から金を盗ったのがお坊吉座にバレた瞬間の「ええ! そんなら今の様子をば」と、口にするその瞬間の「ええ!」に、どれだけ感情(心)がこもっているのか。(私の場合)そこが見どころなのです。

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Thi Minh Huyen Tran さんの演武には、その意味で一つ一つの動作に心がこもっている・心がにじみ出ている。あくまでも、わたし個人の感じ方であり、他の人がそうでもない、といえばそれまでの話です。

まあ、その故に、審査員が10名近くもいてそれぞれがそれぞれの主観で採点をし、その集計が客観的な評価となるのでしょう。

で、ここでも、勝負の勝ち負けとは別に、わたしとしては多くの演武者の中でという比較の問題ではなく、誰がなんといおうとも、どれだけたくさんの演武社外用とも、とにかく、Thi Minh Huyen Tran さんは「月を斬るもの」である、と感じる(ことで楽しめた)のです。


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