第11話 ふたりだけの秘密
パフェはすぐになくなった。
たくさん盛り付けたつもりだったけど、それでもリディスさまには物足りなかったようで。
焼き菓子の余った生地をじいっと見ていたから、ううんと考えて、薄く伸ばして粉を振り、型に入れて重しを載せて焼く。待つ間にクリームに砂糖を加えて、今度はなめらかに泡立てて氷の残りでしっかり冷やして、果物を刻む。
焼き上がったものを型からぽんと外す。リディスさまは目を見開き、わたしの動きをずっと追っている。小さな子供みたい、とおかしくなって笑ってしまった。
深皿のようになった生地に果物を乗せ、クリームを盛り付ける。溶けかかった氷に皿を乗せてざっくり冷やす。
即興だけど、焼かないタルト。普段はお芋ペーストだったりチーズクリームで焼き込んで作っているけど、たぶんこういうのも美味しいはず。
リディスさまは皿をじっと目で追い、自分の前に置かれてから、横に立っているわたしを見上げた。その表情と仕草がこんどは大きな赤毛の犬に思えて、吹き出してしまった。
「どうぞ。召し上がれ」
「……いいのか」
許しを乞うようにわたしの目を不安そうに見る。
なんだか胸の奥がきゅっと痛くなって、なにも言わずに笑って頷いた。
リディスさまはカトラリーを手に取り、慎重にゆっくりと切り分け、口に運んだ。最初は少しずつ、それから猛然と。さっきもたくさん食べたはずなのに、あっというまにお皿はからになってしまった。
炉に小さく火が入っていたから、お湯を沸かす。お茶の葉はすぐ見つかった。甘いものをたくさん食べたから少し濃く淹れてみる。
ふたつのカップに注ぎ入れ、ひとつをリディスさまの前に、ひとつをわたしの前に置く。ありがとう、と受け取って、彼は一息に飲み干してしまった。
「……ずっと、うまくいっていたんだ」
おかわりを注ぐわたしに、リディスさまはぽつりぽつりと、また小さく言葉を送ってきた。
「親父の言うとおりに鍛えて、勉強して、幼年学校も士官学校も首席で卒業した。立派な軍人になるために必要ではないものは、すべて切り捨てた。息をつくことは、休むことは、安らぐものを求めることは罪悪だと、親父は言ったし、俺もそう信じた」
「……そんな」
「辛いと思う時もあったが、甘えだと考えた。そういうときはもっと辛いことをした。自分の身体を打った。飯を抜いた。水を絶った。そうしているうちに、だんだん麻痺して、なにも感じなくなる。そうすれば前に進めた。ずっと、俺はそうやって進んできた。それで、うまくいっていた」
「……それ、は」
間違ってる、と言いたかったけれど、言えない。リディスさまはカップを揺らしながら静かに言葉を繋いだ。
「やがて周辺国との間に戦争が起こり、俺は武功を立て、親父の後を継いで将軍に任ぜられた。勝負に勝つ、目の前の敵を倒す、それだけを考えていればいいときは簡単だった。悩んだのなら、自分を痛めつければよかった。そうすれば答えが見えた。攻めろ、倒せ、絶対に退くな。いつでも答えは、それだった」
俯きながら語る彼の声を、わたしは黙って聞いている。
「……君の母国を含めて、歯向かうものは容赦しなかった。剣を向けてくるものは剣で排除した。するとその先にまた、剣を持って立ち塞がるものが現れる。それを排除する。その、繰り返しだった。たくさんの国を討ち、
そう言ってわたしを見て、小さく、だけど長く頭を下げた。理解できるとはいえないけど、いくさとはそうしたものだと、わかってる。わたしが恨み、あるいはリディスさまが謝罪するようなことじゃない。首を振って、話を促すように頷いてみせた。
「それでも俺は、退かなかった。倒すべきものがあるうちはそこに向かった。そうするほかなかったし、それしかやり方を知らなかったんだ。だが、いくさが終わった。敵がいなくなり、歯向かうものが目の前から消えた。そうしたら、俺は……」
言葉を区切り、迷ったように声を出す。
「どうすればいいかが、わからなくなったんだ。王の代理人として相手の国に入り、統治をする。経済を立て直し、民衆の思いを受け取って施策をし、国を整備していく。わかっている。理解している。政治も経済も、たくさん勉強をしたんだ。だが……うまく、いかなかった。なぜうまくいかないのかわからなくて周りを見回した。そうしたら、どうだ……」
顔を、声を歪める。
「……みな、のっぺらぼうだった。誰にも顔がないと思った。表情が、気持ちがわからない。なにを思って、どう感じているのかが読み取れない。いくさのときには手に取るように敵の考えがわかったのに、民衆が……いや、目の前のひとりすら、どうしたいのか、何を望んでいるのか、見えないんだ。愕然とした。鍛錬が足りぬと思って、また飯を抜いて、剣を振るった。拳で自分の頬を殴った。それでも、見えない。いや、もっと見えなくなっていった」
「……あの、夜。倒れられていたのは……」
リディスさまは眉をあげ、後頭部をがりりと掻いてみせた。
「……恥ずかしい話だが、二日、食ってなかった。ちょうど隣国で問題が大きくなった時でな。追い込まれていた。夜も眠れず、外の空気を吸おうと思って練兵場に出たんだ。月を見上げていたはずだが、気がついたら君が倒れている俺の顔を覗き込んでいた」
「……無茶苦茶、です」
我慢できずに声を出したが、リディスさまは怒りはしなかった。少し口の端を持ち上げて、うんと頷いた。
「そうだな。だがあの時、俺にはそのやり方しかなかった。君が、あの菓子を食わせてくれるまではな」
「……アップルパイ、ですね」
「ああ。俺はずっと、甘いものの匂いが苦手だった。苦手と、思っていた。嗅ぐと胸が苦しくなったんだ。あの時も君の手の籠からその匂いがして、俺はいつものように苦しくなって……だが、どうしたわけか、そのとき浮かんだんだ」
「……なにが、ですか」
「兄の顔だ。幼い兄の、笑う顔。それと……ずっと昔に、兄と、両親と、みんなで菓子を食べている様子が。俺はおかしくなったんだと思った。なんだか怖くなって顔を背けた俺に、それでも君はぐいぐいと勧めてくれた」
「ぐ、ぐいぐいってほど、では」
「ふふ。それでひとつ、手に取って恐る恐る齧ってみたら……あの時の、あの頃の、子供の時分の気持ちが、こう、波のようにぜんぶ、どっと戻ってきて……」
リディスさまは宙を見上げて、はあ、と息を吐いた。
あの時、彼は泣きながらパイを齧っていた。蒼い月の光を受けながら彼の頬を転がった涙の粒、口の周りにたくさんついたパイのかけら。
「気がついたら、ぜんぶ平らげていた。俺は逃げるように部屋に戻って、だけどその晩は久しぶりによく眠れたんだ。昔の夢をたくさん見た。そうして次の日、目が覚めて、使用人たちの顔を見て驚いた。のっぺらぼうじゃなかった。笑っている侍女がいたし、不機嫌な下男もいたし、眠そうな馬番もいた。武官たちも、街を歩く人も……いや、違う。草も木も、空の鳥も。見るものすべてが生きていた。生きていることを、思い出したんだ」
わたしの方に向き直る。目が合う。髪と同じ燃えるような紅の瞳がわたしの胸の奥にまで光を届けたような気がして、小さな灯を点したような気がして、少し目を逸らしてしまった。
「そうしたら、声が聞こえるようになった。気持ちが見えるようになった。周りの人の、この国や他の国の民の。それで俺は、動けるようになった。うまくいくようになったんだ……すべて君の、そしてあの夜の菓子、アップルパイのおかげだ」
そう言って、リディスさまはがたんと椅子を鳴らして立ち上がった。わたしの方に一歩、足を出す。見上げるような大きな体躯。どうするのかと思っていたら、膝を折った。わたしの前に片膝を立て、手を伸ばしてきた。
え、と戸惑うわたしの手をとり、まっすぐに真剣な視線を向けてきた。
「エル。いや、エーレアンヌ・リットヴァルデン・リジオ」
「……は、はい……」
「……よく、聞いてくれ。俺は、もう……君がいなくては、駄目になってしまった」
「……え」
「君が、必要なんだ」
なに。
うそ。
えっ。
息を呑むわたしに、リディスさまは瞳を潤ませ、いちど頷き、囁いた。
「……菓子、これからも作ってくれ。誰にも内密で。金は払う」
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