第9話 あの頃のように


 ふわりとした上質の手拭き布を差し出される。

 お礼を言って受け取り、伏せていた顔をぽふぽふと叩いて、頭を上げた。

 鏡に映ったわたしは、目をまんまるに見開いていた。

 大きな音に驚いた小動物によく似ていた。


 さきほどリディスさまと入った部屋は、厨房だった。

 どん、と置いてあった四角い塊。氷だという。

 氷菓子、パフェを作ってほしいという言葉がとっさに胸に落ちず、ぼうっと立っていると、リディスさまは手を上げて打ち合わせた。

 ほどなく左手の扉が開いて、年嵩の、なかば白髪の侍女が現れた。つつとわたしに近寄ってきて、背中に手を添える。どうぞこちらへ、と小さく囁く。訳が分からずリディスさまに振り返ると、なにやらいかめしく眉を寄せて、頷いていた。


 案内されたのは厨房のふたつとなり、洗面室。

 リディスさまが言ったとおり、立派な浴槽に湯が張ってある。母国の実家の風呂より、もちろんいま住んでいる炭焼き小屋のものより大きい。

 お湯、浸かられますか、と小さな声で侍女に尋ねられ、首を振った。遠慮でもあるし、なんでわたしがここでお風呂を、となっている。

 するとその浴槽から湯を汲んで、侍女は洗面台を満たしてくれた。髪をまとめるものといくつかの粗香油を置いて、どうぞと指し示す。

 手のひらと腕を流したところでお湯が替えられた。顔を近づけ、ぱしゃぱしゃとかける。かけながら、なんだろこれ、なんだろこれ、と、頭のなかで縦横無尽に駆け回る疑問符たちを持て余していた。

 思わず顔をこする手に力が入ってしまい、ぱん、と、勇ましく頬を叩いてしまった。侍女が横で小さく笑ったのがわかった。

 

 「お化粧、いかがされますか」


 顔を上げ、鏡の前で口を山形に開いて小動物の顔になっているわたしの背に、侍女が柔らかく声をかけた。


 「あ、いえ、普段からしていませんし、お菓子を作れとの仰せなので……」

 「かしこまりました。それではお肌の整えだけ」


 横合いから手を伸ばして、布地に染み込ませた薄い香油をぽんぽんと顔と首筋にはたいてくれた。強い匂いはしない。肌がすうとして気持ちが良い。

 細やかな段取りはこの家の住人や使用人の繊細さを示すように思われたが、当主であるリディスさまのお顔、燃えるように逆立つ真紅の髪と鋭い瞳がどうしてもそこに重ならない。

 

 「では、お召替えを」


 横の網籠に入っていた服を取り上げ、侍女はわたしの背に回った。裾に手をかけようとするのでそこは拒んで、大丈夫ですからと呟きながらくるくると薄灰色の作業着を脱ぎ捨て、服を受け取って頭を通した。

 柔らかい。とても上質な生地。素朴な室内着だが、動きやすそうだ。


 「大奥さま……先代さまの奥さまのものですが、いかがでしょうか」

 「とても着やすいです、お借りします、ありがとうございます」


 と、わたしの姿をまじまじ眺めていた侍女が、ふふと小さく吹き出した。


 「びっくり、されましたか」

 「……びっくり、しました」

 

 わたしが返すと、侍女は楽しげに肩を揺らしてみせた。


 「わたしどもも、驚きました。一昨夜、リディスさまのお使いの早馬が見えられて。国難にかかる危急の件にて、明後日、内密にて討議を行う。秘密漏洩を防ぐために本屋敷は使用できぬゆえ、この屋敷を使う。ついては急ぎ支度せよ、って……」

 「……国難、ですか……」

 「ふふ、そのお支度のご指示の書き付け、拝見しましてね。みんなで顔を見合わせて吹き出しましたよ。だって……お風呂と粗香油、女性のお着替え、あとはたくさんの食材と料理道具。ふふふ、どんな国難だろうって」

 「……は、あ」


 侍女はふたたびわたしの顔をじっと見てから、目を細め、上品に礼をとってみせた。なんだか少し、瞳が潤んでいたような気もする。


 「……ぼっちゃまのこと、どうか。よろしくお願いいたします」

 「え」


 ぼっちゃま。誰。

 なにをどんなふうによろしくするの。


 「少し……いえ、とても不器用なおひとですが、本当に心根の優しい、真面目で、いつでもご自身のお心にまっすぐな方ですから」

 「いえ、え、ええ?」

 「あなたさまにはご迷惑なおはなしですよね。今日だって、恐らくいきなり、かどわかすようにされたのではないでしょうか。お相手の女性に準備のいとまも与えないなんて、無作法にもほどがあります。でも……わたしども、本当に嬉しかったんです」

 

 呆然としているわたしを置いて、侍女は扉のほうへ歩いて行った。


 「あのような表情のぼっちゃま……お館さまを見るのは、ほんとうに久しぶりでしたから。あの頃のように、無邪気な男の子に戻ったみたいに。あんなことが起こる前に、戻られたみたいで」

 「……あんな、こと……?」


 取っ手に手をかけて、引き開けながら静かに頭を下げ、どうぞ、と廊下を示す。いろいろと言葉の意味を確認したかったけれど、できなかった。重ねて問いかけるのも憚られたし、なにより開いた扉の向こうにリディスさまが腕を組んで立っていたためである。


 「遅いぞ、テハナ」


 不機嫌そうにこちらを見下ろすリディスさまを、侍女……テハナさんは厳しい目つきで睨み返した。


 「お館さま。女性の支度部屋の前に立つものではありません」

 「……入ってはいない」

 「当たり前です。開けられていたらわたくしが叩き出しておりました。さ、こちらのお嬢さんのお支度、済みました。あとはお館さま、しっかりとお導きなさいませ」


 そういい、テハナさんはわたしの方に振り向き、微笑みながら頷いてみせた。ゆけ、というのだなと理解して、廊下に踏み出す。ゆるい室内着であることが恥ずかしく、先ほどのテハナさんの言葉も思い出して、どうにも顔を上げずらい。

 リディスさまはなにも言わずに踵を返した。ついてゆく。わたしの背で、テハナさんが頭を下げて扉を閉めたことを感じた。


 厨房に戻ると、リディスさまは黒い四角、氷の前で足を踏み開き、立ち止まった。向こうを向いたまま、いちど咳払いをして、低く声を出した。


 「……なにやら、誤解をさせたようだ。すまない」


 わたしは慌てて、彼の背中に頭を下げた。髪が跳ね上がる勢いで。


 「あ……いえ、わたしの方こそ……申し訳ございませんでした」

 「……先ほど君は、詫びる、ということを言っていた。俺の不興を買ったとも。それが誤解の原因だろう。なぜ、詫びる。俺が君の、なにを不快にとったと考えた」

 「それは……あの……いつかの夜、お訪ねいただいたときに……せっかくのお授けものを、わたしが受け取らなかった、から……と」


 リディスさまはうつむき加減だった頭をくっと持ち上げ、こちらに振り返った。


 「……な、に」


 ひ、と思わず声が出た。怖い。

 目を見開き、眉を逆立て、斜めにわたしを見下ろしている。

 思わず顔を伏せる。

 続いて、どんという音。

 リディスさまは、氷が載っている台に、両方のこぶしを突き立てていた。心なしかふるふると震えているような気がする。


 「……それでは……君は、怒っていなかった……の、か?」

 「……え?」


 絞り出すような声に、わたしは顔を上げた。


 「……君は……あの時、泣いていた。いや、違ったのであれば、すまない。ただ、俺には……泣いているように見えた。だから俺は、自分の無作法に、しくじったことに、君が泣くほどに怒ったのだ、と……」

 「い、いいえ、いいいえ! たしかに……たしかにあの時、悲しい気持ち、ありました。ですが……なんというか、それはわたしの、勝手な事情というか、思い込みというか……」

 「……怒ってはいなかった、のか」

 「は、はい……むしろ、本当に……申し訳ございませんでした。あのようなお品、ご用意されるのも大変だったでしょうに、わたしは……」

 「……そうか」


 リディスさまはふらりと揺れて、手近にあった丸椅子にどんと腰を下ろした。台に肘を置いて、眉間の辺りに指を置き、肩を振るわせた。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。


 「……俺は、なにもわからん。わかるのは戦のことだけだ。政務まつりごとすら、ろくにできぬ。戦が落ち着いたあとは、なにごとも上手くいかなかった。失敗続きだった。焦れば焦るほど、もがけばもがくほど、駄目になった。情けないことに、とうとう、飯も食えぬようになった」

 「……」

 「あの日、屋敷の裏で、月を見ながら考え事をしていたのだ。そして気がつけば、倒れていた。そのまま不貞腐れて寝転んでいた。そうして……君が、現れた」


 月明かりを受けて蒼く白く輝く、リディスさまの頬、そこに伝う雫。

 ぶわりと情景が立ち上がった。

 わたしはその情景のなかで、練兵場の下草の上で、リディスさまの言葉を聞いている。


 

 

 

 

 

 

 

 

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