第8話 俺のために


 世界が揺れる。

 ぴょんぴょんと、跳ねる。


 目の前には、広い背中。

 リディスさまに身体を預けるように、わたしはしがみついている。

 腰を抱えるように腕を廻して、頬にリディスさまの熱を感じている。


 わたしをぽんと馬の背に置いて、掴まっていろ、と短く言ったきり、リディスさまは黙って馬を走らせている。

 頭のなかにたくさん浮いている疑問符をぶつけたかったが、声をかけられない。蹄が敷き詰められた砂利を蹴る音、風切り音、そうして、わたしの心臓の音。

 なにもかもが賑やかすぎた。


 ルキソエール邸の敷地は広いが、それでも畑から母屋をまわって正面、石畳の門前広場に出るまではすぐだった。何人もの家人がぽかんと口を開けてこちらをみている。リディスさまに従って隣国から戻ってきたと思われる兵士たちの顔もあった。

 敷地を出る。

 左右の家が飛ぶように後ろに流れてゆく。

 構えの大きな貴族の屋敷や裕福な商家がしばらく続いて、それから緑が多くなり、右手には小さな川が現れた。初めてルキソエール家に連れてこられたときにも見た気がする。


 やがて馬は、庭の広い、赤い煉瓦積みの屋敷の前に差し掛かり、足を緩めた。リディスさまは手綱を操り、門の中に馬の頭を向けた。

 ぽくりぽくりと庭先に入ってゆく。

 蔦の絡まるやや古風なつくりの二階建ての屋敷。瀟洒で落ち着いた印象のその建物から、わたしたちの姿を見つけたのだろう、何人かの使用人姿の男女が走り出てきた。

 執事風の装いの年配の男性が馬の口輪をとり、リディスさまに頷いてみせた。リディスさまも同じように頷く。ちらりと背のわたしの方に視線を向けると、馬周りの使用人らしき人が、台を馬の横、わたしの足元につけた。


 「どうぞ」


 執事風の男性が丁寧に礼を取り、わたしに手を差し出した。貴族の女性に対する礼だ。そんなの久しぶりに受けた。

 迷っていると、リディスさまが咳払いをした。


 「降りてもらわねば、俺が降りられぬ」

 「あ、はい」


 慌てて足を揃え、執事さんの手をとり、ぽんと降り立つ。

 ほ、と執事さんが楽しげな声を漏らしたような気がした。

 続けてリディスさまが片足を大きく回転させて馬から降りる。黒のマントがぶわりと踊り、とん、とぶれることのない所作で地に足をつく。

 絵になる人だなあ、と、状況に相応しくない感想を浮かべてぼおっと眺めていると、リディスさまの手が伸びてきた。

 がっし、と、右の手首を掴まれる。


 「ひ」

 「こっちだ」


 小さな悲鳴を封じるように、リディスさまは大股で歩き出した。引きずられるようにわたしも歩き出す。迎えに出た人たちが慇懃に頭を下げてわたしたちを見送るのが目に入った。

 リディスさまは開け放たれた玄関から、どすどすと中に入って行った。案内を請うでもなく、迷いもせず、長い廊下を進んでゆく。


 「……母の生家だ」


 ふいに、こちらを振り返らずにリディスさまが声を出した。


 「いまは誰も住んでいない。遠方からの客人の宿泊用に使っている。執事も使用人も常駐させているから、掃除も手入れも行き届いているはずだ」

 「……あ、は、はい……」

 「屋敷の方へは俺から使いを出しておく。事前に触れもせずに、すまなかったな」

 「い、いえ」

 「時間がなかったのだ。それに……」


 リディスさまは、ふいに歩く速度を落として、わずかにわたしの方に目を向けた。紅い瞳が、ほんのり暗い廊下にも妖しく輝いて見えた。


 「……もう、我慢が……ならなかった」

 「……え」

 「隣国からわずかな連れだけ伴って、昨夜から走りとおしたのだ。ずっと……考えていた。想像していた。毎晩だ……いや、案ずるな。使用人たちはみな、信用できる。口は固い。その……なんだ。こと、が済むまで、決して部屋には近づくなと厳命してある」


 こと?

 

 「古いものだが、着替えも用意させた。外で仕事をしていたのだろう。まずは土と汗を落としてもらう」


 着替え?

 え?


 「あ、あの、ちょっと……」

 「侍女をひとりだけ待機させた。支度が済んだら離れるようにいってある」

 「や、あの」

 「望むなら湯を浴びても良い。用意はさせてある。必要なものがあったらなんでも侍女に言いつけてほしい」

 「ちょっと……」

 「俺は別室で待っている。場所は侍女が案内する」

 「ちょっと、待って、くださいってば!」


 わたしはたまらず大きな声を出し、足を止めた。リディスさまも立ち止まり、怪訝な表情で振り返る。わたしは両手両足をぱんと突っ張り、彼の紅い瞳を正面から見据えた。


 「……ご不興を買っていたのは存じ上げています。重ねてなんども、無礼を働いたことも自覚しています。今度お会いしたら、真っ先にお詫びしようと決めておりました」

 

 リディスさまは目を見開き、なにかを言い出そうとして取りやめ、ただわたしの口元をじっと見つめた。


 「ですが……どうか。お叱りになるなら、お言葉にて。罰するのであれば、こぶしか、刃にて。もとより、わたしは敵国の貴族の娘です。この命も、あなたさまの一存でどうとでもすべきものです。承知しております。わかっております……でも」


 わたしは目元に浮かんできそうになるものをなんとか堪えて、声を張った。


 「わたしの……心と、誇りとを、こんな形でお渡しすることはできません。それならば、どうか……ここで、この首、お落としくださいませ」


 そう言い、背の中でまとめてある栗色の髪をぐいと片手で左に寄せ、膝をついた。首を差し出す。

 ここですぐに剣を振るわれるとは思っていない。廊下が汚れるからだ。ただ、これでご不興は決定的になっただろう。

 あああ。身の回りの荷物、整理しておけばよかった。


 リディスさまはきっと、あの夜、贈り物を突き返された日からずっと、意趣返しの方法を考えていたのだろう。その方法は、わたしを……責め、苛むこと。

 リディスさまも、健康で強壮なひとりの男性だ。鍛え抜かれた体躯を誇る無双の武人だ。そういう気持ちを持つことも、夢想をすることも、悪いことではない。

 そしてわたしも、このひとに委ねること、許せないわけでは……ない。

 ただ、こんな形で、罰されるために差し出すことは、そしてそんな罰をリディスさまが下そうとすることは、どうしても我慢ならなかった。

 気がつけば頬に雫が伝っていた。


 「……な……」


 上からリディスさまの声が落ちてきた。

 うわずったような、掠れるような。

 

 「……なに、を……」


 わたしは顔をあげ、もう一度リディスさまを見据えた。口をきつく結び、頬をぐちゃぐちゃにして、そうしてたぶん、わたしの目はいま、リディスさまの瞳と同じくらい赤いはず。

 リディスさまは、のけぞるように一歩、後ろに退がった。


 「お庭に出ましょうか。それとも、ここで」

 「な、ま、待て」

 「……これまでのご厚誼、お礼申し上げます。短い時間でしたが、お屋敷での暮らし……料理をし、お菓子をつくり、皆と過ごせた時間。わたしの宝物となりました。思い残すことはございません」

 「いや」

 「許されるなら……裏づとめの皆には、わたしは母国に帰ったのだと、お伝えいただけないでしょうか。皆の泣く顔を思いながらゆくのは、辛いのです」

 「ちが、俺は……」

 

 リディスさまはなにかを言いかけたが、わたしがこぶしを前で組み合わせ、深く項垂れる姿勢をとったから、黙った。祈りの所作であり、断罪を待つ罪人の作法だ。

 と、リディスさまは、きゅうと音をたてて膨大な空気を吸い込み、ばああっとさらに大きな音で一息に吐いた。

 そしてわたしの右の上腕を掴みかけ、びくっと手を緩めて引き込めて、背中に柔らかく回してきた。ぐいっと押し上げ、立たせようとする。応じなければ抱き抱えられそうだったから、自分の足で立った。


 リディスさまは、無言でわたしの手を取り、引いた。わたしも従って歩き出す。もう、拒絶はした。誇りを示した。刑場となる部屋につれてゆかれるのか、寝床に引き倒されるのかはわからないが、いずれにせよ、わたしの魂はそこで終わりだ。


 とある扉の前で立ち止まる。

 黒く大きな、左右に開く扉だ。

 リディスさまはそれに手をかけ、ばん、と大きく開いた。


 正面には、大きな作業台。

 その向こうには、火台、水まわり、そうして調理道具。

 作業台の上にはなにか、黒い布を丁寧にかけられた、ひと抱えほどの大きな四角いものが置いてある。

 その周囲が、濡れている。水たまりのようになっている。


 「……氷、だ」

 「……へ」

 

 リディスさまは作業台の上を手で示して、振り返り、眉を山形に撓めて、ひどく情けなさそうな表情を作った。


 「パフェ、という氷菓子……知っているか。君にしか、頼めない。どうか……作ってくれないか。俺のために」


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