第7話 火急の用件


 「お館さま……リディスさま、お戻りになるって」

 「え」


 根菜が入った布包みがどさっと足元に落ちる。

 わたしの耳元に口を寄せ、手のひらで隠すようなしぐさをしていたネノは、むしろわたしが包みを落とすほど動揺したことに驚いたようだった。

 厨房の戸口。いつものように食材を受け取りにきたわたしに、今日はネノが手渡してくれたのだ。


 「え、って、なに、そんなにびっくりすること」

 「う、や……ちょっと、早いなって」


 出立から、三週間ほどか。

 いまリディスさまが駐留している隣国は、その首都まで、往復にそれぞれ二日ほどかかる。だから頻繁に行き来するようなものではなく、前回はたしか四ヶ月ほどは滞在していたような気がする。


 「早いよね。なにかあったのかなと思って聞いてみたんだけど、むしろいろんなことが順調で、早めにご帰館することになったみたいだよ」

 「あ……そうなんだ」

 「今日か明日には出立って言ってたかな。だから明後日あたりにはお戻りになるよ。また厨房、ばたばたすると思うから、しばらく遊びにいけないかもしれない」

 「うん、お仕事はお手伝いできないけど……なにかあれば、言ってね」

 「ありがと。お茶会もまた、しばらくお預けになっちゃうね」

 「……そうだ、ね」


 なんとなく口ごもったわたしの顔を不思議そうに覗き込み、ネノは首を傾げた。えへへ、と笑って誤魔化して、またね、と手を振って扉を閉めた。


 炭焼き小屋にのんびり、ぽくぽくと足を運びながら、わたしは自分のこころを点検していた。

 なんだろう、これ。楽しみと、憂鬱と、嬉しいのと、逃げ出したいのと。

 でも……とにかく、決めたんだ。謝るって。お会いできる機会があるのかは、わからない。でも、また昼過ぎの教練で、木立に立たれるだろう。見つけたら、必ず。


 裏づとめの使用人のところを回って、しばらくはお茶会を控えることを伝えた。みな残念そうな表情。お菓子と惣菜の差し入れ、行くからね、と言葉を添える。


 夜は、もらった根菜と保存していた塩漬けのお肉、それと果実で煮込み料理。たくさん作って、差し入れ用に分けておく。

 作りながらもリディスさまのことばかり考えていた。そのせいで香草をひとつ入れ忘れたけれど、これはリディスさまが悪いということにしておく。


 朝は、ナツァグさんからもらったユキジカの燻製、園庭の隅を少しだけ借りて園庭係さんといっしょに植えている青菜のサラダ、そしてジャムをたっぷり乗せたパン。食べ過ぎである。わかってる。でもなんだか、力をつけたかったのだ。


 片付けて、小屋と周辺の掃除、そのまま園庭係さんと合流して草取りと箒がけ。終わったら少し休憩して、今度は畑のお世話のお手伝い。ルキソエール家では農薬をあまり使わない方針で、雑草も虫も、手でなんとかするのだ。

 虫は、さほど苦にならない。母国にいたころも、庭の隅の離れにはたくさんの虫がやってきたし、部屋にはいってくることも多かった。得意とは言えないけれど、毒がない虫なら、手で触れられた。


 裾をたくしあげ、厚手の布を首のまわりに巻いて、髪をきゅっと後ろに丸めたわたしが、くねくねした虫を指でつまんで桶にぽんぽん放り込んでいく姿はさぞや異様だったろうと思うけれど、作業している方はあんがい楽しいのだ。


 葉の裏に特に大きな虫を見つけた。隣で作業しているひとに、それは綺麗な紫色の蝶になるんだよと教えてもらって、へええと目の前に持ち上げてしげしげ眺めている時に、なにやらざわめきが聞こえてきた。


 はじめは遠くから聞こえてきたそのざわめきは、ほんの少しの間に近くに迫ってきた。近いといっても、屋敷の正面、正門のほうだ。ここからは母屋の陰になって様子は見えない。

 誰かの大きな声、馬の蹄の音。何人かが慌てているふうに聞こえる。


 「……なんだろう」

 

 わたしを含めて畑にいた全員が立ち上がり、不安げに声の方を見やる。畑の使用人の頭であるダッジさんが頭に巻いていた布を外し、こちらにうんと頷いて、母屋のほうに小走りで向かっていった。様子を見てくるんだろう。


 残った皆は、顔を見合わせてから、また作業に戻った。

 が、雑草を数本、抜くほどの時間しかなかった。

 ざわめきが急に大きくなったのだ。

 先ほど聞こえてきた声に、聞き覚えのある大声が混ざっている。顔をあげると、正門の方に走っていったはずのダッジさんが、両手を交差させるように大きく振りながらこちらに向かって走ってきている。なにやら、叫んでいる。目を剥いている。


 そうして、その後ろから。

 大きな影が追ってきている。


 「……?」


 初めはなんだか、わからなかった。まさか、と思うから見分けられなかったというのもある。けれど、その姿はすぐに近づいてきたから、嫌でも見分けることができるようになった。

 

 畑の全員がだんと立ち上がった。みな、目を見開いている。後ろを向いて走りだろうとしているものもいる。

 わたしは少し遅れてのろりと立ち上がった。たぶん、目だけじゃない。口もぽかんと開いていたと思う。


 「……嘘、でしょ……」


 ずががん、ずががん、と、砂利敷きの通路を走ってくる、大きな白馬。

 遠目にも鮮やかな金と黒の鞍、馬飾り。

 その背で、黒のマントを羽織った大柄な男が手綱を握っている。


 すぐに畑に近づいてくる。石が蹴り散らされ、地響きとともに土埃が舞う。がりっという石を噛むような音とともに、馬は畑の横で脚を止めた。長い距離を走らされたのだろう、息が荒い。

 その息を感じるような距離で、わたしは呆然と立ちすくんでいた。


 「……リディス……さ、ま」


 屋敷の当主、軍の大半を率いる最強の武人、炎鬼えんき将軍、リディス・ルキソエールさま。

 今日あたりに隣国を出発すると、たしか聞いたはず。こんなところにおられるはずがない。でも、間違いない。

 燃えるような紅の瞳。同じ色の髪を逆立て、口を強く引き結び、馬上から射るような視線をこちらに向けている。その視線は、真っ直ぐに……わたしに、落ちている。

 その圧力、迫力に、わたしは思わず息を吐いて、後ずさった。噂話を思い出す。お館さま、調子が戻って、不逞の悪徳商人をひと睨みで屈服させた、って。

 これが、ほんとうの炎鬼将軍……。


 「あ、あああの、お館さま……なにか、ご用でしょう、か……」


 わたしの横にダッジさんが並び、消え入りそうな声で伺いをたてる。リディスさまが黙っているので、続けざるを得なくなり、消え入りそうな上に若干の涙声を含ませて、この気の良い初老の男性使用人は言葉を絞り出した。


 「わたくしどもに、なにか……て、手落ち」

 「違う」


 被せるように、リディスさまは短く言い切った。低く張りのある、よく通る声。いくどか聞いたはずなのに、びりりと痺れるような思いがした。ダッジさんは、ひ、という声にならない音を喉から出した。

 

 「作業中か」

 「あ、は、はい、もう少しで終わるところでして……」

 「人手が要る。火急の用件だ」

 「は、か、かしこまりました、ただいますぐに……おい、みんな、手を洗って」


 振り返って号令をかけようとするリッジさんに、リディスさまは、ごほっと咳払いをしてみせた。叱られたようにぴくりとして顔を戻すリッジさん。

 リディスさまは、どうしたわけか、目線を遠くに彷徨わせている。


 「……や、ひとりでよいのだ」

 「で、では、わたくしが……」

 「畑仕事の邪魔をするわけにいかん。そうだな……うむ、そこの、炭焼きの女はどうか。ただの手伝いだろう。ここを離れてもそう差し支えないと思うが、どうだ」

 

 ダッジさんが、もういちど振り返る。今度はわたしをまっすぐ見ている。なんとも珍妙な表情。が、わたしも似たような表情を浮かべているはずだ。眉をあげ、くちを山形に引き結んで、首を傾げてみせた。


 「エルちゃん……手、放せるかい?」

 「あ、はい、だいじょう、ぶ、です……」

 「済まぬが、まこと火急でな。連れてゆくぞ」


 そういい、リディスさまはふわりと馬から降りて、わたしの前に立った。以前に相対したときよりも威圧感がすごい。が、見下ろす顔がわずかに赤みを帯びている。

 ぼうっと見上げていると、リディスさまの手がわたしの背に、ふいに回った。

 

 「ひゃ」

 

 思わず、声が出てしまった。畑のみんなも、手で口を押さえている。ついた土、飲まなかっただろうか。

 わたしを横合いに抱えるような形のまま、リディスさまは次の瞬間、馬に飛び乗っていた。世界が回転した。息が吸えない。

 ようやく平衡を取り戻した視野は、想像よりもはるかに高い位置から畑とみんなを捉えていた。 


 なに、これ。

 なにこれ。


 「はっ」


 リディスさまが馬の横腹を蹴り、あっという間に畑は後方に流れていった。

 


 

 

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