第4話 泣きべそ、ふたり


 綺麗だな、と思った。

 

 月は中天にあって、ほとんど満月。

 雲も薄く、澄みとおった蒼い光が降っている。

 その光のなかで、リディスさまは泣いていた。

 アップルパイを手に置いて。


 大人の男性の泣き顔を見るのはたぶん、生まれて初めて。

 とてもびっくりしたけれど、次に浮いてきた感想は、綺麗、だった。


 パイを齧るたびに軽く頭を振る。そのたびに炎のような髪が揺れて、蒼の月明かりに染められた頬に、ぽろぽろと涙が転がってゆく。

 もっと浅黒い肌という印象だったが、間近で見る彼の首筋も頬も、儚いほどに白かった。もちろん、月明かりのせいだろう。あるいは子供のように泣く、その表情のためだろう。

 でも、ごつごつとした男性らしい顎筋や手首すら、いまのわたしにはひどく頼りなげで繊細で、護ってあげなくてはならないものに思えたのだ。


 と、じいっと自分の顔を見つめているわたしに気がついたらしく。

 リディスさまはこちらに目を向け、しばし黙り、それからゆっくりと驚愕したような表情を作ってみせた。


 「……あ……」

 「あ」


 互いに、あ、しか言えない。

 ややしばらく固まって、わたしはぎこちなく笑顔を作り、小首を傾げてみせた。


 「あ……あの、アップルパイ、お気に召していただけたようで……」

 「……う」


 リディスさまは、今度は、う、とだけ言って、わたわたと動き始めた。

 左右を見回し、意味もなく左手で胸のあたりをぱんぱんと叩いて、髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。地面に左のこぶしをずどんと突き立て、ばっと立ち上がる。

 右手のパイをどうするのかなあと思って眺めていると、それは、食べた。


 「……や……違う……」


 なにやら弁解しながら、もひゃもひゃと口を動かしている。飲み込んだと思えば、これでもかと目を見開いて、横座りしたままのわたしを見下ろしている。目は血走っているように思うし、こんな手が触れる距離だ。普段なら小さな悲鳴をあげていただろう。

 でも今は、まったく怖くない。

 だって口の端、アップルパイの皮だらけだし。


 「あの……お顔、に」


 自分の口のまわりをくるりと指さして見せると、リディスさまは両手で顔をばたばた叩き出した。鼻とか痛くないのかな。

 叩き終わると、大きく息を吸い、吐いた。落ち込んだように下を向く。


 「……世話になった。礼はいずれ」


 そうして上を向き、ぐるりと踵を返して、大股で歩き出した。


 「あ、いえ、お礼など……」


 腰を浮かせたわたしの声は、たぶん届かなかっただろう。

 下草を蹴るようにかき分けて、リディスさまは肩をいからせながら去っていった。

 

 わたしはしばらくの間、動けなかった。

 月に照らされながら呆然と草の中に座っていた。

 あれ、なんだったんだろう。

 アップルパイ……そんな、泣くほど美味しかったかなあ。

 無理やり食べさせられて、悲しくなった、とか? でも自分から手、出してたし。パイに、甘いものに、なにか嫌な思い出が……?


 まだ心臓がちいさく暴れていた。理由はたくさんある。夜半に鬼の将軍を踏んづけてしまったのだ。無理もない。泣くほど悪いことをしてしまったのだろうかと心配する気持ちもある。パイを最後まで平らげてくれて嬉しいとも思ってる。それに……それに?

 あの、瞳。

 蒼い月明かり、逆まく真紅の髪、震える肩、不安そうにわたしを見上げて。まるで救けを求めるように……。


 ちょっと待った!

 わたしはふんふんと頭を振って妄想を追い出した。

 炎鬼えんき将軍が、無敵の武人が、誰に、どうして救いを求めてたって?

 

 ふんっと鼻を鳴らして、わたしは立ち上がった。ぱんぱんと膝を叩く。月を見上げてもう一度深呼吸をして、炭焼き小屋に向かって決然と歩き出した。

 空になった編み籠を置き忘れたことに気がつき、ぱたぱた走って戻る途中に、思いっきり転んだ。


 ◇


 あれから、四日。

 お礼にゆく、と言われたような気がしたけれど、リディスさまが炭焼き小屋を訪ねてくることはなかった。

 もちろん期待はしていなかった。むしろ来られても困るし。

 それでもこの四日間、朝に髪を梳かす時間は長くなったし、紅花を煮出して蜂蜜に溶いて、荒れ気味の唇を養生してもいたのだ。


 「明日の朝、出発されるんだとよ。お館さま」


 薪を届けてくれた小間使いのおじさんが、ちょっと嬉しそうにそう教えてくれた。

 わたしは手に持っていた箒をぎゅっと握り直した。


 「あ……そう、なんだ」

 「今回はちょっと短めだったな。でもゆっくりご静養できたらしくて、ずいぶん顔色も戻られたみたいだ。良い薬でも手に入ったのかな」

 「……良かった」

 「ああ。ま、お館さまのことだから、ほっときゃそのうちお元気になられるだろうとは思ってたぜ。そんな繊細なおひとじゃねえからな。がははは」


 お茶会、楽しみにしてるよ、と言い残して、おじさんは手を振って去っていった。

 手を振りかえして、わたしはなんだかもやっとするような、誇らしいような、妙な気持ちだった。

 わたしだけが知っている、月夜の涙。


 翌朝はリディスさまをお送りするために、家人は早朝から慌ただしくなる。わたしは特になんの役目も受けていないけれど、いつもなんとなく裏づとめの皆にあわせて早めの身支度をするのだ。

 だから今夜も早めに夕食をとって、寝床に入った。

 りりりという心地よい虫の声を聴きながら目を瞑る。

 口の周りいっぱいにパイの皮をつけているリディスさまのお顔、慌てる姿をくすくすと笑いながら思い浮かべているうちに、いつの間にかあたたかい眠りに落ちていた。


 ざく、ざく。

 草を踏む音で目が醒める。

 薄目をあけるが、音はしない。

 気のせいか、と思って目を瞑ると、また、ざくざく。


 そろりと起き出して、鉄鍋をつかむ。

 足音を忍ばせて板戸の横に近づく。

 舐めないでほしい。子どもの頃からの一人暮らし、離れ暮らしだ。地方領主の敷地とはいえ、深夜になれば人気はない。風の吹く音、獣の声にはじめは泣いて過ごしたが、何百回も頭のなかで繰り返した悪漢との格闘は、やがてわたしを戦士に変えていたのだ。

 妄想の中で、だけど。

 

 戸口の外で立って、どうやら小屋の中の様子を伺っているらしい。

 こちらも息を潜めて相手の気配を読んだ。

 戸が開けられたら、顔面に一発、鍋を叩き込む。

 そして全力で走って、裏づとめたちの寝所に駆け込む。

 よし。


 板戸の向こうで、ごそりと音。

 こつん、と、なにかが石の踏み板に置かれた気配。

 それから少し沈黙があって、ざく、という足音。

 音は、遠ざかっていった。なにかためらうように、途切れ途切れに。


 わたしは、ふう、と息を吐いた。

 背中を壁に預けて、それでも、相手がどんな者か気になった。

 そろりと窓辺に移動して、ゆっくり、ちいさく、顔を出す。


 紅い髪。

 今夜は曇りだし、裏には灯火などない。真っ暗だ。

 それでも、遠ざかる背がリディスさまのものだというのは容易にわかった。


 扉に走り寄り、開ける。

 こつん、と、板戸になにかが当たった。

 黒い小さな木箱だ。

 持ち上げ、開ける。

 

 「……え」


 薄く、淡く、澄みとおった緑の石。

 夜目にもわずかな光を捉えて煌めいて見える。

 暗くてよく見えないが、とても精巧に作られた台座に、輝く鎖。

 ネックレス、だ。

 

 「……ちょ、あの」


 声を上げる。リディスさまはすでに木立の向こうに消えている。

 わたしは走って追いかけ、また転びそうになりながら、ようやく追いついた。

 リディスさまはすでにこちらに振り向いていた。

 不思議そうな、怪訝そうな表情をしていた。


 「……起きていたのか」


 その目線がわたしの顔より下にあったので、意味を数拍、考えた。答えを見つけたわたしは絶叫すべく息を吸い込んだが、声を出さずに口の形だけ作った。深夜だ。我ながら良い判断だったとおもう。

 厚手のぼってりした生地とはいえ、寝巻き。

 わたしは思い切りリディスさまを睨みつけ、背を向け、肩を抱いた。睨まれる彼は大変な迷惑だっただろうけど。

 

 「……先日の礼だ。明日、発つのでな」


 わたしの手にある木箱を見つけ、彼はぼそっと声を出した。


 「部下に選ばせた。こういうものを好むのだろう、君のような年頃の女は」

 「……え」

 「それなりの対価を払ったと聞いている。良し悪しは知らぬが、悪いものではないんだろう。受け取っておけ」

 「……」

 「なんだ。気に入らなかったか」


 わたしがなにも言わずに彼の顔を見ているのを、用件が済んだと理解したのだろう。リディスさまはふっと眉を上げ、少しだけ肩をすくめて、くるりと踵を返した。


 歩き出したその背に走り寄り、わたしはがっしと、肩を掴んだ。

 ぎょっとした表情で振り返るリディスさま。


 「……ちょっと、待ってください」

 「……なんだ」

 「アップルパイ、余りものです。たまたま持ってたから差し上げました。お気に召してくださったんなら、嬉しい。お礼の気持ちも。でも、こんなことをしていただくいわれはありません」


 その言葉を聞いて、リディスさまは少し表情を緩めたようだった。


 「ああ、値段が気になるのか。案ずるな。その程度のもの、どうということもない。もう少し高価なものでも良いくらいだ。気に入らぬなら売り払ってくれればいい。それより、あの菓子だが、あれは……」


 言葉を続けようとして、リディスさまは息を呑み込んだ。

 わたしが頬に、ぽろっと滴をこぼしたのを見たためだ。


 「……え、な」

 「……もう、ここにはいらっしゃらないでください。ご体調が戻られたとのこと、お喜び申し上げます。お仕事、上手くいきますように」


 とん、と彼の胸に木箱を押し付け、わたしは踵を返し、歩き出した。

 


 

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