第2話 やっちゃった


 ルキソエール公爵家での囚われ暮らしは、思ったとおりとても快適で、ほんの少し不便だった。


 使用人でも罪人でもない微妙な立場のわたしには、食事が与えられなかった。代わりに毎日、材料をもらえる。朝方に母屋の厨房の板戸を叩くと、前日に余った食材が分け与えられるのだ。

 最初の日、このことを炭焼き小屋に説明しにきた裏勤めの使用人頭は、あみ籠にいっぱいのくず野菜とお肉の端切れをポンとわたしに押し付けて、明日からは自分で取りに来るようにとだけ言って戻っていった。

 わたしは、震えた。衝撃だった。自分で食材を集めなくていい、ということが……。

 調味料もいくつか入っていたから、その夜は豪勢にお肉たっぷりのシチューにした。しっかり煮込んでほろほろのすじ肉を口に含んで、わたしは泣いた。うま……と、思わず声が漏れた。


 数日経つと、小麦粉や砂糖がどっさり与えられた。お屋敷で使うものは半月ほどでぜんぶ取り替えてしまうらしい。受け取った時、小さく叫んでしまった。もったいなさすぎる! 

 果物やミルク、バターも手元にある。となると、お菓子づくりだ。ふんす、とわたしは鼻息を荒くして腕まくりをした。

 粉をふるいにかける。バターに卵と砂糖をあわせ、粉を加えてざっくりと切り混ぜる。手でちいさく丸めて、鉄板にぽんと叩きつける。あらかじめ切っておいた胡桃や干した果物をあしらって、しばらく寝かせたら焼いてゆく。

 甘い良い香りが小屋中に、そして外にも広がってゆく。

 フルーツクッキーの焼き上がりは上々だった。ひとつ手にとって様子を確認してから、齧る。んんんっ、と、声が出る。美味しい! 小屋の作り付けの窯は造りがよいらしく、熱がまんべんなく伝わるのだ。


 お昼は省略して、その日はクッキーで済ませてしまった。お腹いっぱいになったけど、まだたくさんある。二、三日で食べてしまわなきゃなあ、と思いながら袋に入れて戸棚にしまっておいた。

 外で薪を片付けていると、なにやら視線を感じた。畑で働く使用人がこっちを見ていた。よく庭ですれ違う。話はしたことがないけれど、悪い人じゃなさそうだなあと思っていた。

 わたしがそちらを見ると、慌てたように目を逸らす。ん? と、しばらく考えていたが、ピンときた。小屋に入り、袋を取り出して、小分けにしてまた外に出た。

 まだ立っていた彼に、よかったらどうぞ、と袋を示す。え、と驚きを示してから、おずおずと近づいてくる。袋を開けて見せると、頬を上気させて嬉しそうな顔をしてくれた。

 喜んで戻って行った彼は、翌日、チーズをひとかたまり持ってきてくれた。そのチーズでわたしはピザを焼いて、次の日に彼のところにもっていった。


 しばらくすると、噂を聞いたのだろう。わしも、あたしもと、主に裏方の仕事をする使用人たちが炭焼き小屋を訪れるようになった。みな、何かをお土産に持ってきてくれる。母屋では使わないような食材や調味料もあったから、ほんとうに助かったし、嬉しかった。


 そのうち天気のよい午後には小屋の外にテーブルを置いて、皆でお茶をするようになった。焼きたてのカップケーキ、フィナンシェ、マドレーヌ。わたしは母国風の、香りを効かせたお菓子をよく作ったけれど、みな喜んで食べてくれた。


 そんな楽しい日々はしばらく続いたのだ。

 だけど、ある日。


 「おい、あれ……」


 テーブルについていた庭師のおじさんが、わたしの肩越しに、小屋の奥、木立の方を小さく指さした。怯えたような表情。

 ん? とわたしは振り返り、思わず、ひっ、という声を出してしまった。

 木立に背を預けるように腕を組んで立っている、黒ずくめの長身の男。細身だが、装束の上からでも鍛え抜かれた身体つきであることがよくわかった。無造作に暴れさせた紅い髪が木陰ながらに目を引く。

 その男が、髪と同じ真っ赤な瞳をこちらに向け、眉を怒らせていた。


 「り、リディスさま……」


 戦場ではひと睨みで敵の進軍を止めると噂された、炎鬼えんき将軍。三十ほどという若さで王の信任を得て、軍の大半を統括する立場である屋敷の主が、いま、無言で、眼力だけで、凄まじい圧力をかけてきている。


 「……ね、ねえ……今日のところは、お開きに、しようか……」

 

 隣の園庭掃除のおばちゃんが裾を引く。わたしは顔を引き攣らせ、振り返ったままでこくこくと頷いた。なぜ睨まれているのかさっぱりわからない。わからないけど、主の機嫌を損ねてよいことはない。皆でそそくさと片付けた。


 ところが。

 それからというもの、お茶をしようか、となってわたしが準備をしていると、決まってリディスさまが現れるようになった。

 炭焼き小屋の隣は木立を挟んで広い広場で、屋敷に所属する兵士たちの練兵場になっている。そしてちょうど訓練時間が、お茶どきにあたるのだ。

 だから、兵士たちを監督する彼がその時刻にそのあたりにいるのは、わかる。わかるけど、毎回、わざわざ小屋の近くの木立に立っている必要はないと思う。並んで行軍練習してる兵士たちなんて、もうずうっと向こうだ。見えてないと思う。

 別にお茶をすることは禁じられていないから、はじめは遠慮がちにテーブルを出したけれど、会話も弾まないし、せっかくのお菓子の味すらよくわからなくなるしで、自然とお茶会は無くなってしまった。


 ある日、お茶会をする代わりに焼き菓子を届けようと袋に入れて小屋を出たら、ちょうどリディスさまが木立にやってきたところだった。

 いつものように腕を組み、こちらを横目にチラッと見て、ふん、と顎を上げてみせた。やや頬骨の目立つ彫りの深い横顔が、その日のわたしにはひどく腹のたつものに思えた。

 

 だめ。こらえろ、エーレアンヌ。

 自分に声をかけたが、足が止まらない。

 ずんずんと歩いて、いつの間にか彼の目の前に立っていた。

 わたしより頭ひとつぶんほど、高い。

 その紅い瞳を見上げるようにして、わたしは自分でも信じられない声を出していた。


 「そんなにいけないことでしょうか」

 「……なに」


 リディスさまは片眉を上げて、怪訝そうな顔をつくった。

 もうやめて、戻るのよ、という理性の命令を、わたしの心は無視した。


 「お茶、することが。お菓子をいただくことが。禁じられていないはずです。みんな、ちゃんと自分の仕事をして、その合間に楽しんでいるだけです。材料だって、みんなで持ち寄ったものです。けっして盗んだり、悪いことをして得たものではありません」

 「……そうか」


 一息に言ったわたしの言葉を理解しているのか、リディスさまはしばらく間を置いて、曖昧に頷いた。その仕草がわたしの燃料に火をつけてしまった。


 「……日頃お忙しいし鬱憤も溜まるでしょうけど、そうやって立場が下の者を揶揄からかったり苛めたりして発散するなんて……最低、と思います」


 リディスさまの眉根が寄せられ、ぴく、と頬が引き攣った。

 わたしの頬も同様に引き攣った。ああ、終わったな、と感じた。わたしの理性が頭を抱えてうずくまっている。殴られるだけで済めばよいが……。

 が、リディスさまは大きく息を吸い、ふっと吐いて、横を向いた。


 「……菓子ぐらい、好きに食えばよかろう」

 「……え」

 「滋養にも活力もならぬ、子どもの食い物。そんなものを食えば憂さが晴らせるというのなら、いくらでも食えばいい」

 「……なん、ですって……」


 リディスさまはもう一度わたしに目を落として、小さく口角を持ち上げた。


 「君は、たしか……隣国の」

 「炭焼き番の、エル、と申します」


 あえて家の名を、本名を言わせないよう、わたしはリディスさまの言葉に被せて強い声を出した。短い裾で、それでも完璧なカーテシーを作ってみせる。


 「……ご無礼をいたしました」


 それだけいい、踵を返す。つかつか歩き出した背に、リディスさまがなにか声をかけたようだったが、聞こえないふりをした。


 

 


 

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