ここから始まった物語
青井志葉
物語を始めましょう。
「つぐみ、お客様のお荷物を運びなさい。どんくさい」
「つぐみ、お祝いの品をどこにやったの? まさか盗んだんじゃないでしょうね、このブス」
「つぐみ、お客様にお茶は出したの? まだ? 手際の悪いこと」
「つぐみ、早くお膳を出しなさい! 何をもたもたしているの!」
縁側を駆けながら、わたしは庭で咲き誇る桜を流し見る。
桜が咲く頃、花村家では盛大な豊穣祭を執り行う。本来は本家で行われるはずの祭りは、とある事情から、近年は分家花村で行われている。そのせいで遠近関係のない親戚どころか、本家花森当主わざわざ分家花村まで足を運び、見栄っ張りな花村一族はおもてなしに全力を注ぐというわけで。
そんな地獄に等しき忙殺の祭りが、本日なのである。
使用人たちは陽が昇るより前からもう大忙しだ。普通の使用人たちがてんてこ舞いになっているのならば、当然、使用人の使いっ走りである私なんて、休む暇どころか、朝ご飯を食べる時間もないくらいに動かされている。
あれはやったか、これは終わったのか、どうしてやっていないのか。朝から現時点にいたるまで何度言われたか。そもそも使っている人間のタスク管理ができないことに問題があるのではなかろうか。それでわたしが怒られるなど理不尽である。お腹もすいたし。
そう、お腹である。なにゆえご飯が食べられないのか。他の人は食べているのに、ゆっくりと座って、何なら食後の一杯もかましているのに、私はどうして食べられないのか!
運んでいる昼餉の膳に目を落とす。春が旬の食材をふんだんに使った会席料理が小奇麗にまとめられている。つまんだら気付かれるものばかりだ。わざとだろ、私に対する嫌がらせだろ。
腹筋に力をこめ、食物をくれくれアピールを始めるお腹を宥める。
もう少し待つのだ、私のお腹。きっと宴会が終われば、終わってしまえば——、片付けがあるわー、片付けが終わったら何時だろう。それまで持つかなあ……、いっそ倒れてしまえば……、いや、踏みつけられそう。
「つぐみ!」
突然怒鳴られ、心臓がきゅっとなり、足が不自然にぴたりと止まる。顔を上げると前には女中の先輩がヒステリックに顔をゆがめていた。
「おっせーんだよ、のろま!」
地味なわたしのお仕着せとは違い、華やかなお仕着せをまとっているのに、口が悪いから余計化け女にしか見えない。
一応さ、豊穣を司る
と思いながら何も言えない私は深々と頭を下げる。書庫にあったマナー本の教え、謝罪の時は直角に腰を曲げる、これを実践してみた。盛大に舌打ちをされた。マナー本はこんなど田舎では通用しないらしい。
手に持っていた膳を取り上げられる。時間が押しているからなんて理由で手伝ってくれるなど殊勝なことをする人だったかな、とわずかに顔を上げれば、彼女は片手で膳を持ちながら、私の頬を思いっきり引っ叩いた。
女のくせにバカ強い力で思わずよろめく。ぐうの音も出せず、女を見返せば、満足だと言わんばかりに鼻を鳴らし、
「奥に引っ込んでろ、ブス」
そう罵り広間へ膳を運んで行った。直後に、
「当主のご到着です」
いささか離れている玄関の方からパタパタと女中が小走りにやって来た。
私が廊下の端に寄ってもわざと肩をぶつけてきて、舌打ちののち「邪魔くさ」と小言を頂戴する。
私は目を閉じ、肩を落とす。ついでにため息もこぼす。
言霊使いが発する言葉の力を誰も理解していない。かつて私は『八重』を名乗り、しかしそれをある事件をきっかけにを破棄させられ、『つぐみ』の名で声を縛られた。音を殺された人間が目の前にいるのに、誰一人言葉の重みを知ろうとしない。力が弱かろうと、数多の悪意を音にして刺され続け、摩耗しない人間などいるはずがないではないか。それとも本当に死んでもいいと思っているのか。
空っぽの胃が渦巻いたような感触。時々あることだった。いつもならすぐに消える。けど、今日は違った。きっと、
「あの方はいらっしゃているのか?」
この声を聞いたせいだと思う。人を従わせる、支配することだけに特化した、当主の重圧的な声。私に『つぐみ』を押し付けた人。
縁側の端の端、もう踵が縁側のへりから出るくらいまで寄り、私の顔が見えないように、深々と頭を下げる。
「いえ、まだ見えてはおりません……」
早く通り過ぎろ、失せろ。心の中でひたすら願う。権能は剥奪されていても、人の想いとはバカにはできない。
「しかし儀式後は必ず顔を見せると仰せでしたし、
「そうか……」
当主は気落ちした様子で呟く。
私はひたすらに祈り続けた。当主の歩く速さがどんどん遅くなっていったから、もう祈り以外心にはなかった。
上がりそうになる息を宥めるのにも苦労する。息遣いを聞かれて、間違っても当主が私を認めてしまったらと想像すると、一度心臓が大きく跳ねるほどだった。
祈りと呼吸、この二つに集約していたわたしの意識は、あろうことかそれに気づけなかった。当主の次、いや、今では並び立って聞きたくない声、遭遇したくない人物に居座る人間が来たのである。
「心配いりませんわ、おじいさま。穂津眞さまはわたくしと約束してくださったのです。稻坐大社の領域に住まう人々を守りたいと願うわたくしと共にいてくれる、と」
鵠衣は彼の特別になっていることに、わたしの胸が少しだけ痛む。でも、しかたがない、しかたがないのだ。どん底にあった彼の社に足しげく通い、根気強く説き伏せたのは、何を隠そう、鵠衣なのだから。
無意識にもっと距離を取ろうと足を引こうとして、それ以上下がれないと、踵に触れることのない板で悟る。ならば、深々と頭を下げ、前髪とその影で顔を隠して逃げの一手を打つ。
「穂津眞さまはわたくしの言葉を信じて外においでになられました。ならば、今度はわたくしたちが穂津眞さまを信じなければ」
穂津眞。稻坐の神様に連なる、自ら角を折った鬼の神。気さくで優しい、この国には珍しい海老茶の髪と目をした、人から鬼を経て神になった青年。
最後に会ったのは四年前、私がまだ『八重』を名乗っていた時。『つぐみ』になってから、私は稻坐大社に赴くことを禁じられたし、穂津眞は自身の社に引きこもって出てこなくなったと聞く。引きこもりから立ち直った幼馴染——というのはいささか不敬であるが——の元気な姿を一目でも確かめたかった。
けれど、彼が臨席する場に果たして私は入ることができるのだろうか。入口付近で待機するには怒られるだろうし、みすぼらしい格好では表の給仕にも出させてはくれないだろうし、トイレ付近で待機するかとも考えたが神様はそもそも催さないのではないか。
玄関の方がにわかに騒がしくなる。誰かが早足に近づいてくる。
「当主さま、鵠衣さま、晨都さんがご到着されました!」
「穂津眞さまは?!」
わたしの背後、風雅な庭から風が吹き抜けた。桜の花びらがそよそよと縁側に運び込まれる。春の香りに紛れて、かすかに水の匂いが漂う。
「俺に何か用事があるのか?」
耳に心地よい青年の声に、私の胸に熱が集まり膨れ上がる。
「穂津眞さま」
鵠衣が嬉々とした声を上げ、私を押し退けて、庭に飛び降りていく。
私は鵠衣の意外にも強い腕力によろめき、空腹の体では踏ん張りもきかずに、しりもちをつく羽目になった。当主が舌を打つ。無言の圧力がのしかかる。きっと「はしたない」とか思っているんだろう。穂津眞の手前、下手に言葉を吐き捨てられないだけで、忌々しいと思ってるんだ。ちらりと見た当主はすごく蔑んだ目をしていたから。
胸に沸いた激情がスッとなくなり、とってかわったのは四年間で培われた端女根性である。すぐに体を起こして、土下座のポーズ。この国において最高の服従と謝罪のポーズである。これは全面降伏であり、謝罪の最終手段だとマナー本に書いていた。注釈に「プライドが傷つくのでほどほどに」と記されていたが、保てるプライドなど『つぐみ』となってからとうにないから、やすやすと発動させるのだ。だってこれは、効果てきめんなのだから。
案の定、当主は鼻を鳴らしただけで、無言の圧力を解き放ってくれる。単純万歳。
「鵠衣、庭で立ち話など穂津眞さまに失礼であろう」
横目に鵠衣を見遣る。
ぬばたまの髪を綺麗な髪飾りで彩り、桜吹雪を施した振袖を見事に着こなし、きゃっきゃと騒いでいた鵠衣が口を閉じ、ハッとしたように口を手で覆う。
「申し訳ございません、穂津眞さま。わたくし、はしたなくもはしゃいでしまって」
両手で頬を挟み、恥ずかしさを発散させるように体をよじる。ぱっと見は可愛い。女の私から見ても可愛い。神様の付き人である『寵児』候補の中でも抜群に可愛かったから、鵠衣は。性格を知らなければ本当に可愛い。
鵠衣は頬をほのかに染めて、当主のいる場所を手のひらで指し示し、
「宴の準備は整っておりますので、どうぞおあがりくださいませ」
そう穂津眞を促す。
穂津眞の足先がこちらに向かってくる。彼が近づくにつれ、わたしの目線は自然と上擦っていく。いつも軽衫ばかりだった足元は濃い灰色の縞袴で少し歩きづらそうだ。さらに彼は近付いてくる。そうすれば黒い羽織と着物が視界にはいってきて。
もう少し、もう少しで穂津眞の顔が見える。
そう思った矢先、
「頭が高い」
当主の小さく低い声が心を縛った。わたしの主導権は瞬く間に当主の言葉に支配され、視線は床に釘付けに、ついでに額も床に叩きつけてた。本当に、容赦なく、まるでコントのようにゴンッという音が響いた。
「当主どの。やりすぎじゃないか」
あほのような音は穂津眞の耳にも入ったようだ。
「このものは下女。穂津眞さまを目に入れるなど不敬以外の何ものでもありません」
「しかし、俺にとってこの村の者は身分に関係なくみな恩人だ。無体を働かれては心苦しい」
見えないが、穂津眞は眉を八の字にしているに違いない。言いづらいことを口にする時、彼はいつもそうだった。はっきりとものを口にする稻坐の神様と違って、稻坐の神様が息子同然に可愛がる彼は、元人間であることが影響しているのか言葉を濁すことが多かった。
「いえ、穂津眞さま。この者は村の者ではありません。ですから、なおのこと穂津眞さまにお目通りなど。稻坐さま、穂津眞さまがお許しになられましても、我らの気が……」
村民以外だから無体しても問題ないですよって告白しているようなものだけど、それが許されるとなぜ思った。というか、この当主、今まさにくどい説教をはじめようとしているのか。神様相手に説教をかまそうとしているのか。穂津眞は神様としての格が低いから侮っているのか。なんだそれは、面白くない。
やる瀬のない怒りに胸が震える。当主の口からそれを言わせる原因を作った自分にも腹が立つ。
けれど、言われている当人は意にも介していなかった様子で、
「お前、外から来たのか? 八重と同じだな!」
喜色に満ちた声で、そう言ってきた。
彼の口から『八重』の名が出たことで、当主は二の次を継げれず、鵠衣は息を呑んだ。
そして私は息を詰めた。覚えていてくれたのだと、たった数年しか一緒にはいなかった人間のことを覚えていてくれたのだと、瞼の裏が熱くなる。
「八重と同じなら俺にとっても大事な人間だ。額は大丈夫か? すごく痛そうな音をしていた。見せてくれないか?」
穂津眞の言葉を受けて、ようやくわたしの体から力が抜けた。床と仲良くしていた額を離し、ゆっくりと顔を上げる。心臓はどくどくと激しく暴れる。
「……、少し赤くなっているな。こぶにならなきゃいいけど」
彼はそっとわたしの額に触れた。
ああ、やはり気付いてはくれなかったか。
いいや、当たり前だ。『八重』は『つぐみ』になったのだ。名が変われば顔も変わる。
癖のなかった髪は『鳥の巣のようだ』と形容されてからは強い波を打つようになった。『プールから上がったみたい』と笑われた唇は、つねに血色が悪くなった。『細すぎて物が見えているのか』とからかわれ双眸は、糸目とまではいかずとも他人と比べれば細いと断言されるまでとなり、ついでに二重が一重になった。
『八重』の面影などなくなってしまったのだ。
寂しくはあるが、穂津眞を責めることなど出来るはずもない。言霊を弾けなかった自分の力不足のせいであり、呪いを吐き続ける一族が悪いのだ。
しかし、四年振りの再会である。肩くらいまでのざんばら髪、切れ長だが丸い目、鬼神特有なのか目立つ八重歯、記憶に残る彼と変わらない相貌に言い知れない安心感が広がる。けれど、少しやつれているように見える。もしかしたら、穂津眞の引きこもりを起因にお怒りモードもとい、凶作の神に転じた稻坐の神様を鎮めるために神経をすり減らしたためかもしれない。
穂津眞が引きこもりになった原因や、稻坐の神様がやさぐれた原因をわたしは知らない。ちょうどのその時期に私も通っていた小学校でごたごたが起こり、その責任を問われ『八重』を取り上げられたのだから。けれど、引きこもるほどの心労を抱えたうえで、荒神を鎮めるために叩き出されるなど、その心情、推し量るに余りある。
慰めたくて、無意識に彼の頬に手を伸ばしかけた時だった。
「穂津眞——ッ!!」
穂津眞の声よりも少し高い怒号が玄関の方向から飛んできたかと思えば、物理的に何かが飛んできたようで、穂津眞がゴンッとなかなか痛そうな鈍い音をたてる。一拍置いて、彼の後頭部からゴトンッと縁側に重そうな何かが落ちる。気になってひそかに目を下に向けると、片手に乗りそうな大きさの水晶玉が一つ。
穂津眞は神である。元人間でも、元鬼であろうが、今は祀られた神である。物理攻撃など受けることなどまずない。つまるところ、この水晶玉はやんごとなきブツで、彼の頭にはもしかしたら云百年ぶりとなるこぶなる丘が出来上がっているかもしれない。すごく痛がっているし。
伸ばしていた手の行き先を患部に変えて動かそうとしたが、庭から向けられる人を殺しそうな視線を受けて引っ込める。
鵠衣が暗く嘲笑った。
「穂津眞さま!」
わざとらしく憂いの色を十割り増しに乗せて、甲高く叫び鵠衣が縁側に駆けてくる。
「大丈夫ですか?」
鵠衣が廊下に四つん這いで上がり、穂津眞の頭に触れようとするが、それは彼によって制された。
「いや、大丈夫だ」
頭を緩く左右に振り、ついている膝を軸にくるりと体の向きを変え玄関に通じる廊下に視線を据えたようだった。正確には玄関向こうから大物然と闊歩してくる袴姿の青年にだろうか。
「晨都」
地を這う声とはまさにこのことだろう。いつも闊達で溌剌としている穂津眞が、相手を嗜めるときに発する稀有な声音。私自身、耳にしたことは片手の指で足りるくらいの回数だ。最後に聞いたいのは、稻坐の神さまが祭りにかこつけて、深酒をした時だったと思う。まあ、いくら人には見えないからといって酒瓶を抱えて拝殿内で寝こけているなど、母と慕っている者からすればいい心地はしない。四十七大社の祭神を捕まえて正座の上で説教する神もそうそういないと思う。
そんな椿事でも起きない限り発せられない穂津眞のレアな声音に当主はもちろん、鵠衣ですらギョッとしていた。私もビックリした。
「晨都さん! 一体何をなさるのですか!」
穂津眞のただならぬ様子に鵠衣が狼狽えて立ち上がり、現れた青年に怒声を浴びせる。
しかし現れた青年は意に介した様子もなく、鵠衣には目もくれず、黒い切れ長の目を半眼に穂津眞を睥睨していた。ハーフアップにした黒い髪を面倒くさそうに掻いている。
盗み見たその美丈夫は、一見して水気をまとっているのが分かった。
彼は、他領域の大社に囲われている『寵児』だ。
「なんで俺はお前に威嚇されなきゃならんのだ、穂津眞。わざわざお前を迎えに行った俺を置き去りにしたくせによお。少しは悪びれて詫びの一つでも寄越せや」
穂津眞の近くに転がっていた水晶玉がぷかりと宙に浮いたかと思うと、鋭い三爪を携えた両手がハシっと掴んだ。
なんだと思っていたら、ぬっと私の視界に入り込んできた——なんだろう、これ。アクアマリンのような透明な水色のまん丸まなこ、雌鹿の如きひょっこりとした丸角が耳近くにあり、蛇に長い一対のヒゲと首回りに長い立髪をはやした相貌、けれど手足があるから蛇ではなく。そして全体的に青い。
それは、私を愛くるしいまん丸まなこで見つめてきて、可愛らしく首を傾げた。
竜である、これは小さな——といってもニシキヘビくらいはありそうな——竜である。
竜が私の体を一周し、青年の方へ空を滑っていった。
「晨都さん! あまりな言いようではありませんか! いくら穂津眞さまのご友人であれど、無礼がすぎます!」
鵠衣が食ってかかるが、青年はなんのその。小指で耳の穴をいじっている。これが『寵児』と『寵児候補』の格の違いなのだろう。当主も苦々しい顔をしているだけで黙するに徹している。話を聞く限りでは、青年は今回の儀式に穂津眞を引っ張り出すため、花森が招いた賓客、無碍にはできない存在に違いない。
この場で彼に物申せるの穂津眞ただ一人となるのだが——。
穂津眞はゆっくりと立ち上がった。そして晨都に静かに近付いていく。
当主と鵠衣はすごくそわそわとして落ち着きがない。一触即発を恐れているのかもしれない。私が顔を上げているどころか、層々たる顔ぶれの中で唯一座っていることにすら気づいていない。足を崩しても気づかないかもしれない。やる勇気はないけど。
穂津眞が青年の元に辿り着いた。
当主と鵠衣が息を呑む。小さな竜が青年の頭に水晶玉を乗せ、前足で押さえつけている。床につきそうな尾が左右に揺れている。
だから私には確信があった。これはじゃれ合いにも満たない、冗談だ。
「痛かったんだよ。許せ」
「置いて行ったことに関しては?」
「それも悪かったって」
案の定、二人の声に棘はなかった。青年は呆れているし、穂津眞は苦笑している。あからさまに肩から力が抜ける当主と鵠衣。
小さな竜が臨戦体制に入っていないのだからそこまで心配する必要もないだろうに……、もしや見えていないのか。
「しかし気分が悪い。俺はここで飯を食うわ」
「はあ?」
「どういうことでしょうか?」
穂津眞に続き当主が疑問を投げる。
青年は肩を上げると、ここにきて鵠衣を横目に睨みつけた。鵠衣がびくりと震える。
「俺は所詮よそ者だしな。そっちのお嬢さんと花見をするっつってんだ」
思い出したように全員の視線が私を向く。慌てて頭を下げる。
私の視界に小さな竜が仰向けの状態で滑り込んできて、水晶玉で遊び出す。アザラシっぽくて笑いそうになるからやめてほしい。
「しかし、晨都さんは我ら花森家の客人。こんな端女ではお相手に不相応で」
「言っとくがな、俺は稻坐大神の反転を許したわけじゃない。今日は怠け者の尻を叩きに来ただけで、正直、今すぐ帰ってもいいんだぞ」
会食までが青年の予定に組み込まれているのだとしたら、それ以前に変えられるのは招待した側の失態を意味する。
四十七大社の守り手一族最大の屈辱を引き合いに出され、これ以上の不名誉をこうむりたくない当主は唇を噛むしかなかった。鵠衣でさえ口答えできないことの重大さ。
当主が苦々しく言葉を絞り出した。
「……こちらに膳をお持ちします」
ご指名いただいた私は頭を下げなければならないのだろうが、小さな竜が邪魔だ。遊ぶな遊ぶな小さな竜。寝っ転がったまま水晶玉を頭上に置いて、我のお腹に頭をダイブしてもいいよポーズをしないでほしい。大社の眷属にダイブできるか、可愛いすぎる生き物が。
「粗相はするな」
強く命じられ、無意識に体が強張る。私の体が私の支配を離れる。頭が見えない手に押され、ジリジリと下がる。しばらくもしない内に、私の頭は案外柔らかかった小さな竜のお腹へダイブしたのだった。
「帰りに稻坐さまの所に寄りたいから、そん時はよろしくな、穂津眞」
楽しそうな青年の声。一人分の足音が近づいてくる。足音に舌打ちが紛れて聞こえた。流石に誰のものかまでは分からなかった。
「さあ、穂津眞さま。参りましょう」
勇気を持って冷え切った空気を裂く鵠衣の明るい声。遠ざかっていく二人分の足音。一人分が穂津眞のものであると思えば少し寂しかった。
「つぐみ、くれぐれも」
「はいはい、当主サマも忙しいでしょ。どうぞ、引き取り願います」
当主の言葉を遮り、青年が牽制する。
いつの間にか、私の顔の下から小さな竜がいなくなって、代わりに頭上から冷気と湿気が降り注ぎ、大気の揺れる音がする。
これが竜の威嚇なのだと本能で悟った。
威嚇ばかりは見えたのか、見えずとも動物の本能か、当主は「しばしお待ちを」と言い捨て、ドタドタと足音を響かせ足早に立ち去った。
残された私と青年、そして小さな竜。
「はあ、つっかれたー」
青年が私の前であぐらをかき、にわかに私の頭を二度叩く。
すると強張っていた体から力が抜け、息がしやすくなる。普通であれば術者が離れたとて多少の束縛が残るのだが、それすらも感じない。心身ともに軽快だ。『寵児』すごい。さすが、大社の神様の加護を誰よりも強く受けているだけのことはある。
「楽にしていいよ」
先ほどよりも柔らかい口調だ。意地悪の色や悪戯を考えているような風もない。口元には優しい笑みが浮かび、黒い目に喜色が乗る。
私はおずおずち頭を上げ、居住いを正した。
「初めまして。四十七大社が一社、
そう言って晨都は頭を下げた。
慌てて私も頭を下げて、名乗ろうとして、声が出せないのだと思い出す。しかし、名乗らないのは失礼に当たる。
私は帯に挟めていたメモ用紙とペンを取り出した。この人ならば『八重』を助けてくれるかもしれないと思ったのに、体が自然と記したのは『つぐみ』の名前だった。歯を食いしばる。ペンをギュッと握り、メモ用紙を晨都に差し出した。
「やっぱり口がきけなかったのか」
晨都がメモ用紙を手にしながら顔を上げる。彼の言葉に私は全力で首肯する。
「言霊使いの一族で『つぐみ』なんて酷い名前だと思ったんだ。『寵児』競争の関係か?」
それはどうだろうかと首を傾げる。
私を『寵児』にとは稻坐さまも穂津眞にも言われたことはない。周囲の大人たちも鵠衣を『寵児』に据えようと目論んでいて、実際に稻坐さまや穂津眞もなんだかんだと鵠衣も可愛がっていた。稻坐大社の『寵児』は鵠衣でほぼ確定と候補の子供たち間でも噂になっていたのだ。
晨都は膝に頬杖をつき私を見つめる。
「でもさ、つっちゃんはどこかの『寵児』だと思うんだよ。コイツが見えるわけだし」
小さな竜が晨都の肩に足をちょこんと乗せて小首を傾げる。水晶玉は長いしっぽが包んでいる。本当にあざと可愛い生き物だな。お前が見えれば『寵児』になれるらしいよ、あざと可愛い生き物。
ところで『つっちゃん』とはなんだろうか。
私の疑問に気づかず晨都は唸る。
「ねえ、つっちゃん。どこかの大社の『寵児』になって保護してもらいなよ。大社の守り手一族でも、他領域の『寵児』には手が出せないんだしさ」
『寵児』になれば、『寵児』の保護はその大社の義務となる。これは国が定めた法でもある。
何せこの国は迷信でもなく四十七大社の大神の加護で成り立っているのだ。大神の怒りはそのまま国難へと直結する。ゆえに、大神のお気に入りを作り、大神に仕えさせることでご機嫌を取り続けるのが『寵児』というシステムだ。しかし、『寵児』を設けるもそれをないがしろにしてしまえば、それも大神の怒りとなるので、諸刃の剣と言えなくもない薄氷のシステムでもある。
私は首を振り、メモ紙に文字を走らせる。
『外に行けない、行くところもない』
父母を事故で亡くした私は花森の預かりである身。母方の身内はおらず、父方の身内は花森一族の分家筋で本家には逆らえない。そりゃもう率先して私をいびり倒す。まあ、駆け落ち同然で村を出た父が悪いと言えば悪い……のかな、うーん、とりあえず愛は偉大だ。
それはいいとして、外に出ても行くところがない、お金もない、頼りもない。身一つで出たところで野垂れ死にとなるのが関の山。
それに『寵児』になるとは、言うは易く行うは難しなのである。何せ大神のご指名制。由緒正しき血筋からというしきたりでもなく、突然出向いて「『寵児』にしてくださーい」と立候補してなれるものでもない。
完全に大神の趣味である。嗜好である。清廉潔白のきらいはあれど、最終的には大神それぞれのどストライクゾーンに滑り込めた者勝ちである。だから、大神の趣味嗜好を熟知した守り手一族が『寵児』を輩出しやすいと言われているのだけれどもね。
なので、晨都の言うような『寵児』の素質なるものがあったとしても、大神のどストライクゾーンを外してしまえば、『寵児』になることなど絶対にできない。性格が固定されてしまっている私のような歳ではほぼ絶望に近い。
「それならさ、俺のところに来ればいいよ」
何ら問題がないと言った顔で晨都は言う。むしろ、名案とばかりに目を輝かせる。小さな竜も同意とばかりに尻尾を上下にパタパタ動かす。
『岡見大社?』
「いや、違う。俺が通っている学校。『寵児』が唯一通える学校だ。『寵児』同士は仲がいいから、つっちゃんも馴染めると思う。なにより俺たちは『寵児』仲間を増やしたいから、『寵児』不在の大社の情報なんかが入りやすい」
まあ、大社一社につき『寵児』はだいたい一人だから、四十七人しかいない同志だからね。少しでも気持ちの共有をできる友が欲しいよね。ひとりぼっちは嫌だよね。
けれども、である。
『お金がない』
年中無休、最低限の衣食住を備えた無給を舐めてはいけない。貯金なんぞできるわけもない。
「大丈夫、あそこ大社の紹介があれば特待制度を使えるから。うちの大社で出させる」
『学もない』
「大社の紹介だと能力に応じた学年に振り分けられるから。子供の中に混じりたくないなら、編入試験まで俺が勉強見るよ」
『当主が』
「うちの神様の権力使って黙らせる」
そこまでして『寵児』仲間が欲しいのか。
『話せないし』
「今みたいに筆談ができるだろ。それにここから離れたら声が出せるようになるかもだし、『寵児』になればそれこそ言霊の縛りなんて消える可能性が高い」
声が出せるようになるというのはとても魅力的だ。もう一度、話せるようになれるというのは何度も夢見たことだ。けれど、それはこの地を離れてどこかの大社に行くということで。それは、それはちょっと——。
何か言い訳をと考える私に、晨都は溜め息をついて下から覗き込むように見上げてきた。
「てかさ、つっちゃんは何が怖いわけ?」
黒曜石なのような鋭い閃きのある目に見据えられ、考えていた言い訳がどこかに飛んだ。代わりにぷかりと浮かんできた気持ちはなんなのか。
少しだけ震えるペンで文字を書く。
晨都の目線が文字を追う。目がおもむろに見開かれていく。最後の文字を書き終えるころには、顔を合わせてから見たことのないニヤケ顔になっていた。
私は悟った。これは恥ずかしい、と。
「おーい、ほーつーまー」
私が咄嗟にメモ紙を握り潰すのと同時に、晨都は体をそらせ虚空に向かって声を上げた。
「呼んだか?」
秒とかからず穂津眞が晨都の背後に、何故か膳を持って現れた。お使いか、それでいいのか、神様。
「早くない?」
さしもの晨都も驚いた様子。
「暇だったんだ」
膳を差し出して穂津眞が愚痴りながらあぐらをかく。居座る気か。早く戻らないと当主か鵠衣あたりが突撃してきそうで怖い。
「珍しく辛辣だな」
「八重のこと考えてたらじわじわとイラついてきてた」
その言葉に私の胸はチクッとした。『八重』の名前が出た時は嬉しそうにしていたが、あれだろうか、再会した時は嬉しいけど思い出語りしていく内に当時の感情まで蘇って険悪になっていく幼馴染みなのだろうか。私は穂津眞に何かしただろうか。穂津眞でなくとも稻坐さまに粗相でもしただろうか。
俯いた私の頭を晨都が撫でる。小さな竜が私に頬づりしてくれる。
「お前、また引きこもんなよ」
「リハビリ期間中に思い出しちゃった俺の気持を考えて」
ますます俯く私。
「ほら、お前が怒るからつっちゃんが委縮しちゃってんじゃん」
「つっちゃん?」
「そう、つっちゃん」
つっちゃんで固定されそう。というか、穂津眞に叩き落されたというのに、まして私の本当の名前でもないうえに短縮形であるのに、彼に呼ばれて認知されたからなのか、チクチクした心がちょっとホッとした。ちょろいな私の心と、頭の片隅で理性が笑っている。
「でさ、つっちゃんが学校行きたいだって」
「学校?」
「そ、俺が行ってるとこ」
目線だけ上げて窺い見た穂津眞の眉がピクリと跳ねる。
「後見はうちの神様に頼むんだけどさ。ほら、俺の学校ってここの地域の人いないだろ? つっちゃんが不安がってさ」
そんな話はしていない。そもそも行くことすら了承していない。確定事項にしないでお願い。
晨都をジトっと見ても気付いてくれない。いまだ私に頬づりしているあざと可愛い小さな竜よ、お前の主人を止めてこい。
「だから、お前も俺の学校に来いよ」
「……俺、一応神なんだけど」
そこは自信を持とうよ、瀞之社の神様。
「お前だって知ってんだろ? あそこの学校は摂社末社の神様やら眷属やらが『寵児』スカウトのためにうろうろしてんの。稻坐さまは『寵児』不在だし、丁度いいだろ」
「金ないし」
「流石に神様から金は取れねーだろ」
「学ないし」
「いや、神様相手に一般学生みたいな生活求めてねーから。つか、お前ら二人揃って同じような理由で断ろうとするな」
不意に穂津眞が私を見る。目が合うとふりゃりと笑った。
面食らった。当主たちがいた時とは違う、気の抜けている笑顔は離れていた過ごしていた幼馴染みに効く。
「なによりよ、つっちゃん、声が出せないっぽいから、お前がサポートしてやれよ」
「声が出せない?」
「ずっと筆談してた。それに名前がなあ」
晨都が穂津眞に耳打ちをした。穂津眞は目を開き、すぐに眉間にしわを寄せ、悲しそうに目を伏せた。なかなか顔を上げない彼を慰めるように、晨都が彼の頭を軽く叩く。
穂津眞はしばらく黙りこくっていたが、晨都がもう一度何かを囁くとようやく頷いた。
そして、顔を上げて私の顔を見たかと思うと、居住まいを正し、ほんのわずか、気持ち程度であるが頭を下げた。
神が、人間に、頭を、下げた。
それをされたら人間はどうするべきか。そんなもの、土下座一択である。幼馴染みなんて関係ない。
「俺も学校に行ってみたいと思ってしまった。申し訳ないが、よろしく頼みたい」
神様に頭を下げられてまで頼まれてしまった人間はどうするべきか。そんなもの、了承の一択しかないではないか。外堀を埋められるとはまさにこのこと。
学費、能力、後見の問題をすべて肩代わりする。
そして何よりも重要なのが、『穂津眞の傍を離れたくない』という難問を、こうもあっさりと突破してくるとは。
家を出られるかもしれないという希望、また穂津眞と一緒にいられるかもしれないという高揚、未来が少し見えなくて覚える恐怖、いろいろな感情がぐるぐると回る私の耳に、きっと私の運命を変えるであろういくつもの騒がしい足音が近づいてくるのだった。
ここから始まった物語 青井志葉 @aoishiba
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