第50話 二人のダンス
(……え……、えぇ……っ?!)
殿下のその言葉に、近くにいた人々の話し声が一斉に止み、辺りがシンと静まり返った。皆がこちらに注目している。
「セ、セレオン殿下……っ」
頭が真っ白になる私に、殿下はあくまで優しく微笑んだままそっと手を差し伸べてくる。……う、嘘でしょう?私が、ここで踊るの?こんなに大勢の高位貴族の方々や王族の方々が見ている前で、この私が、セレオン殿下と……?
どうしていいか分からず、私はゴクリと喉を鳴らすと思わず周囲の人々を見渡した。
「ミラベル嬢。大丈夫。……私を信じて。君に恥をかかせるような真似はしない」
私が萎縮しているのを悟った殿下が、小さな声でそう囁いた。……ここで、嫌です無理ですと言って殿下の差し出した手を取らない方が、よほどマズいだろう。逆に殿下に恥をかかせることになってしまう。
「……よ……、よろしくお願いいたします、殿下……」
「任せて」
助けを求めるように思わずそう言いながら手を重ねた私に、殿下が嬉しそうに返事をした。
心臓が口から飛び出しそうだった。こんなに大勢の高貴な人々が見守る前で、王太子殿下の手を取りダンスを披露する……。まさか、まさかこんなことになるなんて……っ!
バクバクと大きく高鳴り暴れる心臓をどうにか落ち着かせようと何度も深く呼吸をしながら、殿下に導かれるままにフロアの中央に進み出た。ああ、き、気絶しそう……。
頭の中で一人パニック状態になっている私の正面に立つセレオン殿下が、クスリと笑う。
「そんなに緊張しないで。大丈夫だから。深く考えず、ただ私のことだけを見てダンスを楽しんでほしい」
「……は……はい……」
そんなことを言われましても。
殿下のことだけを見てと言われたのに、逆に私は視線を横に大きく滑らせ周囲を見渡してしまう。すると大勢の人々に混じって、ブルーのドレスを纏い一際目立つオーラを放つオルブライト公爵令嬢の姿を認めた。
彼女は私がこれまで見てきた中で、最も鋭く憎悪に満ちた目つきで、広げた扇の陰から私のことを睨みつけていた。
「……っ、」
よく思われないのは当然だろう。ただでさえ気に食わない子爵令嬢の私が、ご自分の婚約者となられる王太子殿下のお誘いを受け、畏れ多くもダンスのお相手をしようとしているのだから。
気まずさと申し訳なさにオドオドしているうちに、音楽が流れはじめた。殿下は空いている方の手で私の腰を優しく引き寄せ、ふわりと舞うように動きはじめた。
よりにもよって難易度の高い曲で、私はますます緊張した。私が学園に通っていた期間は決して長くはない。しかも貴族専用の学園ではなく、わりと庶民的なところだったこともあり、ダンスの授業はそんなに何度もなかった。けれど、一度習ったことは完全に自分のものにしてしまうまで何度も復習しなければ気が済まない私は、その後も家でダンスの練習を繰り返した。時には父や母に相手をしてもらいながら。だから一通り踊れることは踊れる。けれど、それでもこんな大勢の前でダンスを披露するのは初めてだ。しかも王宮の大広間で。緊張するなという方が無理だ。
セレオン殿下の足を踏んでしまったりしたら大変……っ。私は正確なステップを踏むことに全神経を集中させた。
けれど、踊りはじめて少し経つと、あっという間にその緊張が解れた。セレオン殿下のリードがとてもお上手なのだ。さすがは王太子殿下。まるで宙に浮いているかのように自分の体が軽く感じられる。ステップにもすぐに慣れ、曲に合わせてふわふわと揺られ舞っているような感覚が、すぐに楽しくてたまらなくなった。
(すごい……!気持ちいい……)
「……お上手ですね、殿下」
余裕が出てきた私はステップの進行方向から目を離し、ようやく殿下のお顔を見上げた。するとその距離の予想外の近さに驚き、心臓が大きく跳ねる。殿下の美しい笑顔が私のすぐ目の前にあり、今にも触れてしまいそうだった。しかも殿下は、私のことをジッと見つめて微笑んでいる。
「……君こそ。とても綺麗だ」
(ま、また綺麗って言われた……)
ううん。今のはどう考えてもダンスのステップのことでしょう。分かってる。そんなに動揺することじゃない。
分かってはいても、澄んだ海の水面のような殿下の瞳に優しく見つめられ、その穏やかな声でそんなことを言われたら、ドキドキしないなんて無理……。一度意識してしまうと、こうして殿下と手を握り合い、腰に腕を回され、体を触れ合って踊っているこの状況が、とても恥ずかしくなってきた。やっとダンスに慣れたと思ったのに、どうしようもなく鼓動が速まり、いたたまれないような気持ちになる。
「ミラベル嬢、大丈夫だよ。とても上手に踊れている。この時間を楽しんで。……私と同じように」
赤面し目を逸らす私の姿を見てどう思ったのか、セレオン殿下は私の耳元で言い聞かせるように優しくそう囁いた。
私と同じように……。
それって、殿下も今、私とのダンスを楽しんでくださっているってことかな。だとしたら、すごく嬉しい。
「……セレオン殿下」
「ん?」
「お誕生日、おめでとうございます。……ごめんなさい、私はいつも殿下から素敵なドレスを贈っていただいたりしているのに、私、何も殿下にお返しできるものがなくて……。い、いろいろ考えてはみたのですが……」
殿下のリードで軽やかにステップを踏みながら私がそう言うと、殿下はますます嬉しそうに笑った。
「君から誕生日を祝福してもらえるだけでもう充分だよ。ありがとう、ミラベル嬢。こうして君と踊れて、おめでとうと言ってもらえて……今夜はまた、特別な夜になった」
「……殿下……」
どうして、そんなに優しいことを言ってくださるのですか……?
どうしてそんな、まるで愛おしい者でも見つめるような瞳で私のことをジッと見ているんですか……?
このままでは私、勘違いしてしまいそうです。
残り少ない時間、もう目を逸らすのも惜しくて、私はただ殿下と見つめあいながらその後のダンスのひと時を過ごした。やがて曲が止み、夢のような時間が終わると、広間のあちこちから拍手がパラパラと起こり、それはすぐに大きなものへと変わった。急に我に返って恥ずかしくなる。殿下は私からゆっくりと体を離すと、まるで名残惜しいとでもいうように私の指先を撫でながらそっと手を離した。
その時だった。
「とても素敵でしたわぁ、セレオン様、クルース子爵令嬢」
ジュディ・オルブライト公爵令嬢が、扇を持った手で拍手をする真似をしながら高らかにそう言い、私たちの元に進み出てきた。会場は一斉に静まり返る。皆がオルブライト公爵令嬢のただならぬ様子を感じ取っているからだろう。私自身も、目の前に現れた彼女の瞳の奥に、燃え滾るものを感じ取った。冷水を浴びせられたように我に返り、体が強張る。
「ジュディ嬢……」
「とても優雅なダンスでしたわ、セレオン様。息がピッタリで、まるで恋人同士のよう」
「そ、そんな……」
明らかに気分を害しているのが分かる。とげとげしいその物言いは冷静さを欠き、怒りを滲ませていた。
それでもオルブライト公爵令嬢は悠然と微笑み、シンと静まり返った会場内に響くような声量でこう言った。
「あなたが良い家柄のお嬢様で、教養と品を兼ね備えたお方でしたら、きっとあなたもセレオン様の婚約者候補のお一人になられていたことでしょうね。でも……、それは無理なお話だわ。だってあなたは貧しい子爵家の娘さんで、結婚歴もあるし、しかもどうやら盗みも働いているようですしね」
「っ?!……は……っ?」
ざわ…………。
オルブライト公爵令嬢の言葉に、会場が一斉にざわめき出す。私は驚いて公爵令嬢に抗議した。
「な、何を仰るのですか、オルブライト公爵令嬢……!私は盗みなどしたことはございませんっ」
「ジュディ嬢、一体何のつもりだ。自分が何を言っているのか分かってるのか」
セレオン殿下は低い声でそうたしなめる。けれどオルブライト公爵令嬢はますます声を高くした。
「セレオン様、騙されないでくださいませ。このクルース子爵令嬢はセレオン様とアリューシャ王女殿下の信頼を得、おそば近くで勤めている自身の立場を利用し、王女殿下の私物を盗み出しているようですわよ。セレオン様は常日頃から私に、身分や家柄に関係なく素晴らしい人はいると仰ってますが……、やはり卑しい身分の者には染み付いた習慣というものがあるのかしら。どうやらこの方は、あなた様が期待されているような人物ではございませんわ」
そう言うと、オルブライト公爵令嬢は手に持っていた扇を閉じ、それで私の胸元をパン!と叩いた。
「……っ!」
「ジュディ嬢!何のつもりだ」
「これをご覧くださいませ、セレオン様。この者が着けているネックレス、これはアリューシャ王女殿下の持ち物に間違いございませんわ」
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