Case2 その名はNNTR(加筆 修正版)

 夕焼け空の中一台の車が銭湯の駐車場その隅っこ、一人の女は空を眺めながら車のルーフテントのようなモノで左右を隠すことで黄昏る。ガレージを出た際には、キャンピングカーだったはずの車も今は何故か外観が普通乗用車に見た目が変わっている。そんなことを気にする必要はなく、それよりも気にするべきは彼女の右足首に巻かれた厳重すぎるとしか感想の出ないテーピングだろう。

 医科学的な要素を度外し、ただ固定かすることだけに特化させたテーピングをふと女は改めて見ずからの足首を眺めてため息をついた。

「はぁ……痛みなくなるまで行動は慎重に…か…」

 文句を垂れる女の名前は七瀬香里。

 この国が定めた曰くパーフェクトなNTR推奨政策、それに反旗を翻したは良いモノのこうも出鼻を挫かれればため息の一つも出るはずだ。

 ずっと望んでいたこの政策の破壊、その鍵を見つける為の名誉の負傷といえば聞こえはいいが実際は氷道で足を挫いただけの、うっかりさん…どうしてこうなった、それを七瀬香里は思い返す。


 ガレージを出てからすぐの事だ、運転をしながら体に纏っていたTMNスーツの加圧が徐々に抜けていくような感覚を覚えたと思った瞬間に鈍痛が七瀬の体に走った。

「っ……」

 この車がキャンピングカーという所為もあるのか、無駄にパワーがあるような気がし、そして車体そのものの車高の高さも加味された感覚的な加速力もあったのかもしれない、だがその痛みによって自身に対する危機感を感じたのだろう、躊躇いなくブレーキを踏む。

「あっぶな……っつつー…どうしていきなり、さっきまでこんな痛みは……っつぅぅ…」

「七瀬さん、どうしたんですか?」

 痛みに耐えながら急停車した車を草場に乗り上げる形になってしまうが路肩に移動させ、ハザードを焚きながらゆっくりと停車させる。

 ここが都会などではなく、最北端の街その郊外で本当に助かったと私は胸を撫でおろすがそこでも違和感が現れる、手がストンと落ちないのだのだ、まるで行き止まりを示すバリケードがある様に、ふと思い返すとそれは自分の胸ではなくパッドなのだから嫌になる。

 少しだけ癇に障るが、精神を抑制させシートを後ろに引かせ助手席に素足を乗せる。

「腫れてますね」

「腫れてるな」

 私も遠野も声を揃えて言う。その言葉通りに腫れている、それはまぁ見事に。TMNスーツのボディラインを示すような加圧が抜けた瞬間に、まるでそれまで忘れていた痛覚という感覚を思い出したかのように一瞬の激痛が走っただけで、案外今は落ち着いている。

「運転に支障はありそうですか?」

「いや、この程度動く分であればテーピングでもしておけば問題ないさ、ただこのTMN?スーツの加圧が解かれた瞬間の激痛だったから少し驚いた……とと…」

 運転席から助手席後ろの更衣室へ、七瀬は遠野夕夏を跨ぐように渡りながら、TMNスーツを脱ぐために手を触れた瞬間のことである。

「TMNスーツは常時体に密着、そして加圧することで身体能力の向上を図る機能と共に、戦闘中の痛みなどスポーツ医学に基づいた設計をされています。恐らく、そのお陰もあって七瀬さんの足首の痛みも一時的に軽減されていて、またTMNスーツはNtR材質、正確に言うのであればNtR材質を構成しているMBJ物質を組み込まれたモノなので、スーツの耐久性や伸縮性が向上し……すいません…つい」

 遠野夕夏は自身が設計に関わったという、目を閉じながらその他機能性に改めて関心するようにTMNスーツについて熱く語り始めていた。

 そんなに凄いモノであるならば雑に投げ捨ては申し訳ないと考えはしても、先ほど着ていた衣服に有無も言わせず着替えた七瀬は間違いなく、彼女の説明を理解できていない。

 私としては、ようやく恥ずかしいスーツからの解放だと思い、再び夕夏を跨ぎ運転席に戻った時に彼女は我に返ったのだろう。恥ずかしそうな表情をし黙りこけてしまうが、それを見て彼女が本気でスーツを作っていたという事をしり私は少しだけ罪悪感に苛まれた。


 遠野夕夏が語ったのは、NtR(Notoriety to Revolution)材質に、MBJ(Micro Basic Japan)物質、どちらもこの国がおかしくなってからこの国で発見されたものだ。

 遠野夕夏が言う通りNtR材質そのものがMBJ物質なのだが、NtR材質はMBJ物質を組み込んだモノ全てに当てはまる為に分けられている。

 NtR材質はこの世界において、もっとも使用者にとって安全な代物だ、何故なら下手な非殺傷武器とは違いどう使おうがその性質上、NtR材質のみで完結している武装では人を殺めることはまず不可能だからだ、下手な金属よりも強度であるのに人肌にだけは刺すことも切ることもできない代物だからだ。

「NtR材質、略称はふざけているし、正式名称も酷いモノだと思うが…」

「薬でもなんでもいい面しか出てこないなんてもの存在しません、銃よりも厄介なモノが安価で出回るんですから、世界にとっても社会にとっても、革命的な発見であると同時に、偶然でも発見してしまったという行為は、後世では悪名にもなり得ます」

 またも餌を得た魚のように遠野夕夏は語りだす、恥ずかしそうな顔から再び元気になったというのなら万々歳だが、またふと我に返ったように下を向く。

 弾丸として人に撃てば衝撃こそあるモノの人を殺せる程の威力は存在しない、それこそアサルトライフル程度の連射力で頭を撃ち続けでもしない限り、ただただ衝撃が痛いだけ。

 人肌に程度の温度に触れれば、NtR材質そのものが衝撃を吸収してしまう、吸収しきれば元に戻る、痛みだけを与える道具としては随分都合のいい道具だった訳だ。

 だがそれ故にnotorietyつまり遠野夕夏が言う悪評がある。要は銃社会でなくても安全だから持ち歩ける、そして使いようによっては最も危険性のない拷問のできる武器になり得たというのが、この名称の所以だろう。

「っとと…話を遮って悪いな続けても……続けないかそうか」

「すいません…つい…自分の得意分野の話だったので…」

「いきなり熱く語り始めたものだから少し驚いただけだ、夕夏のキャラってこうなのか?と、先ほどのコンピューターもそうだったがこういうモノが好きなのか?」

 少し罪悪感にいたたまれなくなった七瀬はスーツを手に取り、ある程度…といっても当社比だが、綺麗に畳み更衣室の中へと戻す。

「昔からこうなんです…変ですよね。好きなモノの話をされると聞いてもいないことを説明したくなちゃって…馬鹿みたいですよね…でも治そうと思っても治せなくて…」

「別にいいんじゃないか?人間はある程度何かに執着していた方がいい、それが愛でも、それこそプログラムでもこういう科学であっても」

「そ、そうですかね?」

 どんどん自己嫌悪に陥っているのか、影が差していく夕夏に対して私はその考えは違う、根本的に間違っていると言わんばかりに現実を示す。

 あのパトロンが遠野夕夏に目を付けなければ、反抗の旗を掲げるのはもっと遅くなっていただろう、それこそもうどうしようもなく手が付けられなくなってしまった頃に活動を開始していたかもしれない。

「夕夏、君が居たから今こうして反抗の狼煙を用意できているんだ、もっと自信を持て」

「七瀬さん……はい、……はい!」

 元気が戻ったようならば何よりだ、一先ずは彼女を自宅に送り届ける所から開始しようとも思ったが、夕夏の最初の目的を七瀬は忘れる所であった。

「そうだ、ネト?だったか?大丈夫なのか?君のー多分恋人だったりするんだろう?」

 夕夏に目を付ける要因となった出来事を思い出す、確か彼女は誰かを追っていた。そしてきっと私と同じように誰かに愛しき人を奪われた、そういう声を出しその声の意味を私は知っていたからこそ、私は夕夏を救うと決断した。

「あっ、音斗君は私の幼馴染で、友達の恋人で、私の恋人ではないです」

「ならどうして君は彼を助けようと?少なくてもあの時の声に嘘偽りは感じなかった」

「それは…、えっと」

 遠野夕夏は少し言いよどむ、それは何かを隠しているという裏付けにもとれる。仮にもしPNTR政策に対する認識に関わる問題ならば、彼女と一緒に行動ができなくなる。

「何か含みのある言い方だが、まぁいいか後で聞くよ」

「い、いえ。今話します、私の懺悔になってしまうかもしれないですけど…」

 話す意思はあるらしい、最初から隠し通すつもりはなかったが苛まれることをしたのか、言葉の中に嘘を入れるのか、後者は彼女の性格的に難しいだろう、故に前者と私は推測する。

「あの、私小さいときから音斗君の事が好きで、あ、こ、こんな私にも優しくしてくれるの音斗君だけだったんです、いつも皆から私みたいなオタク気質な人って疎まれることが多いんですよね…えへへ」

「好きになった経緯は大体わかった。けれど好きな人だったから助けたくなったのか?」

 話を続けながら私は運転席に移動し、シートベルトを付ける。運転に支障が出るほどの痛みではなくなったというのもあるが、黙って聞くのはなんだがむず痒い、それを夕夏も察知したのか助手席に座ってシートベルトを着用する。

「また話が逸れましたね、すいません…。えっと友達が居るんです、結構奥手な子ですが一緒に学校から帰宅していて、私はちょっと人間関係が怖くて高校は通信制にしちゃったんですけど、…あ、関係ないですよね…えへへ。…それで音斗君とその友達が付き合ったっていのを今年聞いたんですけど、…その報告を聞いた後に音斗君が風邪引いたという知らせを受けて、音斗君は一人暮らしなので通信制で時間のある私が看病してあげて欲しいと友達から…」

「友達と音斗という子には案外大きな隔たりがあるのを知って、政策を利用しようとした。だけど逆に違う存在に音斗という子は奪われたと」

「ど、どうして?わかったんですか…」

「夕夏は音斗への好意は現在進行形だと考えた、だからと言って友達も裏切れなかった、けど裏切ることのできる大義名分がこの国には用意されている、あとは夕夏の人となりからの推測だよ」

「でも七瀬さんの言う通りです、私は病床に伏せてる音斗君を友達から奪おうとしました、卑怯で卑しい女です。ほんの少しでもいいから、音斗君に振り向いてもらいたかった…、け、けど事態は思わぬ方向に進んで、音斗君は私も友達も知らない誰かに一方的に関係を奪われました、けど友達は凄く苦しんでいて、悲しんでいて、だから一瞬でも大切な友達を自分の手で苦しめようとしていた自分が許せなくて、だから!」

「わかったよ、もうわかった。これで目もとを拭くんだ、夕夏、君の想いは理解した。一つだけ私の持論を君に授けよう、自分に対する言い訳に使ってくれてもいい」

 先ほどから遠野夕夏は目から溢れるほどの涙を、自らの掌にこぼし続けていた。以前までの常識を知りながら、自分でもおかしいと思う政策を利用しようとしたこと、それに対する自己嫌悪、一歩間違えば自分が友人を傷つけていたという事実。

 自分の想い一つで自分の持っている全てを壊す所だった、それ自体を実行していない以上罪ではない、遠野夕夏の友人が苦しんでいる姿を見て、その姿を見せる原因が自分だったかもしれないと彼女は苛まれ続けた。

 自業自得と言われるかもしれないが、それでも彼女はそれまでの関係性を選び、踏み止まる事、この狂った常識の中でも友情を取る、それができる人間がどれ程いるだろうか?

 まず以前の常識を持っていなければ、行動を自分の意思で留めるなどできはしない、大体が今日の昼に出会った、政策を背に誘拐すれすれの事をしてまで望み通りにするような奴らばかり、それが今の世の中だ。

「私はPNTR政策を忌み嫌っている、けど奪う事自体は悪ではない、想い合った結果がその行動なのであれば、私はそれを悪だとは論じない。………そこに愛という感情が無いのが問題というべき?かな…」

「七瀬さんは略奪愛を肯定してしまうんですか?」

「関係なんて人それぞれだ、そこにケチをつけるつもりは無いさ。……恐らく私たちの共通点は愛を覚えている事、それだけだ。夕夏、君の行動も要は友愛と恋愛でそしてそこに対する責任を君は背負いきれなかった、だから途中で我に返った、そう私は思うが違うか?」

「そう……ですね、私は音斗君と一緒に居る事の結果で、友達を悲しませることを私は受け入れられなかったんですね私は…、……ありがとうございます、七瀬さん」

 車を移動させてからずっと俯いていた少女の顔は、ドラッグストアの駐車場を前にしてようやく前を向き始めた、打算的な行動だろうか?しかし本当に七瀬香里が思うこの世の摂理を遠野夕夏に説いたのだ、それで納得してくれたのなら何よりだろう。

 当たり前だが七瀬香里は遠野夕夏より、少しだけたった数年分だけだが人生を多く経験している、その間に導きだした持論が彼女を前に向かせたというならば、今の国じゃ誇れないような人生でも経験してきた甲斐があるというモノだ。

「そう畏まるな…っと、着いたか。夕夏すまないが湿布とテーピングを買ってきてもらっておいいか?今は流石に歩きたくないんだ」

「わ、わかりました、何かお気に入りのメーカーとかあったり?」

「無いよ、夕夏の目利きに任せるさ」

(そう無いんだ、私にはお気に入りというモノが、愛というモノを今の私には持つことが)


 テレビがアナログ放送だった頃の砂嵐を思い出す、スノーノイズのような音が車内に響き渡り、今回は液晶を通してのビデオ通話ではなく、無線として繋げたのだろう。

 恐らくは少しでも発信源の特定に繋がる痕跡を残さないように。

「趣味が悪いな、盗聴とは…それも可愛い学生の恋慕だというのに」

『だが七瀬、君も一度は彼女を疑った、その時点で私と君は共犯だよ、私は偶々居合せただけとも取れるが、君はその言葉で聞き出した、遠野夕夏にとってはどちらが嫌だろうね』

「知るか、私は夕夏が信用できる味方だと判断した、だからこそ私なりの持論を授けもした、それで言うならば、パトロンの君の方が信用はしていないからな私は」

『別にそれで構わないよ、だが他の面々もそうだが呼び名が違うのは困る、そうだな私はこれから“エイチ”そう名乗ることにするよ』

 エイチ、そうパトロンである人物は名乗った、少しは信用されるための努力ともとるべきか、こちらの情報を全て握っているにもかかわらずまだ隠す事に危機感を覚えるべきか。

 そもそもエイチとは何なのかイニシャルのHなのか、自身を叡智と自称する為か、それもこの短い会話では解りえない。

『それにしても君がPNTR政策をここまで忌み嫌いながら、略奪愛は許すというのは意外だったな、彼女の為に一つ嘘を忍びこませたのかい?』

 略奪愛、確かに見ようによってはそう捉えられるであろう。誰かの愛情を受けた存在を奪い愛し合う事、それは紛れもなく裏切りであり、私が忌み嫌うPNTR政策が推奨をしていることそのものだ、矛盾しているそう捉えられてもおかしくはない。

「夕夏にも言ったが、私は愛という決して見えないが、そこに確かに含まれる何かこそ関係を築くにあたって重要なモノだと思っている。愛が無ければ相手の本心や、本音がわかったとしても揺るぎはしない心、両者にそれが宿っているならばそれは寝取りとは、略奪とは言わない」

『愛が無ければ受け入れてもらえないと?』

「さぁな、愛した者は寝取られてしまったし、それが真実か…私はしらないさ」

 愛が受け入れる壺になってくれなければ困る、そうでなくてはならない、まるでそう言い聞かせるように七瀬はパトロンHに言葉を紡ぐ。

『我々はPNTR政策に異を唱える、よくいえば反逆者、悪く言えばこれからやることはテロリストとも変わりはしないだろう、成功したとて褒められることではあるまい……だが』

「だが?」

 それを口にしたところで言葉は止まる、なぜかは分からないが、恐らくドラッグストアからようやく遠野夕夏が出てきた瞬間に会話は一方的に終わらせられたという事、彼女には聞かせたくないらしい、確かに年端も行かぬ少女に自分たちがやることはテロ行為そのものと言ってすぐに納得できる話ではないだろうが。

「夕夏ならば納得すると思うが?殺し合いをする訳でもない」

『いや私が言おうとしてたのは、その先についてだ。君だってそう語りたくはないだろう?』

 その先、このテロリズム、このPNTR政策の破壊が成功した後の世界について、確かにそれは確認したくはない、その先がどうなるかなど考えたくもない。

 特にまだ自身に潜在しているモノが解決するとも限らない、そういう話をしている、そんな未来は考えないに越したことはない、これには七瀬も同意する事しかできなかった。

「そうか、まぁこんな事はどうにでもなるだろうさ…」

『それを言えるのは極一部の人間だけだという事を忘れるなよ……ではまた連絡する』

 プツンという無線の切れる音とともに、後ろのドアが開いた音がする。

 七瀬という人物は今どういった表情をしているのか、怖い顔はしていないだろうか?と確認も込めて後ろを見るついでに後ろを見る。

 そして思わず七瀬は噴き出した、なぜならば目の前にあるのは沢山の湿布と、沢山の種類のテーピングの山があったからだ。

「夕夏…それをどうやって消費をするつもりだ?」

「す、すいません。やっぱり肌に合わないモノがあったりしたら大変だと思って、店員さんに相談したら、アレもいいコレもいいで結局全部買っちゃいました……」

「はぁ……まぁいいか…、それじゃあ銭湯にでも行こうか、今日の活動は終了だ。ほらシートベルトしていくぞー」

「は、はいぃ、準備しますー」

 二人で利用するには広すぎるキャンピングカーではあるモノの、その一区画が既に湿布とテーピングに占領されたことに若干の不安を覚えながら七瀬は車のエンジンを掛けた。


 銭湯あるいは温泉、それに付随する大浴場で、当たり前の如く一糸まとわぬ裸体を晒す、この世界で最も気楽に気を抜いて過ごすべき場所でもあり、そしてこの世界最も無防備をさらし続ける場所でもある。

「あぁー生き返るぅー」

「そうですねぇー」

 気を抜けるからこそ力も抜ける、そのためにわざわざ人気が無くなる時間まで適当なことをして時間をつぶした、その甲斐もあってか今ここは世界で一番安全であり、そして世界で一番気を抜ける場所となった。

「そういえば七瀬さん、あの状況をどうやって切り抜けたんですか?」

「あぁ、あの時の話………あー?……デッ…」

「どうかされましたか?」

「いやなんでも」

 遠野夕夏は湯船につかりながら、足を目一杯に伸ばし、たわわに実った二つの果実をぷかぷかと浮かばせ、ずっと気になっていたと言わんばかりに聞いてくる。

 私としては、どうすれば自分よりも小さい身長でそこまで豊満な体つきになるのかを聞きたい所だが、それはいけない、聞いてはいけない大人としての矜持が打ち砕かれるといっても過言ではないのだから。どうやったらそこまでたわわに実ったかなんて聞くことは。

「よいしょっと、あぁ気にするなぬるま湯につかりたいだけだ」

「そ、そうですか」

 正面に座られては、その豊満な二つの果実にどうしても目を奪われる、なんというか二つの意味でぬるま湯につからなければ、自身の矜持も維持できない悲しい大人の姿だった。

「あれは一種の誘導だよ、よく聞くだろミスディレクションだの、なんだのと」

「なるほど視線誘導ですね、ガレージの明かりをつけることと、七瀬さんが高所から現れる二つの現象を利用して全員の視線を集めたという事でしょうか?」

「まぁそれはやったことの事前準備だな、視線誘導をすることこそが重要な訳じゃない、視線が私に向いている状況そのものが重要だったからああいう出方をしただけだよ」

「視線誘導が事前準備?視線を誘導し終わった瞬間に、何かを仕掛けている訳ではないんですか?」

 その一瞬で何かを仕掛けるには用意された時間も少ない、そしてその中で何か行動を起こすというのは、それはマジシャンの役割だ。七瀬香里という人間の役割は戦闘職、要は正面切って戦う人間である必要がある。

「私は手品師ではないからね、仕込みというのは苦手なんだ。だが相手の気を一瞬でも逸らせれば、例え私が女であってもその一瞬隙は私を確実に有利にさせる。夕夏君が聞きたいのは、この私を有利にさせたその情報だろ?」

「そうです、それが視線誘導を用いた不意打ちだと思ったんですけど…」

「まぁそれはお風呂をあがってから話そうか。夕夏はまだ入っていていいからな」

「は、はい。もう少し体を温めさせていただきます」

 ぬるま湯につかっているのも、そもそもお湯につかっているのも、もういい時間になった。裸一貫で語り合うのはここまでと七瀬は決め、湯船から立ち上がる。

 タオルで汗を落とし、濡れた髪から水滴がしたたり落ちていく様を、浴場の鏡は写している、なんとも遠野夕夏に比べると貧相な体だ。

「七瀬さん、す、凄いくびれですね…肉付きの良い私とは全然違います…、髪も癖毛一つない綺麗な髪…憧れます!」

 くびれを際立たせるボディラインに、ストレートで綺麗な髪、誉め言葉としてはこれ以上ない、だが実際はペチャパイ、尻でか、インナーマッスルでウエストを絞ることでくびれを作った、無いものなりの魅せ方というのが真実である。

「ははっ、こっちも君の体には憧れる部分ばかりだよ」

 お世辞無しで言っているのが余計に心を抉る。それを肉付きと言ってしまえば世の女性は全て太り気味、否デブと言っても過言ではなくなる、どうしてそこまでのモノを持っていて遠野夕夏本人は自分に自信が持てないのか分からない。

「……?」

「いや天然か、…そうか…」

 なぜ憧れているのか分かっていないそれに対する反応を見て私は納得する、何とか胸を槍一本で貫かれるだけの致命傷で済ませる。

(いや考えるのは止そう、もっとダメージを負いかねない。あの純粋さは、時に暴力だな…)

 この致命傷も二つの果実があれば…あるいは…。なんてあり得もしない、たられば論を心に想いを馳せ、想いとは異なり真実を写す鏡から逃げるように私は浴場をあとにした。


 そうして何故か外見上は普通乗用車にルーフテントがおかれた状態になっている、先ほどまで確かにキャンピングカーであったはずの天井で夜空を見ながら、七瀬香里はテーピングによってぐるぐる巻き固定された右足を伸ばし、遠野夕夏を待っている。

「夕夏の奴、風呂長いなぁ」

 星空を眺めるにもいい加減飽きが出始めた、綺麗な物を綺麗だと認められるのは美徳だと思うが、綺麗だと思い続けるのは少し難しい。

 それは物でもなく人にも当てはまる、好意を抱くのも抱かせるのも簡単だ、けれどその好意を継続させるのは、さまざま要因が必要である、見た目など目にわかる外的要因、そして性格など関われば確実に感じることになる内的要因。

「すいません、お待たせしました。いま上に行きますねー」

「……っ、夕夏まだ来るな!」

「えっ?」

 不意を突かれた、体もぽかぽかと温まっていたからこそ気を抜いていた、それが仇となることを私は再三と経験してきているはずなのにもかかわらず、気を抜いてしまっていた。

「その目…………ヘブシッ」

「ふぅ…間に合った」

「え、いや、どういう事ですか?いきなりビンタされたんですけど、私何か悪いことしてしまったでしょうか?」

「いや、夕夏は悪くない、悪くないんだが、あの状況になるとああするしかないんだ」

 このいつの間にか変質してしまった左目を直視するというのは、ビンタの一発で一度信頼関係をリセットする可能性があったとしても互いの為には行わなければならない。

 遠野夕夏という人間が七瀬香里に魅入られてしまえば、それこそ一貫の終わりだ。この組織を崩壊させる原因にもなりかねない。

「タブレットのカメラで私の顔を写すようにして、私を見てくれ」

「わ、わかりました」

 夕夏はなぜビンタされたかもわからないまま従う、少し涙目な姿を見るのも心苦しいがそのための説明の為にもいう事を聞いてくれなければ、その行為の説明もできないから。

「七瀬さんの左目…瞳が凄い真っ赤になって…、それが私をビンタした理由?なんですか?」

「そうだ、この瞳を直視するとなぜだか相手は私に好意を抱く。元々人に好かれる顔はしていたと思う。だがPNTR政策が施行され、そしてその中で過ごしていく内に左目が徐々に変色して、こうなっていた」

「その瞳こそが、七瀬さんが先ほどの戦いで、一瞬の隙を生み出せた理由なんですね…でもどうしてそんな風に?」

「それはわからない、だが夕夏にも何かないだろうか?政策が施行されてから、自分の身に起きた異常のようなモノが」

 この瞳も最初は右目と同じで普通だった、だがいつからかすれ違いざまによく振りかえられるようになり、そしてこの瞳に色が付き始めた頃をきっかけとして、それらは魅了されたかのように執着を始めた。見知らぬ人に言い寄られたり、見知らぬ人に追いかけられたり、政策を理由に近づこうとする輩が多くなった。

「夕夏も先ほど私に魅力を感じたのではないか?どちらかと言えばこの目にかもしれないが…」

「確かに一瞬我を忘れたかのように心臓が跳ね上がるような感覚を、胸がときめくという感じだったかもしれません」

「それがこの目に宿る力なんだと私は考える、相手に強制的な好意を抱かせる現象、そこに愛なんてないただの執着という結果を残すのがこの瞳だ」

「そう…だったんですね、でも昼間大丈夫だったのはどうしてなんでしょう?」

「あぁそれはコンタクトをしているからな、ただのカラコンのようなモノだがパトロン…いやHと言うんだったか、そいつが送り付けてきたコンタクトをすれば、外して直視でもされない限りは……この通り、多分直視しても大丈夫だ」

 ケースからコンタクトを取り出しつけてしまえば、両目とも普通に戻る、オッドアイでもなんでもない日本人によくある目に戻るだけだ。

「確かに、今は先ほど覚えた高揚感はなくった気がします…」

「それより悪かったな、いきなり頬をビンタしてしまって」

「い、いえ、返事を待たずに上った私にも非がありますから…、それと七瀬さん…」

「?どうしたんだ、改まって正座なんかして」

 こちら向きに正座をし、遠野夕夏は何かを話そうか悩んでいるようにもみえるが、だがそれはきっと彼女にとって打ち明けるのが辛いことなのかもしれない、故に彼女の口は開いても言葉を発することができていない。

 そして不意にその時は訪れる、聞き覚えのあるコール音が車内で鳴り始め、応答の有無も聞かずにその会話は始まった。

「あ、あの!」

『いきなりで悪いが、急用だ。多少の無礼は許してもらう、…この北の地にもう一人の同志と思われる存在が見つかった、そこで君たちにはその同志の調査と、そしてNNTRへの勧誘を行ってもらいたい』

 遠野夕夏の決意はパトロンであるHの通信によって妨害されてしまう。

 内容が内容なだけに、今話しを戻す訳にもいかないのか、遠野夕夏は真面目にHの話を聞いている、恐らく今はその時ではないのだろう、いつかちゃんとした機会に改めて聞くべきという事を胸にしまい、Hに疑問を投げかける。

「本当にいきなりだな…、私たちに探偵みたいな事ができると思うか?」

「あ、えっと、その…Hさん?の見立てでは北海道では私と七瀬さんの合流だけで終わりだという話ではなかったですか?」

「そうなのか?」

『……そうだ、そのはずだった、だがしかしその異名でまさかこちら側の存在とは考えもしなかった私の落ち度でもあるが、恐らく彼は紛れもないこちら側の存在だ。私が気づいたという事は、遅かれ早かれ彼がKDKにもバレる、故に私たちが先に彼を確保する』

 おっちょこちょいで見逃すのは、どうなのかとも七瀬は思うが、それだけイレギュラー的存在だったという事であろう。

「まぁその件は分かった、それよりも聞きたい事があるいいか?」

『なにかな?』

「NNTRとはなんだ?」

 私と夕夏はその液晶に映し出されたNNTRという字を、恐らく凄い覚めた目で見ているだろう、それほどまでにセンスが無さすぎるのだ、本当に。

「それ私も気になっていました、NONTR政策って感じなのかなって思いもしましたけど…、システム名にも組み込まれているので、組織名なのかなって」

 ノー寝取られ、確かにこの寝取り、寝取られを推奨しているような政策への反抗の意思として納得がいくものかもしれない。

『…話してなかったな、NNTRとはNo Nexus Truelove Resolute。要は繋がりのない愛など認めないという決意表明だ。私がこういうのに憧れたというのもあるのだが、パーフェクトなNTRに対する否定としては良くないか?NNTRという組織名……は…』

「まぁ人のセンスは否定する気はないさ…ははっ」

「い、今の政策に反抗する勢力が繋がりを語るのは自虐な気も……、な、なんでもありません、すいません…ふふっ」

 Hという彼が作った組織なのだから、私が否定することでもないし組織名など外交上必要になる記号でしかないのだ、ある意味どちらにも皮肉な気がするが、それを考えるのはこの組織名と相対した人物達でいい。

『…コホン…、まぁいい確保するべき人物の情報を伝える。雷(らい)道(どう)翔(しょう)、東日本伝説の間男という名の異名を全国にまで轟かせているとも言われる、ある大学1年生だ。彼の通っている大学と住居の住所を送る、恐らくリミットは一か月、頼んだぞNNTRよ』

 そうして言いたい事だけ言い放ち、Hは通信を遮断する。

 こちらとしては開いた口が閉まらないというのが現状だ、間男とは私たちがこの世で一番相反するべき存在ではないのか?それがこちら側というのは…。

「そもそも東日本伝説のって……聞いたことないが?」

「私は名前だけなら聞いたことがあります」

「あるのか⁉、あのHの妄言ではなく⁉」

 ネットワークにも通じている夕夏であるからこそ知る機会があるのかもしれない、そもそも彼女がそういう噂話を知っているというのも驚きだ、それこそ二重の意味で。

「噂では確かに2年前、西日本最大勢力間男の領域である大阪で100人以上を寝取ったって…」

「100人寝取ったってなんだよ…、そもそもその二年前って高校生らしく修学旅行で大阪行っただけなんじゃないか?」

「他にも壁ドン一つで、狙った相手の心を堕としてしまうとか…でもこれって」

 ピクリと七瀬はその一言に反応する、狙った相手の心を堕としてしまう、この一言がなければそんな指令、面倒だと言いながら雑にこなしていたかもしれない。

 だがその一言は私を動かすには十分すぎる一言だった。

「夕夏、情報収取の用意を!」

「は、はい!」

「探るぞ、雷道翔の正体を!」

 急いで運転席に移動し、そしてエンジンを掛ける、もし七瀬香里と同じ力を持ち、それを悪用しているならば止めなければならない。それは破滅に向かう力だと彼女は知っているから。

「これがNNTR最初の作戦だ!」

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