第5話 漁師
潮風でなびく前髪を押さえて隣を見ると、彼は夕日が溶ける海面を眺めていた。小さく深呼吸してみると磯の香りが生臭く満ちてきた。
「実は俺、漁師になるのが夢だったんだ。親父が漁師でさ、小さい頃は親父の船で沖釣りに行ったり海岸で釣ることもあったかな。……かっこいいんだ、親父は。こうやって斎藤と海の匂いを嗅いでるとちょっと変な感じがするな、いつも隣には親父が居たから」
「そうなんだ、じゃあお父さんはもう……」
沈黙の間に波の音が一度鳴った。
「え? あ、違う違う! 死んでないよ! 今そんな感じに聞こえた?」
「あ……! ごめん! 勘違いしちゃった」
「ただ海を見てたら小さい頃が懐かしくなって、それでちょっと感傷に浸っただけ! 親父超元気だよ、昨日も怒られたし」
拗れた話に思わず吹き出す。あまりに大きな声で笑ってしまって、散歩中の犬とおじさんが同時に同じ顔で振り向いた。恥ずかしくなって二人の笑い声は鳴りを潜めた。
昨日と同じく、陽が沈むと同時に手を振った。
浮き足立って帰る道は暗くなかった。太陽が沈んで、代わりに月が主張を始めても自分の半径十メートル以内が明るく感じた。
家の扉を開けると先程感じていた爽やかさとは打って変わって禍々しい空気が漂っている。恐らく妹と母が取るに足らない喧嘩でもしたのだろう。吸い込んだ潮風は口から出て行ってしまった。
「どうしたの」
キッチンの換気扇の下で紫煙をくゆらせている母に尋ねてみたが、なんでもないわよ、と煙草の火と一緒に揉み消された。それ、晩御飯ね。と指さされた先にはチェーン店の牛丼が置かれている。
「そう、ありがとう」
機嫌が悪い時にはあまり口出しせずに潜伏しておくのが一番良い手だ。そのまま二階に上がると——勝手に入るな——と書かれた扉をノックした。特に返事はない。
「入るよ」
中に妹は居なかった。喧嘩して飛び出して行ったのだろう。乱雑にばら撒かれた宿題や制服が部屋を埋めている。これまで何度も同じことがあった。また帰ってきたら話を聞こう、と考えて扉を閉めるのは何回目だろうか。
チープなご飯を済ませて、沈黙の家から逃れるように両耳にイヤホンを付けた。馬鹿らしいほどにポップな曲調で幸せの歌詞。こうあってほしいと願いを込めて書かれたであろう歌詞は、恐らく一番届いて欲しい人の元には届かない。
希望と絶望では水深が違いすぎる。同じ海の中で二つが相関していても、光が届く深さとそうでない深さでは全く別の意味を持つ。
ぐるぐると思考の渦に飲まれていると、そのまま気付かぬうちに眠りに落ちていった。
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