2-7 誰かがハズレを引いても、私は死ねない

 六本木ネフで好みの食器が見付からず、2人は次に六本木スカイタウンへ移動した。



 ここも六本木の地下空間にかつて存在した複合施設の生まれ変わりだ。


 ペデストリアンデッキの、歩行者通路の両脇に色んなお店がズラズラと並んでいる。



「ここはとても食べ物の匂いが……」

「こらこら」



 すんすんと鼻を鳴らす奈々美と、それをたしなめる結衣。



「だって、お腹空いてきたんだもん」

「まだ11時じゃん」

「時間は関係なーいーのー」



 結衣と奈々美だけじゃない――ここに居る人々は皆、穏やかな表情。


 友達同士、カップル、親子連れ……様々なカタチの幸せが溢れている。



(これが、日常かぁ)



 心の穴を埋めるように、自分を追い込むように……そして何かに追われるように仕事を詰め込んでいた結衣は『日常』を忘れていた。




 知っていたハズだし、経験したこともあるハズ。それなのに、今の結衣にはとても『特別』なものに見えた。



「ねぇ、結衣。こういうのも悪くないでしょう?」



 まるで心を読んだかのようなタイミングで、奈々美が優しく言う。



「そう……だね」



 ビル風が急に吹いて、2人の髪を弄んでから通り過ぎて行った。


 周りの人達はその風に顔を背けたが、結衣と奈々美は、わざわざ風の方を向いた。




「奈々美……私さぁ、こういう……いわゆる日常って自分には体験する権利が無いんだと思っていたのかも」

「こういうのはね! 権利とか義務とかの枠から外れているのよ。当たり前に享受していい、当たり前なの」



 奈々美は結衣の手を強く握る。


 その手の温もりは、結衣の心のドアを開けるカギのようだった。



(奈々美がそう言うのなら、きっとそうなんだろう……)



 奈々美と出会って劇的に変わっていく結衣の世界。


 でもそれを、奈々美は『普通のこと』『元に戻っただけ』と言ってくれる。


 結衣はそれをひたすらに信じて受け容れる。



「……よし! じゃあこの辺でお待ちかねの、お昼ご――」



「キャアアア!」



 女性の悲鳴がビル群にコダマする。


 結衣と奈々美、それとそこに居た全ての人の平穏を切り裂いて波及する。



「ひったくりだ」



 声の方を向くと、男が女性の手荷物を奪おうとして、引っ張り合いの様相だ。



「や、やだっ! 離して、離してよ!」

「クッ……ソッ! 抵抗してんじゃねぇよ!」


 女性の手持ちの小ぶりなカバンを、男が強引に奪おうとしている。


 カバンには持ち手以外にショルダーが付いていて、女性は奪われそうになった時、そのショルダーを咄嗟に掴んだようだった。



「あらま。手際の悪いこと」



 しかもこんな白昼堂々、人通りのあるこんな場所で……と奈々美は呆れ顔で呟く。



 この手の犯罪は、いつの時代も減らない。


 人類が、死ににくい身体を手に入れて以降は更に、犯罪への躊躇が無くなっているような人も目立つ。



 極刑が実質的に存在しないし、捕まったとしてもたかだか数年から数十年で外へ出られてしまうので、永い永い人生の、ほんの息抜き程度の感覚で道を踏み外してしまうのだ。



 国も対策を打っていないワケではないが、民族的な倫理観などが邪魔をして、他国に比べると遅れがちである。




「どこぞの国なんかじゃ、犯罪者を水中に沈め続ける刑なんかがあるらしいよね。罪の重さに応じて、その長さが変わるとか。『残された死』が溺死だったら、寧ろラッキーだよね」


「た、助けに……行ってくる」


「え……?」



 奈々美の蘊蓄に少しも耳を傾けず、走り出そうとする結衣。


 一瞬、驚きつつも後押しするように奈々美が手を離した瞬間――



「し、しつけぇ……めんどくっせえんだよ!」

「キャッ……!」


 奪えないと諦めた男が、突然手を離した。



 ――ゴッ!



 引っ張り合いの均衡が崩れて、その反動で女性は思いっ切り後ろにひっくり返った。





 そのまま女性は、デッキの端に設置されている花壇に後頭部を強打した。


 レンガのような花壇の、そのちょうど角に。

 誰もが、危険なぶつけ方だと認識するような音。


「……っ!」


 その瞬間、結衣は背筋を爪でなぞられたような悪寒を感じた。これまでにも何度か感じたことのある、冷たくおぞましい悪寒。


 極端に死ににくなってしまった世界では誰しも、怪我や病気に対して反応が鈍い。


 それは、自分でも他人でも。痛かったり苦しかったりは、それなりにするけど、基本的にすぐ回復するし死なない。


 だから転倒して頭を強打した彼女を見ても、周囲の人は「ああ、可哀想に。痛そうだな。でもすぐ起き上がるだろう」くらいにしか思わない。


 池袋駅の地下鉄ダンジョンでの結衣のように、頭が吹き飛んでいるんだったら反応も変わるのだろうが。


 そのはずなのに――


「……えっ」

「あれ、血ぃ、出過ぎじゃない?」

「動……かない……よ」

「――あ?」


 滴る血の海に沈んでいくように、ずりずりと体勢が崩れていく女性。

 その瞳からは刻々と光が消えていく。


「え……うそ、全然動かないよ!」

「ウソだろ、アンタ……え、おい」


 空気がザワザワとし始める。


「ねぇ結衣……今のって、まさか」

 

 ザワザワザワザワザワザワ……

 

「……!」


 結衣は奥歯をギリっと噛んで駆け出す。

 頭から血を流すその女性の元へ、数歩で到達し、すぐに首筋と口元に手を当ててみる。


「息、してない……脈も…………そんな――」


 結衣の呟きに、周囲が凍る。

 不運にも、カバンを奪われそうになっていた女性の『残された死』が実現してしまった。


「……うっわ、最悪だ。ハズレ引いちまったのかよ」


 ひったくり犯の男が『やってらんない』みたいな雰囲気を醸した。そして、そのまま背を向けて走り出した。


 まるで面倒事に巻き込まれる前にその場から離れようとしているかのように。罪の意識を微塵も感じない――それどころか、逆に迷惑を被ったとでも言いたげな男。


「待てっ!!」


 結衣の怒声が空気を震わす。

 既に十数メートル遠ざかっていた男も少しだけ、驚いたようなリアクションをしたが、止まることはなかった。


「……止まれって、言ってるんだよ!!!」


 威力の上がった2回目の空震にその場に居合わせた人達は思わず目を閉じたり、顔を背けたりした。

 その一瞬の間隙に、結衣は男を取り押さえた。男の後ろから左脇の下と首に、それぞれ腕を回してロックし引き倒す。


 仰向けにしたら、すかさず体を入れ替え上に乗り、肘で喉元・膝で鳩尾辺りを押さえ付ける。


「うぐっ……おえ――は? え?」


 刹那の拘束に、男は理解が追い付かない。

 当然、周りの人達も結衣の動きを完璧に追えた人は居なかった。


「……結衣っ!? いつの間に!」


 奈々美も数瞬、見失っていた。

 やっと追い付いた視線の先には怒髪天を衝くような形相の結衣が居た。


 頭の重さも使って腕と膝に体重が乗るようにしながら結衣は、男を見下ろし睨む。


「何様のつもりだ、アンタ! 自分勝手に他人を襲っておきながら、自分が被害者みたいなこと言ってんじゃない!」


 男は苦悶の表情を浮かべる。


「お、お前に……関係無い、だろっ」

「ふざけるな! じゃあ、あの人はアンタにどう関係が有ったって言うんだ!」


 肘と膝に力を込める結衣。


「うぅっ! 痛って、放せ……そもそも……人が1人死んだくらいで……なんなんだ! 国だって、たくさん殺してんだから、同じだろ! 寧ろ褒められる行為だろうがっ」

「……同じじゃない! 誰かの『日常』を勝手に奪って、許されるワケない!」


 ギリギリと力を強める結衣。


「……ぐあっ――折れ、たぞ、今。クソッ、何で俺ばっかり……探索士とかいう連中は…………ダンジョンから死を持ち帰って、それを国に高値で、売り付けて――そうやって私腹を肥やしているってのに……何が違うんだ!」

「――ゆ、結衣! ……お、おうわっ!」


 心配になった奈々美が駆け寄って来たが、1メートル手前くらいで突然足を滑らせた。

 スライディングのように滑って、そのまま男の喉元をヒールの踵でドンピシャに蹴り抜いた。


 結衣がしっかり押さえ込んでいたせいもあって、男の喉は簡単に破壊された。


「……〜っ!! ――っ!」


 喉が潰れて声が出なくなった男が苦しそうにもがく。


「痛たたたた……あの女性の血を踏んでしまっていたか」

「え、えっとぉ……奈々美――ちゃん?」

「うあ! し、しまった。アタシもうっかり、この人死なせてしまうところだった」


 2人は、ジタバタともがく男を見遣る。


「げ、元気そうです」

「良かった、それは死因じゃなかったのね」


 奈々美が、喉からヒールをグイッと引き抜くと血が溢れ、男はまたうめき声を上げた。

 しかしバッグを奪われそうになっていた女性とは異なり、その傷は徐々に修復されていく。

 

 騒ぎを聞き付けたか、誰かが通報したのか――警察が到着し、結衣はひったくり犯の拘束を解いた。


 若干やり過ぎだと注意されたが、結衣が探索士と知ると感謝の割合が多くなった。

 ひったくり犯の男は厳重に拘束され、連行される。


「――おい、女ぁ! お前ぇ、探索士なのか。ひゃははは、自分を正当化するために俺を捕まえられて良かったなぁ! だが覚えておけ! そんなん、正義じゃなぇからなぁ!」


 喉が復活した男が結衣に向かって叫んだ。隣にいる奈々美は顔をしかめる。


「アイツ……もっと丹念に壊しておくべきだった……! 結衣、気にしなくて良いよ、あんな奴の言うことなん――」


 奈々美はそう言って、結衣の様子を確認するように覗き込んだ。


「そんなこと、知っているよ」



 そう淡々と呟く結衣の表情は、どこか晴れやかだった。



 まるで、雲一つない今日の空のように。

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