第8話 雨上がりの約束

 私は無我夢中で駆け出した。

 冷たい雨が容赦なく私の体を打ちつけ、髪や服がびしょ濡れになっても、そんなことは気にならなかった。

 私はただ陽菜ひなに会いたい、その一心で走り続けた。

 雨が激しく降りしきる中、私の心臓は激しく鼓動し、息が切れる。

 

「陽菜!」


 彼女の姿が少しずつ近づくにつれ、私の心の中で湧き上がる不安と焦燥感が、さらに強くなっていった。

 雨に煙る街の中で、彼女だけがぼんやりと浮かび上がる。


「陽菜っ……!」


 横断歩道に着くと、陽菜は静かにこちらを振り返り優しく微笑んだ。

 しかし、その微笑みはどこか儚げで、まるで今にも消えてしまいそうだった。

 私はその姿を見て、胸が締め付けられるような痛みを感じた。


りん……」


 陽菜の声が雨音に混じって耳に届く。

 その声は、いつもの元気な陽菜のものではなく、どこか悲しげだった。

 私は息を切らしながら彼女の元に駆け寄り、その手を強く握りしめた。


「ここにいたんだね、ずっと探してたんだよ……」


 私の声は震えていた。

 陽菜の手は冷たくて、まるで現実感がなかった。

 彼女の手を握りしめるたびに、彼女が本当にここにいるのかどうか不安でたまらなかった。


「陽菜、何があったの?どうして連絡してくれなかったの?」


 陽菜は少し俯き、答えを言葉にするのを躊躇っているようだった。


「ごめんね、凛。でも、私は……ここにいちゃいけないんだ。私は、もう……」

 

 その言葉に、私の中で何かが崩れ落ちた。

 陽菜の姿はここにあるのに、なぜか遠く感じられる。

 その言葉の意味が、私の心を深くえぐった。


 「どういうこと?陽菜、何を言ってるの?」

 

 ――嘘。

 

 私は、最初から分かっていた。

 私は、そのことに気付かないように目を背けていた。

 知らないふりをしていればずっとこの時間が続くと思いたかった。

 


 陽菜は目を閉じて、静かに言葉を紡いだ。


「私は、もうこの世の人間じゃないんだ。本当はずっと一緒にいたいけど、それは叶わないんだよ」


「そんなの嘘だよ!だって、陽菜はこうして目の前に存在してる!」


 涙が次々と溢れ出し、視界がぼやけていく。

 陽菜が自分の手を私の頬に当てた。

 冷たい指先が、私の頬を優しく撫でた。


「あの日と同じように、また私の前からいなくなるの……?お願い……お願いだから、消えないで……」


 私の声は涙でかすれ、言葉が詰まった。

 それでも、胸の奥から溢れ出す感情を抑えることはできなかった。


「陽菜、お願いだから……」


 涙が頬を伝い、私は陽菜の肩に顔を埋めた。

 陽菜の温もりを感じたかった。彼女がここにいることを、信じたかった。


「凛……本当にごめんね。でも、私がここにいるのは間違っているんだ。凛には前を向いて生きてほしいんだ」


(そんなこと……今更言わないでよ……)

 

 陽菜ひなの言葉が胸に突き刺さり、さらに涙が溢れ出した。


「陽菜……私ね……本当は……陽菜の事が……」


 声を絞り出すようにして、私は言葉を続ける。

 今言わないと、きっと一生陽菜に伝えることはできなくなる。

 しかし、「好き」という言葉がどうしても出てこなかった。

 

 自分の意気地のなさが嫌になった。

 こんなにも大切な人に対して、本当の気持ちを伝えられない自分が情けなかった。


 陽菜はそんな私をそっと抱きしめてくれた。

 その温もりが、私の心を少しだけ癒してくれた。


「泣かないで。凛が泣いていると、私も悲しくなるから」


 陽菜の声が優しく響く。


「陽菜……お願いだから、行かないで」


 私は再び陽菜に訴えた。

 しかし、陽菜の瞳には決意が宿っていた。


 私はその瞳から目を逸らすことができず、胸の奥で何かが張り裂けそうな痛みを感じた。

 涙が次々と溢れ出し、止まることを知らなかった。


りんは私がいなくなってから、あんまり笑わなくなっちゃったよね」


「私ね……凛の笑った顔が好き。だから私がいなくなっても笑顔でいてほしいの」

 

 陽菜の声は穏やかでありながら、その言葉の1つ1つが私の心に突き刺さった。

 

 (そんなの無理だよ……)

 

 私は陽菜の手を握りしめ、決して離さないようにと強く思った。


「お願い、陽菜。私を置いて行かないで」


 陽菜がいなければ、私はどうやって生きていけばいいのか。

 陽菜はそんな私を見つめ、そっと微笑んだ。

 その笑顔は暖かく、どこか悲しげだった。


「凛……凛にはたくさんの未来があるよ。私がいなくても、きっと素敵な日々が待っている」


 私は首を振りながら、陽菜の言葉を否定した。

 彼女の言葉を信じることができなかった。


「そんな未来なんていらない!陽菜がいなければ、何の意味もないよ……」


 私の言葉に、陽菜は一瞬驚いたようだったが、すぐにその表情は穏やかなものに変わった。


「凛には強さがあるよ。私と過ごした時間が、凛を強くしてくれたんだよ」


 陽菜の言葉に、私は何度も首を振った。

 強さなんて、感じられなかった。

 陽菜がいなければ、私は何もできない。そう思っていた。


「でも、私は……」


 涙で言葉が詰まり、息が苦しくなった。

 陽菜がいない未来なんて、考えたくなかった。

 陽菜が消えるなんて、受け入れられなかった。


 陽菜は私の肩を優しく抱きしめ、耳元で囁いた。


「大丈夫だよ、凛。凛は一人じゃない。私が見守っていてあげる。『二人ならどんな困難だって乗り越えられる』でしょ?」


 その言葉が、私の心に深く染み渡った。


 陽菜は私を静かに抱きしめ続けた。


「凛、私はいつも凛のそばにいるよ。心の中で、ずっと一緒にいるから……」


 陽菜は私を抱きしめながら、ずっと「大丈夫」と言ってくれた。


 

 何時間そうしていたのだろうか……。

 気が付くと薄明るい光が空を染め始め、あれほど降り続いていた雨は静かにその姿を消していた。

 

 陽菜はそっと私の背中を撫でながら、静かに言葉を紡いだ。


「凛、最後に1つだけお願いがあるの……。あのね、今日までのことを少しでもいいから覚えていてほしい。それが私の最後のお願い」


 その言葉に、私は再び涙をこらえきれなくなった。


 陽菜の体が次第に薄くなっていくのを感じ、私はその手をさらに強く握りしめた。


「うん……絶対……絶対、忘れないっ!」


 私は陽菜を見つめ叫ぶ。

 陽菜の姿が徐々に透明になっていく。


「凛……私………………」


 陽菜の最後の言葉が、風に乗って耳元に届いた瞬間、彼女の姿は完全に消えてしまった。


 静寂が訪れた。

 

 

 ずっと泣いていたからだろうか……。

 

 力が抜けていくのを感じる。

 膝が地面に沈む。

 

 徐々に目の前の景色の輪郭がぼやけていく。

 

 そして……私の意識は淡い光の中に溶け込んでいった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る