第2話 身代わりの禾


不快な音が鳴りやまない。


耳を塞ごうとも、この御霊に刻まれた獣の本能がその音色を捉えるのだ。


「どうして……!どうしてよ……!どうしてあなたは未だに目覚めないの……!」

激しく、大きくうねる波のように押し寄せる不協和音。


「あなたなんて……あなたなんて……私の子じゃなかったんだわ……!」

重責を負い、ただその為だけに化け物の家に嫁いだ巫女は壊れてしまった。その音色を自ら汚し醜く染めることしかできずに。


自らが化け物を生まなかったことに嘆き苦しんだ。


そして巫女でもない女が、自身の夫との間に化け物を生んでいたことに。


「カイナ……!」

それは……ぼくの名前じゃない。


「カイナよ……!カイナこそが私の本当の息子なんだわ……!」

かつては憎しみ、恨み、呪ったその名を嬉々として呼ぶ女のさまに、怖れおののく。

それと同時に、恋しく思い、いつしかと願い続けていたなにかを……捨てた。


「カイナ……あぁ、カイナ……!私の子……!あなたが私の本当の息子……!」

スイッチが入ったかのように、勢い良く駆け出した女は、ぼくではない名前を叫びながら……朱色の炎に包まれて悲鳴を上げる。


「いやあぁぁぁぁぁ――――――――っ!化け物……化け物がいるあぅぅ――――――――っ!カイナ、イナ、助けて。助ケテ、お母さまを助けてえぇぇ――――――――っ!」

女は既に、その矛盾すら認識できていない。


その炎こそが彼女の言う本当の息子。カイナの異能。化け物の異能。


――――――かつては異能を畏れたはずなのに。


化け物と呼んだはずなのに。


人間たちは、化け物を嫌い、蔑み、畏れた。

そしてそれらを駆逐するために、自ら化け物を生成し、化け物の力を使う。


その役目を負ったものたちは、化け物とならないからこそ責められる。普通の人間と成ることもできない。


ナラバこの身を化け物とすれば……オマエタチハ満足カ……?


※※※


ゾッとする何かを聴いた気がして、目を覚ました月花は辺りを見回す。知らない場所。知らないお屋敷の門の前。

そして彼女は思い出す。


――――――自分が捨てられたことに。


物言わず無機質に照らす月に、叫んでももう二度と届かないことを呑み込み、今さら泣きたくなる感情が込み上げる。


何よりも悲しいのは……信じてきたひとからの裏切り。どんなに苦しくとも。巫女の家の絶対的な恐怖政治を愁いても、巫女の家に生まれたがゆえに従僕として人権すら取り上げられたさまを見せつけられても。

全てが姫花のために回り、姫花こそが正しく、姫花だけが女王じょおう蜂のように君臨せども。


あのひとがいてくれたから、生きてこられた。そんな生きるためのたったひとつの希望すら奪われた今。


どうやって生きていけばいいのかもわからない。死ねば楽になるだろうか。この世界の摂理である巫女の役目から逃れるように死を選べば、地獄に落とされるであろうか。


巫女の役目をまっとうしたからといって、極楽浄土に辿り着けることが確定しているわけでもなかろうに。

人間を人間としても扱わぬ。そんな一族が、極楽浄土へ向かうことを、許されるのか。

それはこの世界の神のみが知り得ること。そんなことをただの人間の……巫女の力すら対して持たず、ただの人間にも成れない身で考えても仕方がない。


だが、一緒に地獄へ落ちるなら。

巫女の一族の行いこそが、その在り方こそがそもそも地獄の審判を受けるものならば。


どちらにせよ、死んだところで何も変わりはしない。


そして傍らにキラリと光るものに、息を呑む。

あの家は……巫女の家の恥になるならば死ねと言うことか。


思えば、朱桜は結構な大家であるのに、ひとの往来もない。夜とは言え……むしろ妖獣が暴れだす夜こそ、彼らの動く時間。日中、捨てられた月花を誰も気に留めず、ここに放っておかせるのは……巫女としてはんぱものだからだろうか。


しかし夜になっても全くひとの往来がないことに、奇妙に感じる。


ここは、朱桜では……ない?

まさか……国の命で嫁ぐ契約を、朱桜側が遂行しようとしているのに、一方的に巫女の一族が切るつもりなのか……?


いや、違う。


その刃物が。短刀が示すその意味は。


――――――自ら死ねと言うことか。


嫁ぐはずの娘が死んでしまえば、契約も反古になる。代わりに姫花は巫女の一族の長女となるが、巫女の直系のは彼女だけ。彼女が守護者に嫁げば直系が失われてしまうから、嫁ぐことができなくなる。

そして今現在、巫女を伴侶に必要とする守護者の家はない。分家まで探せばいるだろうが、巫女の一族の直系が嫁ぐには釣り合わない。


だからこそ。姫花が家を継ぐために誉を婿にとり婚姻を結び、元々嫁ぐ対象のいない朱桜には誰も嫁がない。

せめてものお詫びに後妻に迎えてくれると言う朱桜の当主は、後妻に迎えるお荷物がなくなったから、分家から力の強いものを養子にとり、跡取りとする。

その跡取りには既に家格に見合う巫女が嫁いでいるはずだから……。

私がこの世界から消えても、誰も悲しまない。この世界は平然とまわり続ける。


ならばせめて……。


チャキっと、その短刀の柄を握る。


「先に地獄で、待っています」

月花を迎えるものなどいない。月花に会いたがるものなどいない。

彼女が何よりも切望する魂の片割れは、そこにはいないだろう。


永遠に魂が分かたれることに深い悲しみを抱きつつも、それでも……。


魂の片割れを失ったまま生きるのには……この世界は辛すぎる。


けれどそれが彼女の息つく魂の終点ならば。

そこで待ち続けるのも、この世から背負って下る【ごう】であろう……。二度と片割れと会えないことも、また……。


両手で短刀の柄を握り、鋭いその切っ先を自身の喉に向けて、静かに目をつむる。

夜の静寂は、それを受け入れてくれるように、ただ冷たい風が頬を優しく撫でて招いている。


こんな時に脳裏に浮かぶのは、どうしてか辺りを金色の稲穂で覆い尽くす、懐かしい場所。


行ったこともない、はずなのに。月花はその場所を知っていた。


あそこに還れるの……?


『もう二度と、あそこには還れない』


そう。そうだった……。

月花が行きつく先は……地獄の業火の底なのだから。


そこにはきっと、「」明るく照らす月の光は届かない。だから安心して逝ける。


「さようなら」

最期だからか、湧き出るはずもない冷たい雫が頬の熱を奪って持っていく。


そして意を決し、月花は自身の喉めがけ、腕を引き寄せた。






※※※



思い描いた苦しみは、いつまで経っても襲ってこない。そして静寂を切り裂く声が響いた。


「何をしている……!」

男の声だった。


がしりと握られた手には握っていたはずの柄はなく、カラカラと着物の上をつたってこぼれおちた2つに割れた欠片の感触を覚える。


月花はゆっくりと瞼を上げる。


「……ぅして」


どうして。


「どうして、死なせてくれないの……」


零れ落ちる大粒の涙は、まだその身が心臓の鼓動をきざんでいることを知らしめてくる。

その零れ落ちた魂の紡ぐ言の葉は、その喉に刃すらかすめることなく崩れ去ったことを告げていた。


「死ぬな」

「……生きる意味がない。意味もない、生きる場所もない……術もない。それなのに、どうして死ぬことすら自由にできないの……っ」

大粒の涙で視界が歪み、何も見えない。


「大丈夫だから。こんな場所で死ぬな。生きる場所がないなら、一緒に来い。たいした待遇はできないが、だが……住み込みで雇うくらいは許してもらえる」

「……っ」

雇う……?


「死ぬほど辛いことが……あったんだな……」

「……」


「そう言う時に、無理に生きろとは言えない。できるのは……そんなことを考えずにすむくらい、何か気を紛らわすことくらいか……。俺が与えられるものは……俺と共に戦場に行くか、或いは家を任せることくらいだ」

――――――戦場……?このひとは……妖獣と戦っているのだろうか。

月花はその言葉にハッとする。

この世界の戦場と言えば、第一に妖獣との戦いを表す。国同士の争いもないわけではないが、それよりも妖獣との戦いの方が優先で、守護者を抱えるこの国は周辺国からも一目置かれるがゆえに、この国に争いを仕掛ける周辺国はほぼない。


この国が崩れれば、人間が妖獣に負けてしまうから。


だがしかし、守護者にも術師にも限りがある。だからこそ、戦場には術師以外にも多数の兵士が出征するのだ。

このひとは……術師だろうか、それとも、兵士だろうか。

どちらかは分からないが、月花の手を握るその手の平はどこかゴツゴツとしている。

誉の剣ダコも傷もない、術師の手とは違う。懐かしいの感触とも違う。そしてどこかそれが、ひどく月花を安心させた。


「いつまでも、ここにいるわけにはいかない。この屋敷は……ひとの出入りを禁じている」

ひとの出入りを禁じているとは一体どういうことだろうか……?月花の脳裏に疑問が湧くが、しかし、それならば合点がいく。


誰もここを訪れないことを。だとしたら何故彼はここを訪れたのだろう?


「一旦連れ帰るが、悪く思わないでくれ」

満足に食事も取れず、動く力すら湧かない。その上大粒の涙で水分すら抜け落ちた月花にはどうすることもできない。


ふわりと身体が浮き上がるのと共に、彼の優しくもどこか逞しいようなその腕に抱き抱えられたのが分かる。


連れ…………。


自分にまだ帰る場所があったことに、月花は涙を呑み込み、彼の胸の中に意識を預けた。





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