第31話
そうして、和彩の部屋へと辿り着く。離れがたいのは、一週間ほどを一緒に過ごした弊害か。それとも、恋人と言うのはそういうものか。
堀内夫婦はよく我慢できていたものだと思う。いや、当時は飽きないものだと思っていた。だが、今にしてみればよく分かる。時間が惜しい。離れがたい。繋がりが欲しい。
小太刀が誕生日を迎えたと同時に籍を入れた。その感情がよく分かった。和彩の誕生日は、まだ先だ。雑談の中で聞いた。
惜しい。時間が足りない。そのくせ、逃亡する。矛盾だ。けれど、コロニーで過ごせるかもしれない数年というのは、かもしれない数年でしかない。明日、急に終わる可能性があるのだ。
何の気構えもなく、唐突に何もかもを失う。それを許容できない。だから、選んだのだろう。いつ何とも知れぬ理不尽な運命とかいう戯れ言に自分たちの形を壊されないために。それが今になってよく分かる。
止められない、なんて消極的なものではない。止められるはずがなかったのだ。引き止めるつもりもなかったが。だが、今になってみてよく分かる。
俺だって、この手を離すのが惜しくてならなかった。
「……明日からは、待機なんだよな」
扉の前で、止まる。離しがたい手をそのままに、喉の奥から深く落ちた。自重は理性とと共に棄ててしまったのだろうか。
繋がっている和彩の指先に力が篭もる。この意図をどう受け取ればいいのか。和彩もまた、名残惜しさを覚えているのか。それとも、俺が縋ることへ思うところがあるのか。後者を考えると、胸がつきりと痛んだ。
かと言って、和彩がそれを思うことに不快感があるわけじゃない。和彩が戦場を駆け抜けていくのは、彼女の意志だ。それを袖にしようというつもりはなかった。
「待機室にいるよ」
「……ああ」
待機は待機だ。即日出動ではない。その猶予はようよう分かっている。頷いた俺に、和彩は苦い顔をした。
「佑くんがいたっていいんだよ」
「勿論。一緒にいるよ」
後方支援部隊が待機する場所でもある。俺が作業室に篭もっていることが多かっただけで、作業がなければ待機室にいるものが大多数だ。
宣言すると、和彩は緩く眉を下げて微笑んだ。満足とばかりの表情は、あまりにも細やかだった。
待機室で一緒にいる以上のことを望んだっていいだろうに。
「それじゃあ、明日からも一緒だね」
「ああ。そうだな……そうだよ」
……一緒にいようとすることは、大したことだと遅れて理解した。
そうだ。いつ崩されるか分からない平和な時間は、法外な願望になってしまう。俺がこの手を離したくないのと同じことだ。
「うん、そうだよ」
「ずっと一緒にいような」
噛んで含めた、ずっとの意味が後から形を持って作り上げられていく。将来まで、ずっと。
和彩は目を細めて、首肯する。言葉のない返事であることが重い。軽易に口にできるものではないと、お互いに理解している。
「……こんなところで言うことじゃないけど、言ってもいいか」
「部屋、入る?」
「……色々と抑えが効きそうにないから、いいよ。いや、よくないんだけど。よくないっていうか、本当に。こんなときにって、こんな場所でって、怒ってもいい」
女子寮の廊下に、ひとけはない。今は二人きりだ。それでも、いつ誰が通りかかるかも、どこかの扉が開いていて誰が聞いているかも分からない。ただ、それを言い始めたら、コロニーにいる限り解放されることはないのだ。それを差し引いたとしても、今ってのは短絡的だった。
和彩は俺の前置きに取り残されている。
「なに? 私が怒るようなこと?」
「ロマンチックではないな」
「??」
やっぱり、先走っていた。だから、仄めかしたところで和彩には届かない。首を傾げたまま不審そうにこちらを見上げていた。
「愛してるよ、和彩。誕生日を迎えたら、籍を入れよう」
本当に、こんなところで、と思う。
でも、コロニーでするプロポーズなんて、とどのつまり多くの人間がこんなものなのだ。場所がないのは事実なのだから。でも、やっぱり、こんなところでという気持ちは拭えない。
そもそも、台詞も合っているのか分からない。こんなことなら、一誠たちの話をもう少しまともに聞いておけばよかった。
和彩の瞳がゆっくりと開かれて、エメラルドが溢れ落ちそうになる。はくりと動いた唇から、声にならない吐息が零れた。繋がっていない手のひらが胸を押さえる。瞠目しているエメラルドがぬらりと濡れていく。ぱちくりと瞬いたのが何かのボタンを押したかのように、ぽたりと雫が落ちた。
そうしたすべての動作が、鮮明に記憶に刻まれていく。心臓が引き絞られるように痛い。繋がっている手のひらから、脈の速さが届いてしまうのではないか。呼吸が浅くなって、いっそ止まっているのではないかと疑うほどに息苦しかった。
「ほんとう?」
数十秒にも引き延ばされた時間の中で、雨垂れのように言葉が漏れる。
答えではなかったが確認であることに、にわかに心が落ち着いた。安堵はできないが、ほろほろと零れていく涙を拭ってあげる余裕が戻ってくる。ただ動けるようになっただけで、体内のどんちゃん騒ぎは続いていた。
「本当だよ」
できる限り、深く重く答えて頷く。いくら突発的に見えても、本気であることが通じるように。和彩の気持ちを少しでも取り零さないように。
ようやく言葉が言語野に届いたのか。和彩の頬が華やかな色に染まっていく。じわじわと熟れていく顔色は煌びやかで、俺は涙を拭うために触れていた頬を撫でていた。
「……いいの?」
か細い。消えてしまいそうな。泡沫の音が鼓膜に触れてぷつぷつと染み込んでいく。消えてしまいそうなそれを、身体ごと引き寄せて掻き抱いた。
「当たり前だろ」
「私、鬼だよ……?」
気にしているようには見えていなかった。いや、そういうことじゃない。この確認は、戦力を混ぜっ返しているのではなく、珠戦士であることに核がある。
俺を置いて、行ってしまう。たった今、ここで、サイレンが鳴れば一瞬で。ずっと一緒と言いながら、そんなものは叶わない。
それを言っているのだ。
強いからとか。恐ろしいからとか。そういうことじゃない。
「知ってるよ。俺は君の金棒だからな」
「……ありがとう。私も、佑くんのことを愛してるよ」
自分が言うのと人に言われるのとでは、気恥ずかしさが違う。胸を掻き毟りたくなる爆発を、和彩の温もりで癒やした。ほの暖かな体温に和彩を感じる。
「誕生日までまだ一週間くらいあるけど、待ってくれる?」
「楽しみに待ってる」
自分でも、想定外に重大な声が出た。甘ったるいような苦いような。和彩は、うんと呻くように頷いて、ぐすりと鼻を鳴らす。
生きて帰って欲しい。行って欲しくない。そばにいて欲しい。そばにいたい。すべての感情が絡みついて、二人分が結びつく。離れがたく愛おしい。どうかこのままで、と抱擁に想いを込めていた。
和彩に出動命令が下ったのは、それから四時間後のことだ。
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