第30話

 人が減っていくのは、何の変哲もない。寂寞を感じていても、日常は矢のように過ぎ去っていく。

 そして、和彩の怪我も完調して、珠装具も完成した。和彩との時間が終わると思うと、大手を振ってお祝いすることができない。

 不調を喜んでいたわけではないし、回復を祈っていた。しかし、いざとなると後ろ髪は引かれる。完調したと言うことは、待機が解けたということだ。

 逃亡を約束したが、中身は詰めていない。はたして、そこに言葉の安堵以上の意味があるのか。

 現実味はちゃんとある。夢物語だと思っているわけではない。ただ、実施するための道筋だけが宙に浮いているというだけだ。心の拠り所として機能していればいいのか。俺は和彩の心に従うつもりだった。

 自己がないわけではない。本音を言えば、もうこのまま、という気持ちもある。それは、友人が実行してしまったということもあるだろう。おかげで、ハードルは一気に下がった。

 実際のところ、難しくはない。最低限の旅の準備をしてコロニーを飛び出してしまえばいいのだから。あるのは、精神的なハードルだけだ。それが友人によって限りなく下がられていた。

 だからこそ、このままという考えもある。ただ、和彩が戦場を見捨てられるのか。それだけが、問題だった。責任感のある子だ。今、逃亡することに責任論を背負わせる傾向はない。だが、周囲を容認していても、当人が納得できるかどうかは別だ。

 姫と従者。そんなつもりで、付き従おうというのではない。ただ、和彩の心を軽くする選択をしたいだけだ。和彩がそばにいてくれる安堵を俺だけが得ても仕方がない。憂いを抱えたまま、逃亡に走って欲しいと芯から願うことはできなかった。

 願っているのも真実だが、我が儘で動けるものではない。矛盾が心に吹き荒れている。


「回復してよかったな」


 和彩と並んで女子寮へと向かっていた。

 女子寮に近付いたことなど、ほとんどない。時々。本当に時々、和彩へ珠装具を届けるために探しに寄ったことがある。

 それはまだ、和彩が必ず待機室にいると確証を得られなかった当初の話だ。習慣を読めるようになってからは、近付いたことはない。

 だから、女子寮に近付くのは随分と久しぶりだし、ましてや和彩の部屋だと思うと緊張はする。送り届けているだけで部屋に入るわけではないが、それでも緊張感はあった。自意識が肥大している。


「佑くんもお疲れ様」

「スペアもあったし、型取りもそこまで大変じゃなかったよ。調律でかなり数値も詳細に決まってたし、余計なことを考えなくても手を動かせばいいってのはありがたい」

「もしかして、足のほうが大変だった?」

「継ぎ足しで補修するほうが、硬度が落ちるし、剥がれる可能性も考えないといけないし……エメラルドの色味が違うと見るからに継ぎ足したのが分かるしな」

「そこまで気にする人はあんまりいないと思うし、そもそも見えるものじゃないから大丈夫だけど」

「これは俺の問題だから」


 性能にも関わるが、見た目に拘るのは珠装師のエゴだ。こういう部分に拘るから、俺は特殊な立場と思われているし、小太刀にもよく呆れられた。

 完璧を目指す。

 それは性能に加えて見てくれも含んでいた。無関係な部位にまで手を出すことを、公言するのは分が悪い。過酷な世の中で、蛇足は切り捨てられる。だから、公言すれば白い目を向けられるのは明白だった。

 いくら俺が珠装具に夢中になっていると噂されているとしても、装飾されたものになるつもりはない。金棒という二つ名がつくほどなのだ。過剰な拘りを公言すれば、どんなものが付与されるものか。考えたくはない。翻弄されるつもりはないが、珠装具についてのことで煩わされたくないので、慎んでいた。

 だと言うのに、和彩はひどく自然に笑みを漏らす。愉快と言うよりも、答え合わせのそれだった。


「佑くんらしいね」

「無駄なことだよ」


 そんなことは思っていない。それでも、口にしてしまう自分に嫌気が差す。予防線を張ってしまうのは、面倒事が億劫だからだ。和彩相手にそんな真似をする必要はないというのに。習い癖というのは恐ろしい。

 しかし、和彩はそんなことを気にした様子もなく、温厚な口調で話す。意図した声音じゃない。彼女を姫だと思う。そのひとつの響きだった。


「そんなことないよ。自分の身体が綺麗だと嬉しいもの」


 そうして、和彩は自身の身体を見下ろす。隊服は珠装具を覆っていて、肌の部分すら見えない。それでも、和彩には綺麗に整えた珠装具が見えているのだろう。


「それに、綺麗なものは大切にしようと思うよ。よく壊す私が言っても説得力がないかもしれないけど」

「和彩が大切にしてくれているのはよく知ってるよ」

「佑くんが綺麗なものを造ってくれるからね」

「和彩のためになるなら、俺だって嬉しいよ」


 認められる歓喜が胸を弾ませた。チョロい。けれども、普段は公然と褒められることではない。和彩が信頼してくれているのは分かっていたが、言葉にされると胸を打つ威力が違う。


「今回も完璧だね」

「調律したうえだから、いつもよりも使い勝手が良くなっているとは思うよ」

「そこは断言したっていいでしょ」

「もっと動いてみないと分からないだろ? 完璧には、まだまだなんだから」


 現状の完璧、ではある。そこに疑点を挟むつもりはなかった。だが、現状という枕を外すことはできない。高品質を求めるが故の調律であるし、調律とは常に変化する体躯に合わせるものだ。完璧である時間は短く、現状としか言いようがない。

 俺の言葉に、和彩はやっぱりまろやかな笑みを漏らした。


「佑くんだもんね」


 どこまでも読まれている。以前から専任だった。俺自身を知ったのは最近かもしれないが、珠装師としての俺の性質についてはよく知っているはずだ。それは同じ後方支援部隊だった小太刀よりも切実に。


「すっかり元通りだよ」


 穏やかな調子だった。ブレることがない。元通りになったことを喜んでいるのも真だ。しかし、底には僅かな物悲しさがある。

 これを感じ取れるようになったのは……そう思いたくなるのは、俺がそう思っているだけに過ぎないのかもしれない。それでも、俺は和彩の音をよく聞いているつもりだ。思い上がりでも思い込みでも。抱いているものを軽くしてやりたいのが男心と言うものだろう。


「美しいよ」

「佑くんのおかげでね」

「和彩が綺麗なんだ」


 珠装具を大切にしてくれる心があるから、他の誰よりも似合っていた。これは恋心があるから欲目が入っているわけじゃない。

 綺麗だと感じていたのは、以前からずっとそうだ。今はそのときよりも、輝きは増しているが、それはいい。綺麗であることには、何の影響もないことだ。隣を歩く横顔に目を眇める。誇大なつもりは露些かもなかった。

 目が合うと、和彩はこそばゆそうに唇を歪める。にやけたりはしない。何かを耐えるかのような顔が愛おしくて堪らなかった。髪を撫でると、頭が擦り寄せられる。

 和彩が療養していた一週間と少し。この間、ほぼ一緒にいた。二日前に医務室からの退出許可が出た後は、俺の部屋に連れ込んでいる。

 接触にも慣れて、お互いに遠慮がなくなってきていた。当初は、まだぎこちなさもあったが、昨日今日でその余韻は消え去ったと言ってもいいだろう。


「ありがとう」

「どういたしまして。ほら、戻ろう」


 つい、足を止めてしまっていたものを再開させる。手を取って引くと、指先が絡め取られた。やはり、慣れている。俺からの一方的な思い違いではないことに、密かに一安心した。

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