第17話

 誰も口にはしない。直近の危機であると、誰も彼も肌で感じる。分かっているのだ。だからこそ、俺たちは逃亡者に強硬な態度を見せられない。

 待っていれば終わると想像できる。すべてが欠乏していき、限界状態なのは生活していれば分かるのだ。どれだけ鈍感でも、どれだけ楽観主義者でも。否が応でも思い知らされる。

 その中でも、前向きに……なんて言えば、体裁は持つのか。それはどこへ整えるべき体裁なのか。そして、整えたところで、それは体裁だけでしかない。結局、なし崩し的に。諦念して、見て見ぬ振りをしている。未来を受け入れている振りで、目視すらも避けているのだ。

 だからこそ、こうして悠々と齎されると、途端に実感が差し迫る。戦場を知っている一誠の言葉であることも、その一助となっていた。


「……数年だって、生きれば御の字かもしれない。でも、それっていつ死ぬか分からないってことだもん」


 コロニーが崩壊する。

 それは鉄の柵を越えて魔物が攻め込んできて、人々を襲うことだった。ある日、そうなる。そういう未来が数年後に待っているのだ。いや、それは明日かもしれない。いつ死ぬか分からない。そんな状態であって、かつ、正常化する希望などゼロだ。

 いつか敵襲で死ぬのであれば、自分で今死ぬ道へ進む。そうした選択をすることを否定しきれない。それが友人であっても、俺は引き止める術が思い浮かばなかった。


「確定的ってわけでもない」

「苦しいって分かってるんだろ?」


 それは希望的観測の一言でもまだ甘い。何かの奇跡……それこそ、ある日突然宝石が出土するようになった自然現象が可逆してくれない限りは、安全なんて確保されないのだ。

 いや、たとえ可逆したとしても、追い詰められて失ったものが多過ぎて、立て直せるのか。その間、生活が保障されるのか。そう考えれば、奇跡が起こっただけでもどうにもならない。

 やはり、選択肢が狭まることに口を挟めるものではなかった。


「佑が認められないと思うのも分かってるよ」

「……認める認めないの話じゃない」

「それが認めてないって話なんじゃないか」

「三枝はリアリストだから」


 はたして、この救いのない世界を受け止めていることをそう呼ぶのは正しいのか。何がリアリストなのか判然とはしない。寧ろ、逃げ出すほうが受け止めているが故の行動であるような気もする。

 俺はロマンチストで、まだ誰かや何かが世界を変えてくれるとありもしない希望に縋って生きようとしている、と。そう取ることもできる。解釈次第で、どっちにも転ぶものだ。


「とにかく、僕たちはそういうことを考えてるくらいには、相手のことしか考えてないってこと」

「お前、オチはそこでいいのか」


 愛だの恋だのと笑うつもりはない。楽しみのない世界で、唯一の感情すらも封じ込めてしまえば、何を楽しむというのか。廃れた世界にある愛情は尊い。二人がこうして仲良くしているのは、こちらまで気持ちを和ませる。


「暗くしたってしょうがないだろ」


 そう言って、一誠がぱんと手を合わせて終止符を打った。これだけメンタルを操縦できているくせに、逃亡を平然と考える。覆せる気はしない。


「寧音、作業しなよ。見てるから」

「いいの? 暇じゃない?」

「寧音を見てると楽しいからいいよ」

「じゃあ、いっくんとゆっくり過ごせるように頑張るね」


 人の目を引き剥がすことになれているそれだ。二人の世界にくちばしを挟む気なんてない。そもそも、会話は回収されている。作業を始める小太刀を邪魔したくもなかった。扱っているのは安宝さんの大剣だ。万全を期してくれることを願う。

 俺はそっと二人のそばから離脱して、自分の作業へと戻った。


「バレンタインまでに落ち着いていれば僕は構わないからね」

「それは安宝さんが困るから。それより、バレンタインは出動しなくて済むの?」

「分からないけど、きっと時間を作るよ。ちょっとだけ前後するのは許してくれ」

「いっくんがそれでいいなら。あたしはいつだってプレゼント用意するし」

「じゃあ、僕も頑張らなきゃね」


 甘い声が耳へ飛び込んでくる。苦々しくて仕方がないが、コロニーにいればこんなことはしょっちゅう起こるものだ。この夫婦と一緒にいれば、特に。

 珠装具の扱いに集中していけば、いずれシャットアウトされていく。そして、気持ちも落ち着いていった。それでも、動揺がまるっとなくなるわけではない。

 二人に逃亡する気があるという情報は、胸の深いところに消えない棘となって刺さり続けていた。




 一度でも刺さってしまえば、抜けない。逃亡なんて大々的な話をあっさりと流せるわけもなかった。

 堀内夫婦のことを考え続けているというのは、釈然としない。当人たちは覚悟を決めてけろっと生活を送っているから余計に。

 到底、健全な生き方ではないだろう。しかし、この世界で健全に生活できているものがいると言うのか。その点を考えていけば、口を閉じているしかなかった。

 堀内夫婦がいつ出て行くつもりなのか。バレンタインの話をしていたから、それまでの猶予はあるのか。自分はどうするのか。

 ……自分がどうするのか、と自分の中にもその選択肢が存在していることに、渋くなった。

 逃亡に恋人の有無は関係ない。独り身であっても、その選択をするものはいた。一時の自由に飛び出す。自分の終わりを自分で決める。そうした心根なのだろう。徹頭徹尾理解できないわけではない。だからこそ、俺は夫婦に強気に出られないのだろう。

 自分に破滅願望があるとは思っていない。それでも、死は隣人だ。身近過ぎて、思考に組み込まれている。

 囚われたくはないが、恐らく誰も抜け出すことはできていない。だからこそ、逃亡すらも事もなげにそこにあるのだ。そう思うと、夫婦が辿り着くことも奇異なことではないことのように思える。

 ならば、今なお心の平穏を取り戻せないというのは、どういう心理なのか。友人が口にするものの生々しさに怯んでいるのか。宣言するリアリティに打ちのめされているのか。そんな堂々巡りをぐだぐだと巡らせながら、医務室へと向かっていた。

 個室ではなくカーテンの区画を選択して、安宝さんと会う約束をしている。連絡は一誠伝いだった。

 一誠と安宝さんは昨日帰ってきたばかりだ。その帰路で安宝さんからの伝言を受け取ってきたらしい。こういうふうに、人を介した前振りがあるのは初めてのことだ。

 今まで、俺たちは行き当たりばったりで遭遇していた。専任しているにもかかわらず、そんな付き合い方をしていたのだ。不便を感じてはいたが、お互いに見つけられてしまっているから、対策しないままになっていた。

 そこにメスが入れられている。抜本的な解決策が齎されたわけではないが、違和感は強かった。不思議な浮遊感がある。

 珠装具の破損であれば、約束などという遠回しな手段が採られることはない。即日対応を求めて探しに来ている。なので、破損はしていないはずだ。その状態で呼ばれるというのは、一体何の用件か。個人的な用件を想像することはできなかった。

 医務室に入ると、カーテンが開きっぱなしになっている区画に安宝さんが待っている。エメラルドがきらきらしい。そういえば、左目は義眼だ。宝石の輝きだから、と納得しつつも、そうではない魅力もある。安宝さんに嵌まっているというのが、輝きを増していた。

 安宝さんは緩く手を上げて、こちらへ合図を送る。俺も手を上げ返しながら、その区画へと進んでカーテンを閉じた。

 個室に比べれば、呼吸はしやすい。それでも、区切られるというのは改まった感覚を呼び覚ますものだ。緊張というわけでもないが、何事だろうかという気持ちは強まった。


「呼び出して、ごめんね」

「構わないよ。どうした? 不具合か?」


 挨拶もそこそこに、本筋へと滑り出す。作業中に雑談を交わすことはあるが、何のとっかかりもなくこなすには話題がなかった。

 安宝さんは苦い顔になる。何か言いづらいことだろうか。どんなことでも言ってもらって構わない。寧ろ、不具合を放置されるほうがよっぽど困る。

 僅かな沈黙の攻防の末、安宝さんは観念したようだ。左手の革手袋を外す。右腕は肘下から義手だが、左指も義手だ。薬指と中指が宝石に彩られていた。


「指の動きが悪くて……右利きだし、あまり気にしてなかったんだけど」


 言いながら、手を開いて閉じてと動かしている。きしきしと小さな音がしているし、動きも鈍い。安宝さんの顔色も暗いので、痛みもあるのかもしれない。


「しばらく替えてない?」

「うん。困ったことがないから、別のに替えることはなくて、外して手入れするくらい」

「安宝さんは手入れがいいから、今まで大丈夫だったんだな。そろそろ替えることを考えたほうがいいかもしれない……触ってもいいか?」


 首肯するのを見てから、手のひらを両手で掬い取る。接合部を押すと、安宝さんの顔が歪んだ。


「ごめんな」


 言いながら、指先の動きを確認していく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る