第26話

 言質を取ったとばかりに頷き返した佑くんは、こっちの区画に戻ってきた。それから、パーティーションを戻して区画を仕分ける。

 矢先に、深く肩が落ちた。


「佑くん」


 整然と見えていた。

 ……そんなわけがない。

 堀内くんの珠装具を大事そうに撫でて、ツールポーチに吊す。それから、私の前に戻ってきた。足を見るときは、いつも跪いている。おかしくないけれど、今見るべき踵は作業台の上だ。


「佑くん」

「……」


 返ってこない声を飲み込んで、その頭部に触れた。ゆっくりと撫でる。いつか励ますように触れたときは、ただただちょうどよく目の前にあったからという衝動だけでしかなかった。

 けれど、今は明確に触れたいという気持ちと、励ましたいという感情が先んじてから、行動がついてきている。


「個室に移動してもいいか」


 撫でられるがままに俯き気味の佑くんが、ぽつねんと落とした。

 ちらりとパーティションを見やる。話したいことは、二人の逃亡についてだろう。それが察せられたので「うん」と即応した。

 佑くんは首肯を聞くと、おもむろに立ち上がってくる。それから、私の踵をツールポーチに片して、こちらへ戻ってきた。あれ、と思っているうちに抱き上げられる。


「ちょ……! っと待って、佑くん」


 思わず、大きな声を出しそうになって、泡を食って声を潜めた。隣へ状況を悟られるのは、佑くんのためにならないだろう。


「仕方ないだろ」

「踵、ほとんど治せてるでしょ?」

「いいから」


 佑くんはそれ以上、私に取り合わなかった。

 けれど、お姫様抱っこで抱き上げられた身体が僅かに引き寄せられる。温もりを求めるような。人との繋がりを求めるような仕草に、私は何も言えなくなった。

 廊下にひとけがなかったことは、救いだっただろう。鬼と金棒。二人がこうしているのを見かければ、要らぬ噂が立っていたかもしれない。

 ……それとも、邪推することもなく、怪我と切り捨てられただろうか。私の行動で言えば、後者のほうが公算は大きい。でも、誰もが逃げ場を探しているような環境では、ちっぽけなことが娯楽になり得る。

 何にしても、目撃されることもなく、私たちは近場の個室に到着した。佑くんは、私を施術台の淵にそっと座らせる。それから、隣に腰を掛けて、上半身を後方へ倒してしまった。

 珍しい。

 だらしのない姿を見ることはなかった。いつも珠装具に目を輝かせている。探究心を持って挑んでいる。そういう姿ばかりを見てきた。

 雑談に興じることも増えたし、以前よりは多彩な表情を見ることになったほうだろう。しかし、こうも行き詰まったような空気になるのは、初めてのことだった。意図せず、いつもどこかそばにあったのだろうけれど。


「……驚かせたな」

「二人が逃亡すること?」

「第一線の珠戦士には、思うところがある話じゃないのか」


 逃げ出す。

 確かに、褒められた行動ではない。

 珠戦士として戦場にいるからには、コロニーを助けたいという感情がある。少なからず、人類のためにという矜持は持っていた。けれども、そのモチベーションを保ち続けるには限界がある。すり減っていく現実に抗う術を持つには、未来に希望がなさ過ぎた。


「……仕方がないよ。終わりはない。あったとしても、終わりは終わりだから」


 このコロニーの。人類の。自分たちの命の。

 それが分かっているから、土台否定できない。そして、互いを想い合っている夫婦が選択することを、どうすれば止められるのかも分からなかった。

 きっと、そんなことはできない。私も、佑くんも。二人の気迫は明白だから。自分たちの心の奥底にも、どこか同じように望むものがあるから。

 ……そうではないとどれだけ前を向いていたって、今していることすらも緩やかな自殺のようなものだ。生きることに杭を打ち込んで留まっておける世界はない。打ち込む先がない。


「いつかの終わりよりも、覚悟の終わりを求めるのはおかしなことじゃない、と思う」

「同意見だよ。というか、あれを翻せる気はしないし、仮に残したところで、俺には不安を取り除く術がない。どれだけ言ったって、先は見えている。生きていることが大切だなんてことは百も承知だけど、もんどり打って苦しんでいるやつらに何の手当ても手助けも誰かに助けを求めることすらできないのに、そのうち痛みは治まるよなんて言えるわけがない」


 平板な声音は、どこか自分を説き伏せているように聞こえた。そう思い込まねば、認めることができない。

 私に返せるものはなかった。手立ては何ひとつないけど、どうかそのまま苦しんで欲しい。最期には死んで楽になれるから。どうすれば、そんな残酷な開き直りにも似た言い分を通せると思うのか。

 佑くんが早々に受け入れて、手を貸すことを決めたのも頷けた。


「……寂しくなるね」


 佑くんが抱いている感傷は、詰まるところそこだろう。

 この世を変えてやろうなんて血気盛んな憤りを抱いているわけじゃない。友人たちへの感情を持て余している。大切にしているから、引き止めない。平気な振りをして、珠装具を請け負う。できることをできる限り。


「そうだな」


 頷いた佑くんの笑みには、ひんやりとした質感があった。胸がきつりと痛む。

 大切な人。大切な人と過ごすこと。想うこと。そうしたものを、佑くんは考えるのだろうか。そう思うと、ずきずきと心臓の痛みは増した。

 私は、と思考が走る。


「もし……、」


 走った一部がすぐに漏れた。反射神経に物を言わせるべきではない。だが、これは反射神経だけのものではないのだろう。

 私はきっと、佑くんに甘えているのだ。そして、求めてもいる。思いついたことを、佑くんが受け止めてくれはしないだろうかと。

 珠装具を愛しているからこそ、それを身につけているものを蔑ろにすることはない。そんな彼が、私をどう受け止めてくれるのか。

 求めている。

 佑くんの特別であることを。


「……もし、和彩が逃げるなら、それも仕方がないと思う」


 それは想像できていた答えだ。一言一句違わない。もし、だけで補完してくれる佑くんは十分過ぎるほどだ。

 それでも、私はまだそこに足りない何かを探している。きっと、佑くんは私でなくてもこう言うと分かっているからだ。

 それ以上を求めている。悲しくなるほどに我が儘で、佑くんを見ていられなくて目を伏せた。

 寝転んだ状態でこちらを見上げていた佑くんの指先が、頬へと伸びてくる。人差し指の背が、滑るように触れた。本当にささやかな触れ合いだ。けれども、心臓は早鐘を打つように高鳴った。


「もし。もし、君が俺を必要とするなら、どこまでもついて行こう」


 ひゅっと息を吸う。かち合ったグレーに飲み込まれそうになる。確然と言い切った佑くんは、その後苦い笑い顔になって、私の髪に触れた。そのまま後頭部を引き寄せられて、ばっくんと心臓が宙返りする。

 近付いた顔は、胸元に押し付けられた。私はその胸元にしがみつく。溢れる寂寥感は何だろうか。噛み締めても噛み締めても、飲み込むのに時間がかかった。

 男女が共に逃亡する。その意味を佑くんが履き違えているとは思えない。その例を見た後の話だ。


「卑怯だな、これは」


 苦々しい音が頭上から降ってくる。胸板に顎を乗せるように見上げると、頭に手を置かれた。短い髪の毛を梳くように撫でられる。間を埋めるかのように、毛先を弄られていた。


「……いいよ、私だって同じだもん」


 好きだとは言っていない。互いに。

 けれども、どくどくと重なり合う心臓の音は、決定的だ。そして、何より、佑くんは冗談でこんなことは言わないと私は知っている。


「佑くんとなら、と思うもの」


 だから、もし、の仮定を口にしてしまった。願わぬのならば、口にする必要すらない。


「良かった」


 和らいだ声が染みる。

 私の頭を抱えるように押し付けてくるので、顔と動作が見えない。温かな息が、額の分け目にぶつかる。触れられているのか。いないのか。分からないくらい微妙な熱がじりじりと脳を焼いた。その胸に抱きついて、力を得る。

 私たちの言葉は、本気であった。けれども、仮定でもあったのだ。逃亡計画は詰められることなく、温もりを分け合う。

 いつか、どこかに。逃げ場がある。いざとなったら、大切な人がそばにいてくれる。そうした確認にしかなっていなかった。それでも、意味はあった。

 彼がいてくれる。絶対的な人がいてくれる。寂しくも悲しくもない。息が整う。

 佑くんを好きになれて良かった。彼がいてくれればいい。一緒に逃げてくれるという。だから、予定が立てられたわけじゃなくても、大丈夫だった。行く先が分かれば得られる安堵はある。

 佑くんがこうしていてくれるだけで、彼のために頑張れると思ったのだ。




 私が戦場で倒れてコロニーに運び込まれたのは、それから一週間後のことだった。

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