紅葉の雨

 今夜は雨が降り、紅葉した葉が街灯の前の傾斜を下るように落ちております。一〇月一六日になると思い出してしまうのです。窓ガラスには私と働き者の優しい兄、人と接することが苦手な妹、厳格な父、体の弱い母の五人家族が映っております。

 あれは確か春頃の事だったでしょうか。兄に異動の辞令が下り、兄は仙台の方に行ってしまいました。私も妹もとても悲しみ、母も寂しさを日々募らせていたことでしょう。毎月必ず兄からは手紙と一緒に仕送りや仙台名物が贈られてきました。私も妹も毎月兄からの手紙を心待ちにしておりました。

 父は兄のことは気にも留めていないようでした。父はお酒こそ飲むことはありませんが、毎晩母に暴力を振るっておりました。

 身体の弱い母は暴力のせいで何度も体調を崩しておりました。私も妹も父に怯えることしかできず、母を庇うこともできなかったのです。今までは兄が父を宥めておりましたので、いかに兄の存在が大きいかを思い知る日々でございました。

 夏の頃でしょうか。母が体調を崩し入院をすることになりました。妹は心配そうに私に「大丈夫かな?」と尋ねました。

 父の暴力が私達に向かないかを心配したのでしょう。震えた声をしている妹の頭を何度か優しく撫でることしかできませんでした。

 母のいなくなった家庭では私が母の仕事を担うこととなりました。仕事から一足早く上がり、家に帰り家事を毎日しておりました。

 父は私に暴力を振るうようになりました。しかし、安心している私もいたのです。この暴力が妹に向かわなかったためです。

 毎日お腹が痛くなり、蹴られた場所がジンジンと刺すように痛み、痣も増えていきました。この頃からでしょう、女としてこの身体の傷を醜く感じるようになったのは。

 妹は毎日泣いては私を心配し、兄や母の名前を口にするようになりました。

 見かねた私は兄に手紙を送ることにいたしました。

「母は体調を崩して入院してしまい、お兄さんは仙台におり妹はとても寂しがっています。一度だけでも帰って来てはもらえないでしょうか」

 確かそんな内容の手紙だった気がします。

 手紙の返事は一週間程で来ました。

「申し訳ございません。今は仕事が忙しく帰省することは難しい」

 たった一文だけ、そう書かれておりました。

 私は人生で初めて嘘をつきました。

「お兄さんは来月に帰ってこれるわよ」

 それを聞いた妹は大層喜びました。久しぶりに見るその笑顔は愛らしく、純粋無垢という言葉をそのまま当てはめることができる程でした。

 しかし、私の顔や腕には痣が増え続け、夏が終わる頃には妹が憎く思えてきてしまいました。私の顔と反対に妹の顔はとても奇麗で、傷一つもありません。

 私も二二の歳です。恋愛やお友達との交流をしたかったのです。

 母の病状は悪化し、このままでは治る見込みがないとまで言われる始末でした。

 家事を全てこなし、父から暴力を振るわれる。こんな毎日に嫌気がさしておりました。

 私は妹に暴力を振るうようになりました。ごめんなさいと何度も謝る妹を何度も叩き、妹が寝静まると罪悪感で涙を流す日々でした。しかしながら、傷が増えていく妹の身体や顔に喜びを覚えていたのも事実でございます。

 父は兄が異動した翌月から出張が増え毎月一回必ず関西の方に出向いておりました。その日だけは暴力を振るわれることは無く、妹と二人ささやかですが、幸せな時間を過ごすことができました。

 今日は父が出張の日だったのですが、痣のある妹の顔を私は直視することができず、仕事が終わると男友達と飲み歩き、家には戻りませんでした。私は母の代わりである以上にこの世に産み落とされた一人の女なのですから。

 早朝に帰ると妹は私を待っていたのでしょうか、机に顔をつけて眠っていました。

 私は妹を布団に運び、いつものように家事を始めました。

 その日の事です。母が亡くなったと連絡が入りました。急いで病院まで向かうと母は窓が開き、涼しい風が吹く病室で奇麗な顔で眠っておられました。

「眠ってるの?」

 妹は不思議そうな表情で私を見つめていました。

「えぇ、今は寝かせてあげましょう」

 私は二度目の嘘を吐きました。私は妹の手を握り病室を後にし、直ぐに父に連絡を取ろうと思ったのですが、夜になっても父が戻ることはございませんでした。

 母が亡くなり、兄にも連絡を入れましたが返事はなく、父もあの日以来戻って来ることはございませんでした。

 お金を稼いでいた父がいなくなり、兄からの仕送りも来ず、私は早朝から仕事をし、夜遅くに帰りご飯を作り、数時間寝てまた仕事という日々を送る事になりました。

 父がいなくなり、暴力がなくなり、穏やかに妹と過ごせるという期待は簡単に散りになり飛んでいきました。

 それどころか日々の忙しなさの中、妹は楽しそうで、幸せそうで、それが憎らしく、妹への暴力は増していきました。父もこのような気分だったのでしょうか。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 何度も謝る妹を何度も叩きました。辛いのが私だけなのは不公平だと思ったからです。

 叩くたびに私の手の甲にも痺れが起こり、妹の顔は真っ赤になりました。

「お姉さんは私が憎くなってしまったの?」

 ある日、涙を流し、髪を乱し、痣で青黒くなった頬の妹が私に尋ねました。

「いいえ、私はあなたが大好きよ」

 そう言うと妹は幸せそうに笑いました。

 妹が眠りにつくと私は妹の頬を冷やし、痺れの残る真っ赤な手の甲で妹の頭を何度も撫でました。

 妹が母が帰ってこない理由も私に毎日聞くようになり、兄が帰ってこないことに拗ねるようになりました。

 私は家に帰るのが嫌になり家を空けることが多くなりました。

 妹のことを考えず外で今までできなかったような新しい経験をしている間は満たされ、幸せそのもでした。

 お酒を飲み何も考えられず上の空になる時間はとても心地よく、お酒が回って熱くなる感覚に酔いしれました。

 男性の大きく熱い手を握り、体に触れる時間はどんなことよりも自分自身を満たすことができました。やっと一人の女になれたのですから。

 家に帰ると少しやつれた妹が眠っていて、その度罪悪感に苛まれるようになりました。

 秋になり、紅葉を眺めることができるようになった頃、兄からの手紙と仕送り、仙台名物は届きました。

 手紙には忙しく家に帰れなかったこと、母の死のことが長くつづられ「すまない」という言葉が端々に描かれておりました。

 手紙を読んだ妹はとても喜び、久しぶりに無邪気な、純粋無垢な表情を見せました。

 翌日のことでございます。兄が事故で亡くなったという連絡が来ました。私はショックから言葉も出ませんでした。しかし、それ以上に奇妙なのが、兄が亡くなったのは仙台に移動した当日の汽車の事故でした。連絡がこなかったのは身分を証明するものが事故で燃えてしまい、誰か判断できなかったようです。

 しかし、確かに兄からの手紙も仕送りも仙台から毎月送られてきていました。私は恐怖に襲われました。誰が送っていたのか、何の為に兄のフリをしたのか見当がつかなかったからです。

 私は母と兄の死を正直に妹に話し、嘘を吐いたことを謝りました。しかし、暴力を振るった事はどうしても喉の奥に詰まり、謝ることができなかったのです。

 妹が何時間も泣き、泣き疲れて眠りにつきました。

 仕送りを毎月していたのは父なのではないかとも考えましたが、父がそんなことをするはずもございません。父は毎月大阪に行っていましたので、仙台から手紙を送ることはできません。

 私は妹に暴力を振るった事を何度も謝ろうと思う度に、その言葉は喉の奥で息を潜めてしまいました。

「私もお姉さんが大好きです」

 妹はそう言うと笑顔で私を見つめました。自然に涙が零れました。その言葉で私は身勝手に妹に許された、と思い込んでしまいました。

 私は妹を何度も強く抱きしめました。

 私は女二人で暮らしていく事に限界を感じ、母方の親戚の元でお世話になる事になりました。親戚の方々はとても温かく、私達を歓迎してくださいました。

 とても不思議な事なのですが、それからも仕送りは何十年も続きました。そして、父の顔を見ることもありませんでした。

 

 私は妹に吐いた大きな嘘を未だに明かせずにおります。そして、未だに謝る事も出来ずにおります。

 母が入院したのは自殺未遂が原因であり、その未遂は愛人との心中が原因でした。最後は後を追うように病室で亡くなりました。

 兄は異動ではなく、結婚を考える女性がいたのですが結婚を父や相手のご両親に反対をされ駆け落ちしたからです。そして駆け落ち当日に事故に遭われました。兄も母も私達のことなど興味もなかったのでしょう。

 なので私が兄のフリをし、隣町で見つけた仙台名物を買い、仕送りと手紙を書き、妹に渡しておりました。妹が字の違いを指摘しなかったのは幸いでございました。

 しかし、日々の忙しなさや妹への嫉妬心から手紙を書かなくなりました。

 父がいなくなった日、私は父の前に立っておりました。父は血を流し倒れて息が浅くなっておりました。私はそんな父を全身の力と体重をかけ、川に流しました。

 ですから、それ以降手紙を送ってくれたのは父でも私でもございません。

 兄からの手紙や仕送りは妹が成人すると途端に無くなりました。

「お兄さん、本当は生きているんじゃない? 死んでいないんでしょ?」

 妹は手紙が届くたびに私にそう尋ねました。

 私はその質問に何も答えることはできませんでした。

 

 何十年もこうして思い出しては考え、後悔してしまうのはこの季節だからでございましょうか。それとも、私の悪い癖でございましょうか。

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