赤と青

 わたしは今日自殺をする為にこの場所に訪れた様な気がするのだ。しかし、その感覚と覚悟は明確な輪郭を得ず、茫漠とした景色の中に落とされていく。学校の屋上からの景色がこれ程奇麗だった事、そんな事すらわたしは忘れていたようだ。この話に正しい結末なんてものは不要であり、正しさを定義する必要もないけれど、わたしが自殺する事に対して誰かが正しさを与えてくれるだろうか。その質問に生物担当の瀬乃先生は誰かの死に対し正しさが付加される事は事ではないかな、と答えた。それも淡々と。雪の降っている日だったような気がする。瀬乃先生にはきっと自殺志願者を引き留めるという考えはないようで、それはわたしにとっては話しやすかったのだ。屋上に吹く風は冷たくて頬が冷え切っていることは触らずとも感覚で分かった。

 君はどうして死にたいのかな、と瀬乃先生がわたしに聞いた事があった。この世で簡単に叶えられる願望であり、何より死ぬという事実に興味があった。興味本位で死を選ぶのは少々軽率ではないかな、と瀬乃先生は答えた。客観的に軽率という事は主観ではとても重要であるという事がより理解をすることができた一言だ。瀬乃先生は続けた。人間は動物とは違う、死んでも標本にされ後の学習教材にはなり得ない、人間の死など基本的には無意味な事なんだよ、と。死んだらどうなるのか瀬乃先生は気にはならないのですか、とわたしが問うと死んだらその興味そのものすら忘れてしまうからね、死んだらどうなるかというのは永遠に分からなくていいんじゃないか、と答えた。薄情だなと告げたわたしに瀬乃先生は人間は大概薄情だよ、と優しく標本を撫でた。僕は死んだ何かに興味があるんだ、生きている何かではなく、と言った。その理由を瀬乃先生はこう述べた。死んだ何かは何も否定する事はしない、粛々と受け入れてくれると。だから、瀬乃先生はいつもいつも標本を愛でているのですね。そうだね、せっかく死んでくれたのだから愛でないと可哀想だ。校舎には吹奏楽部の演奏するショパンが流れていて、瀬乃先生とわたしの間にも何かロマンティックな感覚が流れていたような気がする。わたしは入学当初から瀬乃先生が好きだった。標本をただ優しく愛でる瀬乃先生が。奇麗に手入れされた瀬乃先生の爪がわたしはとても好きだ。瀬乃先生はわたしに興味は全くないのですか、と尋ねると、死に心酔する君には少なからず興味はあるよ、と答えた。わたしはその言葉がどんな言葉よりもわたしの飢えを満たした。

 夜の校舎に侵入するドキドキする感覚はいつまでも忘れる事はできなそうだ。侵入とは言っても鍵が閉まる前に教員用玄関から入り見つからない所で先生たちがいなくなるのを待つだけだ。生物研究室の扉を開けるといつものように炭酸水をデスクに置き、作業をしている瀬乃先生がいた。

「もう下校時間は過ぎているぞ」

「いいの、ルールか瀬乃先生ならわたしは瀬乃先生を選ぶから」

「光栄の至り」

 わたしはソファに腰を掛けると、瀬乃先生を一度見つめてみた。瀬乃先生奇麗だった。それは星とか月とか海とかそういうのではなくて、どちからといえば奇麗という曖昧な言葉そのものの象徴のように思えた。

 わたしも標本になれればいいのにな、と足をバタバタさせながら瀬乃先生に言うと、人間は標本にはできないよ、と真っ当な返しが飛んできた。これが愛情表現だということを瀬乃先生は理解していないのだろうか。瀬乃先生はやはり標本にしか興味がないのだ。だけれど、わたしが瀬乃先生を愛し心酔しているかというと違う。わたしが愛しているのも心酔しているのも死だけだ。だから、わたしを愛してというのは傲慢極まりない。

「瀬乃先生は恋人作らないの?」

「僕が女性に興味が持てるようになるとは思えないね」

 それは何だか嬉しく思えた。瀬乃先生を誰かに取られることもないのだから。今のところは瀬乃先生はわたしの拠り所なのだから。きっかけなんて大層なものは無かった。一目でわたしは瀬乃先生が好きになったのだから。瀬乃先生はこうしてわたしが忍び込んでも怒る事も追い出すこともしない。わたしを無条件で受け入れてくれる。生物研究室から見えるグラウンドでは今日も野球部とサッカー部が感覚を広く取り合いながら練習に励んでいる。もう夜だというのに大したものだ、と少し上から目線で眺めてみた。たまになら許されるだろう。瀬乃先生は作業に集中している間はわたしには見向きもしない。その間、わたしはわたしについて考えてみるのだ。支離滅裂なわたしの感情はいくらまとめ上げようと試みてもまとまることは無く、枯葉みたくカサカサと宙を舞うだけだ。標本になってみたい、なんて願望は誰も叶えてはくれなくて、瀬乃先生ですら気味悪がるだろう。しかし、一定数はいるのではないのか。わたしのように標本になり奇麗なまま保管されたいと考える人が。思えば、今日は自殺をしに来たはずなのだが、結局またこうして瀬乃先生の元に来てリラックスをしてしまっている。今日は絶対自殺をしてみよう、と何度自分自身に唱えたことだろう。      

わたしの中には赤と青が存在する。対照的なその色彩がわたしの葛藤の癌の元になっているのだ。赤と青が葛藤している時はどうしたらいいですか、と聞いたら瀬乃先生は直ぐにこう答えた。混ぜてみればいい、自然と願望の強い方の色味が勝るから、と。しかし、私の結果は赤と青だったのだ。きっとこれは葛藤ではなく、共存なのだと気づき、わたしは自殺をしてみようという気分になったのだ。自殺をする人が必ずしも何かに困っていたり、何かに追い詰められているという事はないのだ。わたしのように興味と気分と感覚で死のうと考える人もいるのだから。赤と青と新しく別の色味があったのならきっとわたしの選択は変わっていたはずなのだけれど、裏腹に赤と青しかわたしには現れなかった。赤と青に塗りつぶされたわたしの臓器が胎動を繰り返して、わたし自身を蝕んでいっている事は心臓に聞けば直ぐに分かった。鼓動も胎動も同じような感覚の中に沈んでいて、それらを掬い上げることが出来れば、わたしは赤も青も認めてあげる事が出来るのになんて考えてみる。

「僕の脳には硝子の破片が散らばっていて、その全てが僕の正常を邪魔するんだよ」

 瀬乃先生はコピー機に手を伸ばすとわたしにそう言った。わたしは想像した。瀬乃先生の前に立ったわたしは手汗をスカートで軽く拭いて、ローファーで窮屈な足を上に伸ばして、背伸びをする。その際わたしの手は瀬乃先生の二の腕を強く掴んだ。瀬乃先生はいつもの表情のままで、それが少し憎らしく映る。わたしの唇が瀬乃先生の唇に勢いを孕んで密着する。瀬乃先生は拒むことも喜ぶこともなく、わたしが唇を離すのを待つのだ。

「正常な人なんて、わたし見たことないです」

 わたしは衝動を想像の域に力を込めて押さえて、やっとその言葉が口から空気程に軽く瀬乃先生に耳に伝った。瀬乃先生は軽く鼻で笑った。勿論、それは呆れとかではなくて瀬乃先生なりの称賛だという事もわたしはよく知っている。外からは窓越しにでも野球部とサッカー部の掛け声がよく聞こえて来る。ついでに消防車のサイレンがアクセントを加え、それらが交じり合って抉られた臓器の温かみを感じている気分にすらなった。そんな感覚に酔ってしまって、わたしは足を地につけたままソファに上半身を寝かせた。瀬乃先生は冷蔵庫から炭酸水を取り出し、わたしの猫のマグカップに注いだ。炭酸が弾けるその光景は干上がった海から魚が水を求めて跳ねているようで気持ち悪いし、あまり好きではない。瀬乃先生はそれを知っているからか炭酸が弾け終わり、平になった頃にわたしの前に置いた。炭酸水はナチュラルメイクに似ているような気がするからわたしはそこだけは気に入っている。わたしも本来ならもっと唇も赤くしたいし、アイシャドウもアイラインも濃くしたいのだ。だけれど、瀬乃先生は動物のありのままが好きなのだ。皆ムダ毛と言って毛を処理する人が多いけれど、ムダ毛も本来生物に備わっているのだから僕は好きなんだ、と呟いてた事があった。そう言う瀬乃先生はムダ毛を奇麗に処理していてわたしは笑ってしまったのだ。瀬乃先生にとってのムダ毛処理は少しでも正常に近づこうとする意志の表れに違いない。わたしがほぼすっぴんで生きているのは瀬乃先生の影響で、でもそれが嫌だとは思わない。化粧をしないのだから人一倍肌のケアはするようになったし、肌も前よりは奇麗になったと自負している。それなのに瀬乃先生は全くわたしを意識しようとしないのだから、困ったものだ。わたしが快楽自殺志願者でなかったのなら瀬乃先生はわたしとこうして話をする事すら拒んでいただろう。瀬乃先生が人間に興味を持たないと言っても、結局は瀬乃先生は人間であり、男性である。全く興味を持たない方が難しいのではなかろうか、と思う人が大多数なはずのだ。勿論、私もそちら側だったのだけれど、瀬乃先生がわたしに勃起不全だと教えてくれてからは瀬乃先生は本当に人間に興味がなく、標本を心から愛しているのだと理解させられて、付け入る隙など無くなってしまった。瀬乃先生の肌の上を滑っているわたしは瀬乃先生にはどう見えるのだろうか。

 屋上はとても涼しかった。吹いてくる風はわたしの頬を滑っていく。ケアのおかげでほとんど目立たない毛穴の上は風も滑り心地がいいはずだ。朝早く起きていつもなら適当に選ぶ下着も一時間程悩み、スカートの丈も何度も鏡で確認して、入念に気合を入れたはずなのに、やっぱりわたしには勇気は出なくて残り掛けの夏を一人で食べることになってしまったのだ。わたしの中の蛇口が捻られて、水が流れ出していくのと同時に屋上の脇から下を覗き込んだ。足は震えていなかったのだけれど、手と足に少々汗が滲み、少し気持ち悪いのを我慢して、一歩ローファーを後ろに戻す。

 わたしの中には赤と青が存在する。分かり合えないその赤と青はぶつかり合ってわたしの中を髪を暴力的に切るように乱していく。そんな時はわたしは気分で死にたくなって、気分で死ぬ事を辞めようと思える。わたしの心の代弁者は誰も居なくて、その代わりに瀬乃先生がわたしの心を満たしてくれている。

「僕は少なくとも君には興味が湧くよ」

「わたしが死んだら標本にしてくれますか?」

「それはできないよ。僕が標本にするのは僕が愛した対象だけだからね」

 わたしは青だった爪に赤のネイルを施し、スカート丈を少し短くして、眼鏡を外して、黒だったニーハイを白に変えてみた。イメチェンという訳ではない。

 わたしはいつものように登校し、上履きのローファーに履き替え、暗くなった生徒用玄関を北側に進み、二階まで上がり、突き当りの生物研究室の扉を開ける。

 瀬乃くんはいつもと何も変わらない表情でわたしを迎え入れた。今日も瀬乃くんは変わらず標本を愛でている。邪魔だったかな、とわたしが尋ねると、邪魔と分かってても君は入って来るだろ、と不愛想に呟いた。わたしは新しく並べられている魚の骨の標本に見惚れて、暫くそれを眺めていた。瀬乃くんは冷蔵庫から炭酸水を取り出し、それを猫のマグカップに注ぐと魚の標本とわたしの顔の合間にそっと置いた。蛇口からポタポタ垂れる水のように、変に割れた氷のように、瀬乃くんはいつも憎らしいのだ。

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