夜の話

 夢を見ていた。ような気がする。正夢にすらなりようもない青くて寒くて、それでいてどこか新緑にも似た夢を。真っ白な天井に暖色の小さな明かりが仄かに点いている。カーテンの隙間から太陽光が射し、朝だと理解をする。腰をゆっくりと上げ、ベッドの真横にあるカーテンを開くと青い空が視界を目一杯埋めていく。窓から下を見下ろすと庭があって、花壇もないし木も植わっていないけれど、三坪程あるこの庭は奇麗な緑に発色している。ベッドから出て洗面所に向かい、まず最初に顔を洗う。冷たい水が頬に張り付き、朝の気怠い表情を引き締めていく。歯磨き粉はミントの味のする歯磨き粉で、砂利のような食感が口内を巡り、朝の気持ちの悪い口内は清々しさを帯びていく。跳ねた髪に軽く水分を補給させてからくしで梳かしていく。横からは洗濯機の回る音が聞こえ、後ろの方からフライパンで何かを焼いている音が聞こえてくる。リビングの扉を開けると、お母さんが朝食を作りながらおはよう。と言う。それに続くようにテーブルに座ってニュースを見ているお父さんがおはよう、と言う。自然とおはよう、と口から洩れた。飼い猫のミリが駆け寄ってくると、愛らしくて直ぐに頭を何度か撫でた。いつも朝はミリと遊ぶのに夢中になって学校に行くのが遅れてしまう日もあるのだ。その度にお母さんは仕方ないわね、と笑っている気がした。

 テーブルに着くとスクランブルエッグとベーコン、レタスのサラダ、サンドイッチ、オレンジジュースが並び、どこかのホテルのモーニングを食べているようで心が躍った。隣にはお母さんが座って、真正面ではお父さんがサンドイッチを頬張っている。お母さんの作るスクランブルエッグはふわふわしていてスイーツを食べているような気さえしてくる。いつかお店でも開けば? と聞いたことがある。お母さんはそれもいいかもね、と少し誤魔化すように笑った気がした。お父さんはご飯を食べ終わると、あ! と何かを思い出したように日めくりカレンダーを一枚捲った。カレンダーは一〇月一六日を示している。お母さんは出窓に置いてある観葉植物に水をやり、お父さんはネクタイを巻き始めた。いつもならお母さんに早く支度しなさいと言われる時間だけれど、今日は学校が休みだからゆっくりと朝食を食べてみた。ミリはもうご飯を食べ終えている時間だけれど、なんだか羨ましいそうにこちら見つめている。ミリはこの家に来た時から食いしん坊なのだ。フォークでレタスを刺すとシャキと少し音を立てて水分が滲み出た。控えめにかかっているイタリアンドレッシングのいい香りと一緒にサラダを頬張った。サンドイッチには今日はフルーツが入っていて本当にホテルのモーニングのようだ。あ、でもホテルのモーニングはパンケーキとかが出るのかな?

 サンドイッチのパンは厚みがあってとても柔らかかった。パンの甘みが口に入り、オレンジの甘酸っぱさでバランスがとても取れていた。朝食を食べ終える頃、準備の終わったお父さんが行ってきます、と元気な声で発した。お母さんと口を揃えていってらっしゃいとと言ってお見送りをする。お母さんは洗い物を初めて、邪魔にならないように部屋に戻った。

 夜は夢を見ていた。ような気がする。正夢にすらなりようもない青くて寒くて、それでいてどこか新緑にも似た夢を。途切れたその夢は激流のように流れてきて、刹那の内に滝つぼに沈んでいった。ベッドの脇に置かれているデジタル式の時計には一〇月一六日 二二時と表示されている。カーテンを開けると、青い空の代わりに真っ青な空があって太陽の代わりに雲に陰り始めている月があった。窓の前に高く、感覚を揃えて生えている木が風で揺れてカサカサと音を鳴らしている。真っ白な天井の中心に設置されている電気は真っ暗に消えていて、夢で見た暖色の小さな明かりはなかった。夜はそれが悲しい事なのか寂しい事なのか、全然わからくなくて、ベッドに、戻った。夜は一度起きてしまったせいで眠れなくなった脳をせめて休ませるように難しいことを考えるのはやめようと思う。もしかしたら気のせいかもしれないけれど水滴が垂れる音が少しだけして辺りを見るけれど別段変化はなくて、相変わらず木々だけは揺れていた。夜は覚束ない視界と足元の中、ゆっくり足をドアの方向へと勧めていく。スリッパをこする音が部屋に響いて気分が悪くなりそうだった。ドアの前に立ってドアの溝に手を掛け、力を込めて右に引いてみたけれど、やっぱりドアは開かなかった。夜は丸い鉢に植えられた枯れた花を愛でるうちに、また少しだけ眠気が来た。ギィとベッドが軋む音と一緒にベッドに横になった。枕があまり合っていなくて首が痛くなる。パジャマに少し汗が滲んでいたことに気づいた。あの夢はうなされるような夢だったろうか。きっと確かにそこに存在しているけれど、不明瞭な幸せを体現した夢だったと思うのだけれど。夜は近くのテーブルに置かれているコップ一杯の水を飲み干すと同時に、急に眠たくなってきた。

 目をゆっくり閉じて考えてみた、少しだけ。夜と朝ではどちらが美しいのだろう。夢で見た朝は現実の朝と同じだろうか。夜は夜しか体験したことが無いから、いや朝を体験したのなんて随分前の事で覚えていないや。夜はきっと美しいのだと思う。と夜は思う。静かだし、風も優しくて、月とか星とか奇麗なものが多いから。朝陽はどんなもので、夕焼けはどれほど奇麗なのか、気になってしまうけれど、羽の千切れた鳥と同じで、朝焼けや夕焼けに舞うことはできないのだ。月が雲に陰り、空は真っ暗になった。そんな夜空は見ていたくなくて、カーテンを閉めてみた。この室内も然程変わりはなくて、必死で眠ろうとした。こんな時不思議に思うのだ。眠れそうだと思って目を閉じるのに、全然眠れなくて、起きていたい時は目を開けていても気づいたら眠ってしまっているのだから。そういったことから目は逸らしていたくて、夢を見続けることの方がきっと楽なのだと思う。

 この前読んでもらった本に、わたし、ぼく、という呼び方があった。だけれどそれをどう使い分ければいいのか夜には分からなくて最後まで話の内容は入ってこなかった。聞いてみたらわたしは女性が主に使って、ぼくは主に男性が使う、もちろんれいがいもあるけどね、と言われた。そう言われてもわからなかった。男性なのか女性なのかどの基準で分ければいいのか分からなかった。

 ぼくは夜が好きです。わたしは夜が好きです。何度反復しても違いが分からないのだ。そうやって困っているとどちらでも好きな性別になればいいと言われた。顔も奇麗だし、髪も長いし、どちらかと言えば女性かな? と付け足してくれたのでとりあえずは女性という事にしておいた。いざ、わたしと使うのはなんだか不気味で、ぼくと使うのも不気味だった。だから夜という呼び方をすることにした。そう伝えると、名前みたいでいいじゃないと言ってもらえた。頻繁に使おうとすると不気味になるから少しずつ使ってみようと思う。やっと眠れそうだ、夜は時計を確認しようとするけれど、また眠れないと困ると思い、そのまま目を閉じておくことにした。夜の話は今日はここまでにしようと思う。

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