第4話 可憐の正体

 可憐は、本当に家族のことを、

「心配した」

 という意識はなかった。

 というよりも、

「私は、人間というものに対して、

「悲しい」

 という態度を取ったことはない。

 いや、それは、少し言葉足らずだったかも知れない。

 というのも、

「ドラマや、本や、マンガなどでは、人が死んだりした時、悲しいという感情を抱いたことがあった」

 というのであった。

 特に、恋愛ものなどでは、感動したものだ。

「まだ、中学生なのに?」

 と思われるかもしれないが、

「もう中学生だから」

 というのである。

 小学生の頃と、まったく違った感覚になっている可憐は、なぜか、リアルな友達や、家族に対しては、とても冷たかった。

 友達が死んだときは、少し悲しかったような気がしたが、自分が悲しい気分になる前に、まわりの人が、

「オンオン泣くものだから、こっちが泣く隙を与えないとでもいうのか、悲しむ暇もなかった」

 といってもいい。

 家族の時もそうだった。

 他の家族が泣くものだから、先に泣かれてしまうと、完全に興ざめしてしまうのだった。

「本当は、そんなくだらない先陣争いのようなものではないはずなのに」

 と心の中で思うのだが、そこで悲しんだとすると、

「自分の気持ちが許さないのだ」

 ということである。

 だが、それは、家族に対してだけだった。

 家で、飼っていた犬が死んだ時、家族も皆悲しんでいたが、そんなまわりの憚りもなく、泣きわめくようにしていたのが、可憐だったのだ。

 確かに可憐が一番面倒を見ていたし、可愛がってもいた。

 癒しももらっていたし、その思いが、犬にも通じていたのだ。

「家族が死んだ時、涙一つ見せなかったくせに」

 と、さぞかし思われているだろう。

 と感じるのだが、そこは、どうしようもない。

「犬が死んだことが、本当に悲しいんだ」

 というのだが、

「じゃあ、家族が死んだ時は?」

 と言われたとすれば、

「そんなもの関係ないわ」

 と言ったに違いない。

「どうして、家族が死んで悲しくないのか?」

 と聞かれると、たぶん、

「悲しくない」

 と答えるだろう。

 まわりの反応というのも、しかるべきなのだろうが、それ以外にも理由があるような気がする。

 それを考えると、まわりが、

「どうしてあの子は、あんなに天邪鬼なのかしら?」

 と言われているという。

 つまり、

「正反対の感情が生まれているのかも知れない」

 と感じるが、果たして、本当にそうなのだろうか?

「犬との違いをいかに考えるか?」

 ということが、可憐の正体に繋がっているのかも知れない。

「感情が正反対」

 ということは、

「天邪鬼だ」

 ということと同じ発想で、

「二重人格なのではないか?」

 ということにもつながっていく。

「ジキルとハイド」

 という話を読んだことがあるが、

「まさにそれではないか?」

 と、可憐は感じるのだった。

 二重人格というのは、自分ではなかなか分からないもので、

「ジキル博士」

 と呼ばれる、心優しく、そして、頭の良い人間は、本当の可憐と同じなのだろうか?

 ということである、

 もし、そうでないのだとすれば、卑劣で、

「悪の限りを尽くす」

 というべき、

「ハイド氏」

 と同じだとすれば、動物や、架空のものに対しては、気の毒に感じるのに、リアルな付き合いのある人間に対しては、絶えず、

「他の人と自らを比較する」

 ということで、自分の態度を決めようとするのは、

「卑怯なことだ」

 といえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

 そんな、

「どっちつかずの態度」

 であったが、それは、

「どこまで冷静になれるか?」

 ということが、自分の発想となるのだろう。

「どちらが、本当の自分なのだろう?」

 ということを考えていると、

「可憐が自分をどのように考えているのか?」

 ということが分かってくるような気がする。

 中学時代までは、

「お前は人にバレてはいけないものを持っている

 と言われていたことを、ずっと気にしていた。

 小学生の高学年の頃から、

「バレてはいけないものとは何なのか?」

 と絶えず考えていた。

 それは、

「自分が意識として持っているものなのか?」

 それとも、

「意識して持っている」

 というわけではなく、

「無意識に抱えているものであり、それが、何かの反動で現れるものなのではないか?」

 と考えるようになると、それが、

「ハイド氏」

 ではないかということであった。

 ハイド氏は、決して表に出てくることはなく、

「いつか表に出る日を待ち望んでいる」

 ということであろうが、その時が本当に来るのだろうか?

 もし来るとすれば、その思いは、いかに表に出せばいいのか? いや、いかにして、表に出るべきものなのか?

 それによって、表に出るものと、後ろに隠れているものが別れてくる。

「表に出ているものは一つだけ、もう一つは必ず、裏に隠れているものであった」

 ということである。

 現代における、

「ジキルとハイド」

 まさに、可憐はそんな存在なのかも知れない。

 可憐は、最初、自分のことを二重人格だとは思っていなかった。どちらかというと、

「何かのつきものがついているのではないか?」

 と思っていたのだった。

 何か、オカルト的な発想であったが、そもそも、

「二重人格」

 というのも、どこか、オカルト的な発想でもあったのだ。

 この時に感じた、

「つきもの」

 というのは、何か、

「ご先祖様の霊のようなものではないか?」

 と思うのだった。

 小学生の頃、妖怪や、霊などというものが、流行っていた。

 昔のような、恐ろしいものではなく、

「学校の七不思議のようなものではあったが、都市伝説というよりも、何かの守り神的な発想があった」

 ということであった。

 小学生の頃など、

「トイレに、妖精のようなものがいる」

 というウワサが蔓延ったことがあった。

 そのウワサが飛び交った時、それらのウワサが、飛び火していたのか、

「学校の先生も、信じて疑わない」

 という状態だったようだ。

 だから、先生も、怖がっているわけではなく、むしろ、

「守り神だ」

 と思っていたようだ。

「昔の妖怪は、怖いものばかりではなく、いてくれるだけでありがたい妖怪だっていたんだ」

 という話だった。

 特に言われているのが、

「座敷わらし」

 と呼ばれるものであった。

 座敷わらしというのは、

「家に憑いている、家の守り神と言われるような、子供の妖怪」

 だという。

 それらの妖怪は、家にいることで、

「家の繁栄が守られている」

 と言われていて、その姿を見ると、

「大金持ちになる」

 と言われていた。

 しかし、実際に、そんな座敷わらしというのが見えたのだろうか?

 そのあと、座敷わらしがいるという気配がなかったりすると、家が落ちぶれてしまうという。

 それを考えると、確かに、家が落ちぶれたのは、

「座敷わらしがいないからだ」

 といえるだろうが、逆に、座敷わらしが、いなくなったのかどうかというのを、誰がどのように証明するというのだろうか?

「座敷わらしというのが、いなくなったことで、家が潰れたのだ」

 ということが実しやかに叫ばれるようになったから、座敷わらしに対しての評判が、凝り固まった形になって表れたのではないだろうか?

 そんなことを考えてみると。

「家が繁盛するかどうかということを、何かの理由にしようとすることで、担ぎ上げられたのが、座敷わらしだということになる」

 ということなのだろう。

 座敷わらしのように、

「いい妖怪」

 も確かに少しはいるだろうが、どうしても、妖怪というと、ロクでもない妖怪が多いということになるだろう。

 似たような話は日本だけではなく、海外にもある。

「ジキルとハイド」

 という話も、このあたりから結びついたのではないだろうか?

 自分が、

「二重人格」

 であったり、

「何かつきものがついている」

 ということであったりと、オカルトチックであったり、性格的なものが影響しての、普段から、うまく行かないものが、

「どこまでが自分の正体なのか?」

 と考えているうちに、今度は、

「自分が何か病気なのではないか?」

 と考えるようになった。

 中学生なので、精神疾患といっても、正直よく分かっていない。図書館で、本を読もうとしたが、結構難しい。

 かといって、他の人、ましてや、自分の直近としての、親や学校の先生に聞くというのは、憚る気がした。

 そんな話をして、

「本当に、どこかおかしい」

 と思われてしまうと、自分でも、どうしていいのか分からなくなってしまう。

 それを思うと、

「直近の人に相談もできない」

 と考え、子供心に、

「孤立してしまった」

 と思えてしまうことだろう。

 確かに、精神疾患というもの、基礎的なことが分かっていないと理解できないこともあった。

 図書館で、少し精神疾患に関しての本を読んでみた。

「主に、気になったのが、鬱病関係の本」

 だったのだ。

 鬱病というのが、どうして気になったのかということであるが、

「二重人格性」

 というもの、特に、

「ジキルとハイド」

 を考えた時の、

「正反対の性格を併せ持つ」

 というものが自分にあると考えたからだった。

 特に最近感じるのは、

「夢を見た時、目が覚めるその瞬間に、夢というものを忘れていく中に、今回の夢が、ジキルなのか、ハイドなのか?」

 ということを考えているということであった。

 夢の内容を、ところどころで感じるのであるが、

「どうしても、思い出せない夢と、忘れることができない夢」

 というものがあることに気が付いてきたのだった。

「最初に感じたのは、思い出せない夢というものが、本当の自分なのだとすれば、忘れることができないものは、

「その本当の自分を思い出すことができるためのものではないか?」

 というものではないかということであった。

 もちろん、本当の自分というものを、自分で意識していないということなのは、

「思い出してはいけないものだ」

 ということなのかも知れない。

 思い出すということが、いかに、自分の中で大変なことなのかということを考えると、

「それを、夢というものが、解決してくれるのではないか?」

 と思うと、

「夢というのも、おろそかに考えてはいけない」

 と思うようになったのだ。

「夢を見ることが、いかに大切なことなのか?」

 ということを、おぼろげに感じさせるようになったのは、内容をほとんど忘れてしまっていたが、

「自分に何かの忠告をしてくれる、あの老人が現れた時だったのだ」

 といってもいいだろう。

 あれから、出てきたのかどうか分からないが、それだけに、自分の中で記憶として、色褪せる相手ではなかったのだった。

 この間、例の老人が、夢に現れたことがあった。

「あれは、今朝の夢だったのではない気がする」

 と、すでに、いつの夢だったのかということを感じるくらい、記憶が曖昧になっていた。

 そもそも、今朝の夢以外のことを、何日か経って思い出すというのは、おかしなことに思えた。

 今朝の夢のことでも覚えていないということが多いくせに、簡単に思い出せないということは、それだけ、

「夢における時系列というものが、曖昧だ」

 ということなのであろう。

 しかも、その時系列というのが、

「見た夢の中でのことなのか?」

 あるいは、

「目が覚めるにしたがって次第に忘れてしまった」

 と考えているものも含めてのことなのか、そのあたりのことが、自分でも、よく分からなくなっていたのだ。

 だから、夢の中での曖昧な時間の感覚というものは、

「時系列」

 ということだけではなく、

「夢の内容に感じている、リアルな部分での時間の長さ:

 というものと、

「実際に、意識が記憶として、格納しようとしている、記憶の格納に使われる時間の長さというものが、本当に比例しているものなのだろうか?」

 という考えであった。

 さらに、それらを組み合わせることによって感じるものとして、

「記憶として格納する部分と、現実に引き戻される時に、忘れていくというその長さは、比例しているのだろうか?」

 と考えさせられるのだ。

「曖昧という言葉だけで、片付けていいものなのだろうか?」

 と思い知らされる。

 そんな時に、目の前に現れた老人であるが、普段なら、

「こんな発想は、夢を見ている間に感じることではない気がする」

 というものであった。

 というのも、

「同じような夢を、一度目が覚めたにも関わらず、その続きとして見ることができるのだろうか?」

 というものであった。

 同じ老人が現れたといっても、同じ情景を、再度見ているわけではない。

「確か、以前に見たその時の夢というのは、肝心なところまで聞けなかったのではなかったか?」

 と思わせる。

「ただ、思い出せないだけなのか、本当に、肝心なところで目が覚めてしまったということなのか?」

 そんなことを考えていると、

「答えが出ないことを、曖昧さという言葉で片付けていいものなのだろうか?」

 と感じるのだった。

 ハッキリとは分からないが、

「夢を、最後まで見ていて、途中で目が覚めたと錯覚しているのではないだろうか?」

 と考える。

 これはあくまでも、信憑性のない曖昧なものなのだが、だからこそ、

「同じような夢を、しかも、その途中から見れる」

 などということが言えるのだろうか?

 それを考えると、

「もう一度、ここで同じ老人が出てくるというのは、それだけ、自分の中での潜在意識が、怖い夢と同等の、いや、それ以上の意識を、その老人に感じたのかも知れない」

 ということであった。

 ただ、問題は、

「その老人個人のことなのか?」

 それとも、

「その内容にあるのか?」

 ということではないだろうか?

 二度目の夢に出てきたその老人が、前に見た夢の老人なのかどうか、最初から分かっていたわけではない。

 ただ、

「はて? どこかで?」

 という感覚があったのは、間違いないような気がした。

 実際に、その老人が、

「あの時の老人に違いない」

 と感じたのは、その老人が喋り出した時だった。

「夢では、声が聴けるわけはないのに、喋っているという感覚があり、声の質を感じたような気がした」

 ということからだった。

 そもそも、それが、夢であると感じたのも、考えてみれば、不思議なことだった。

 その時のことが夢だったのかどうかは、

「目が覚めてから気づくもの」

 であって、

「だから、目が覚めるにしたがって。その日、夢を見ていた。見ていないということを感じるのだ」

 ということであった。

 つまりは、目が覚めている間には。

「夢を見たのかどうかすら、意識の中にはない」

 ということで、目が覚めてしまってから、

「夢とは絶えず見ているもので、ただ記憶にないだけのことだ」

 と考えるのだ。

 どちらの考え方も、一長一短の信憑性があり、記憶にあるかないかということとは、少し違っているのだろう。

 しかし、

「夢の中で、現実で感じるようなものを、感じることはない」

 ということから、

「色、声、形、臭い、味」

 などという、

「五感として感じるものを、味わうことはできない」

 と考えていたのだった。

 目の前に現れた老人が、その時、面白いことを言った。

「わしは、夢の中の住人だから、おぬしたち人間のように、時間に縛られる生活をしているわけでなない」

 というではないか。

「じゃあ、どういう生活をしているんですか?」

 と聞くと、

「それは、おぬしたちが、普段から自由として、考えていることじゃあ。だが、自由といっても、そのすべてではない。何しろ夢というものだって、すべてを。自分の思い通りにできるものではないだろう? 例えば、空を飛べないと思っているのに、夢の中であっても、結局。空を飛ぶことはできないものだ」

 というではないか。

「じゃあ、あなたも空を飛ぶことができないのですか?」

 と聞かれると、

「いいや、できるのさ。さっき言ったように、普段から、自由と思っていることだと言ったではないか。夢というのは、その自由に至りたいとは思うが、潜在意識に邪魔される形で、夢というのを見るから、五感で感じるものを味わうことができないということになるのさ」

 と、老人は言った。

「なるほど」

 と言いはしたが、どうにも納得に歯切れが悪い。

「どこまで意識をすればいいのか?」

 可憐は、老人が何を言いたいのか、考えてみることにした。

 いろいろ考えてみたが、

「自分の見ている夢というものと、老人のいる世界とでは、同じところなのだろうか?」

 と、まずは考えてみた。

 少なくとも、

「五感を感じることができる夢など、今までの夢というものに対しての概念とは違うものだ」

 ということを感じていた。

 老人がいう。

「時間に縛れる」

 というのは、どういうことなのだろう?

 起きている時であれば、

「限られた時間において、やることが多く、キャパオーバーなどという状況になった時のことではないだろうか?」

 と感じるのだった。

 だが、どうも、老人のいう、

「時間に縛られる」

 というのは、そういう発想ではないようだ。

 何と言うか、

「もっと幅の広い感覚」

 ということになるのだろう。

 この場合のような、

「縛る」

 という発想は、

「縛る側と、縛られる側」

 で、それぞれの見方が同じなのだろうか?

 さらに、その状態を表から見たりすると、どのように写るというのか、それぞれの立場からの目線において、かなり違ってくるような気がする。

 それぞれがお互いの目で見る時、まず考えられることとして、

「すでに、最初から立場が違うので、目線自体が違っている」

 という発想である。

 これを、

「主従と考えるか、優劣と考えるかによって、見方が違ってくる」

 といえるだろう。

 もし、主従と考えるのであれば、お互いの立場は、二種類の考え方ができるのではないだろうか?

 額面上の、

「主従」

 という考え方となるならば、

「その視線は、お互いに目の前にあるもの」

 つまりは、

「上下関係として考えられる」

 ということだ。

 ただ、この場合は、お互いの関係性がかなりの結びつきでなければ、いけないだろう。

 封建制度などというのも、

「主従関係の代表」

 といってもいいだろう。

「領主が領民の生命や土地を保証する」

 ということから、今度は、

「領民が、領主に対して、領主が何か戦を起こす時は、自分たちが馳せ参じて、土地を守るために、命がけで戦う。さらに、与えられた土地で上がったコメなどを、年貢として、領主に納める」

 ということが義務となるのだ。

 つまり、

「お互いに権利があれば、義務もある」

 という考え方になる。

 そのためには、主従関係というのは、

「主が上であり、従は、下」

 という上下関係がしっかりしていないと、うまく行かないということになるのだった。

 この考え方は、

「お互いに見えているものが違う」

 つまり、

「見ている高さが違う」

 ということである。

「上から見下ろす場合の見え方と、下から上を見上げる時に見えている距離では、同じ距離であっても、まったく違った感覚になる」

 といえるだろう。

「上から見る方が、距離は遠く、下から見上げる方が、近くに見える」

 というものだが、

「高いところに対して、人間は、恐怖を感じる」

 という発想から来ているのだが、それもひょっとすると、

「この主従関係を、素直に受け入れる考えができるようになるまでの、道にあるものだ」

 と考えれば、

「見え方が違う」

 というのも当たり前だというものだ。

 確かに上から下を見た時、恐怖感を感じるが、この恐怖感は、自然と備わっていた。つまりは、

「遺伝的な要素が大きい」

 というものなのか、それとも、

「遺伝というわけではなく、成長の過程において、そのような発想が生まれてくるということであれば、それが偶然なのか、必然なのか、分からないだろう」

 といえる。

 しかし、これが、

「主従関係」

 というものの副産物のようなものだ」

 と考えるとすると、そこにあるのは、

「必然性」

 というものではないか?

 ということであろう。

「封建制度」

 のような、社会体制であったりするものは、その、

「上下関係」

 というものを、ある意味、必然として考えなければ、生きていけないというところにあるのだろう。

 さて、さらに、

「主従関係」

 というものを考えた時、

「SMの関係」

 というものも、れっきとした、

「主従関係」

 といえるだろう。

「SMの関係」

 と言われると、いろいろな誤解を受けたり、露骨に敬遠されたりということも多いだろう。

 何と言っても、

「サドマゾの関係」

 というと、

「性的興奮を満たす、一種の手段」

 という意味合いが濃いというもので、基本的には、

「アブノーマルな世界」

 というものだ。

 本当であれば、中学生の可憐に、そんな世界のことが分かるはずもない。それなのに、想像すると、頭に浮かんでくるものがあるのだ。

 それは、

「SMプレイそのもの」

 というものであったり、前提となる、精神論のようなものも、分かっているように思えるのだった。

「SMプレイに使う、縄であったり、ムチ、ロウソクなど。見たことなどあるわけもないくせに、まるで、自分が使ったことがあるかのような、おかしな発想になったりする」

 そんな状態における可憐は、

「前世の私は、SMプレイに興じている女だったのかしら?」

 と思えるくらいだ。

 普通だったら、

「そんなプレイを思い出したくなんかないはずだ」

 と思うのも当たり前だ。

「これから、やっと大人の階段を昇って行こうという自分に、何をアブノーマルな世界を思い出さなければならないのか?」

 ということである。


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