第5話 老人の助言

 そんな形の、

「縛られる」

 という感覚だが、それは、あくまでも、

「全体的な」

 という感覚によるもので、それを、

「時間」

 というもので縛ると、また考え方が違ってくるのではないだろうか?

 確かに、

「主従の関係」

 というのも、時間の感覚に従えば、

「何かある」

 と考えられるのではないだろうか?

「時間に縛られる」

 ということは、自分が望んでいる自由を束縛されるということで、そう考えると、

「時間=自由」

 という発想になってくるのではないだろうか?

 そうなると、時間も自由も、

「自分のものにしたい」

 と考えると、基本的には、難しいといえるだろう。

 考えられることとしては、

「人間は一人では生きていけない」

 ということがあるからであろう。

 人と助けたり助けられた李という、

「助け合い」

 というものが、なければ、

「自由も時間というものも、手に入れることはできない」

 といえるだろう。

 まわりを無視してそれらのものを手に入れようとすると、必ず誰かの思惑とぶつかってしまい、前に進めなくなってしまうことだろう。

 その意識を感じずにいたとすれば、その思いは、前が見えないだけに、普通であれば、強引に突っ切ろうとしてしまうことだろう。

 だが、実際に前が見えていれば、違う発想になっていたのかも知れない。姿が見えないということは、普段の見えている時の方が、前だけを見ていないに違いない。

 つまりは、

「前が見えることが大前提であり、前が見えないということは、一番に何を感じたいのかというと、目の前にいるものを全力で感じたいということになるのではないだろうか?」

 と、そんな風に考えてみると。まず最初に、

「自由や、時間というものは、目の前にあるものだ」

 と考えることだろう。

 それは、すべてのものというのは、

「安直に考えられる」

 ということになると考えるのだった。

「時間や自由というものは、いくらで買えるのだろうか?」

 ということを考えたことがあった。

「時間や自由をお金で買おうなどというのは、傲慢なんじゃない?」

 という人がいるが、果たして、そうなのだろうか?

 お金というものは、そもそも、

「物々交換の間に入る、モノの価値というものの、仲介に入るようなものだ」

 といえるのではないだろうか?

 つまり、

「お金というものがなければ、勝手な物々交換となれば、そこに生まれてくるのは、不公平である」

 ということだ。

 不公平というのは、その理屈が誰にも分からないとなれば、そこに必要なのは、一つの

「力関係」

 というものが力を持ってくる。

 そこに、武力であったり、秩序のない権力であったりするだろう。

 そうなると、それこそ不公平というものが、生まれてくるわけで、

「それを少しでも、和らげる」

 と考えるのだとすると、そこに存在しているのは、

「お金というものによる均衡」

 だといえるのではないだろうか?

 もちろん、そのお金で暴利を貪ったり、

「お金を使うことで、優劣を買い取る」

 ということになれば、その優劣が決定的なものになるということで、

「主従の関係だって、金で買えるのかも知れないし、実際に感じていないということでも、気が付いていないだけで、無意識にお金を出しているものが、実は主従関係を金で買っているということになるのかも知れない」

 といえるのではないだろうか。

 それを考えると、

「世の中で、金で買えないものはない」

 と言った人がいたが、それも、なまじウソではないかも知れない。

「地獄の沙汰も金次第」

 などと言われているが、実際に、この世でそれが蔓延っているのだから、問題なのかも知れない。

 考えてみれば、何だって、金で買える。

 権利や義務だって、金で買えるかも知れない。

「いや、実際には、気付かないだけで、金で買っているものもあるだろう」

 といえる。

 そもそも、お金を買って、どこかの入場料や、イベントの参加権などというものは、

「お金を出して、その場所を買っている」

 つまりは、

「拝観の権利」

 を買っている。

 ということになるのであろう。

 確かに、野球を見るにも、ライブを見るにも、

「無料開催」

 でもなければ、すべて有料である。

 これは、もちろん、開催するにあたって、それまでに掛かった経費や、作品の価値(付加価値)などを、シビアに計算したものが、対価として決められる。

 だから、対価というのは、物々交換などという曖昧なものではなく、綿密に計算されたもの同士で交換できるための、対価だということだ。

 そこには、

「金の前では、誰でもが平等だ」

 ということになる。

 しかし、なかなかその理屈と理解してくれる人たちは、なかなかいないだろう。

 というのも、そこに、

「力関係」

 が関わってきて、

「その力関係は、お金の価値というものを凌駕するという形で、使われる力」

 つまりは、

「人間世界にある、すべての人間の関係が、全部が平等でなければ、お金が左右することができる力関係がなくなるということはない」

 ということであろう。

 つまりは、

「オールオアナッシング」

 ちょっとでも、違うところがあれば、まったく違うものだということであり、その時点で、力関係は存在している。

 ということになるのだ。

 だが、それは、元々平等ということで作られたお金だったはずなのに、力関係で少しでも優位に立つということを考えだした人間が、せっかく自分たちで

「平等で犯すことなどできないはずの、お金というものを作った」

 というのに、それを、また自分たちの秩序を壊してまで、計画していたということになるのであろう。

「お金というものが怖いわけではない。それを平等の象徴として使うことのない人間の、一種の自業自得なのだ」

 といえるだろう。

 そんなお金というものも、

「使い方によっては、毒にも薬にもなる」

 ということである。

 お金というものが、いかに大切なものであるかということは、

「現物との対価」

 ということを考えれば当たり前のことである。

 今の世の中では、

「お金というものが、絶対だ」

 といってもいいだろう。

 お金の価値が下がる、

「ハイパーインフレ」

 などと呼ばれた、例えば、戦後のような、

「現物の価値が高いため、お金が、紙くず同然」

 ということになると、

「お金を持っていても、宝の持ち腐れどころか、ゴミでしかないのだ」

 ということになると、戦後のように、

「価値のあるお金」

 ということで、

「新しいお金以外を使えない」

 ということにして、しかも、新札に交換することも、一人の最大が限られてしまうということになるのだ。

 もっとも、持っていてもただに紙屑なのだから、結局は同じことなのだが、

「それまで、必死で貯めてきたもの」

 つまりは、そのための努力までが、

「水の泡だった」

 ということが、証明されたかのようになってしまうのだ。

 そんな状態になると、

「お金の価値が、まったくなくなる」

 ということになると、

「努力をしても報われない」

 ということになる。

 戦後などでは、その努力というのが、生き残るための、

「闇市」

 であったり、

「闇ブローカー」

 などという法律的に、まずいやり方になるということであろう。

 もっといえば、お金というものが、いかに

「価値のないもの」

 という時代になってしまうと、それこそ、

「生きている意味の半分は、ないのではないか」

 と感じることになるだろう。

 つまりは、

「生きていく上には、生きるだけの生きがいというものがないといけない。その証明を、お金というものに求める人も多いだろう」

 ということだ。

 なぜなら、今の時代であれば、

「努力や成果によって、得られるものが、お金だから」

 ということになる。

 そのお金を得るために、

「一生懸命に働くということが、美しい」

 ということであれば、お金儲けを生きがいにする人の何が悪いというのか?

 もっとも、政治家のように、国民から徴収する税金を貰っていながら、何もしない連中こそ、

「世の中の罪悪」

 といってもいいだろう。

 税金で食っているくせに、成果を上げず、賄賂だけをもらおうとする極悪政治家というのも、実際にいるのだからである。

「税金という固定の収入があり、それを国民からもらっているのだから、国民のために働くのは当たり前、しかも、自分たちは、

「国民のために働く」

 ということで、選挙に出て、国民のために働くことを誓い、選ばれたはずではないか。

 それを思うと、今の政治家は(今に限ったことではないが)、ロクな奴がいないといってもいいだろう。

 まだ、中学生ではあるが、学校の先生の中に、政府に対しての怒りをあらわにする人がいるのだが、他の生徒は、

「何、あの先生、授業に主観を持ってくるなんて、嫌だわ」

 といっている人がいた。

 確かに、手前みそな勝手な発想は、教育上よろしくないかも知れないが、可憐は、実際に冷静に見て、

「あの先生の言う通りだわ」

 ということを感じるので、別に嫌ではなかった。

「先生が言っていることは、いかにももっともだといえることだわ」

 と思うと、却って、そんな先生を煙たがって、先生の言っていることを聞かないのは、

「世相から目を逸らしているだけにしか見えない」

 と思うのだった。

 しかし、それは、あくまでも、

「大人の世界でのこと」

 であって、中学生であれば、そこまで政治や世の中のことを知る必要がないのではないか?」

 と感じるのだが、それはあくまでも、

「子供に対して」

 である。

 可憐も子供のはずなのに、政治のことを考えている時は、

「自分は大人なんだ」

 という意識を持って、政治の話に耳を傾けている。

 確かに、政治の話を聴いている時は、まったく自分のことを、

「大人なんじゃないかしら?」

 と思ったとしても、そこに、違和感はまったくない。

 そういえば、一度、父親から言われたことがある。

「お前は、いきなり、大人の発想になり、ムキになることがあるから、気を付けないといけない」

 というようなことだっただろう。

 その時は、

「何を言っているのかしら?」

 と思っていた。

「別に私は子供だと思っているので、何を大人の意見をしようというのか?」

 と考えるのだが、

「確かに大人の意見というものを、言おうと思えば言える気がする」

 と感じた。

 ただ、そんな自分を父親が知っているわけはないと感じたのだが、なぜそう感じたのかというと、

「父親は、政治にも歴史にも興味のない人だ」

 ということであった。

 そもそも、可憐が、政治に興味を持ちだしたのは、

「歴史というものが好きだった」

 ということからだった。

 歴史といっても、明治以降の歴史なので、幕末から、明治新政府、そして大日本帝国。さらには、戦後の日本と、ここ、150年ちょっとの間で、目まぐるしく、歴史が巡っている。

 ただ、いくら歴史が好きだとはいえ、女子中学生が、政治に興味を持つというか、政府批判を公然と口にしているというのは、珍しいことではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「私は、本当に、あのお父さんの子供なんだろうか?」

 ということを考え始めた。

 母親も、どこか似ていない。

 さらに、

「他の人のことなら、その気持ちが分かったりするのに、両親に関しては、その気持ちを思い図ることができない」

 といえるのであった。

 きっと、そんなことを考えている時だったのだろう。夢の中に、再度その老人が出てきたのだった。

 老人は、前の時ときっと同じ格好だったのだろう。何しろ、夢の中なので、あまりにも漠然としていて、自分で思っているよりも、

「記憶することが苦手なのかも知れないな」

 と感じていた。

 可憐は自分のことを、

「年齢の割には、何でも平均的にこなせちゃう」

 と思っていた。

 というのは、自分で、

「同じ年齢の平均的なこと」

 というのを分かっているということだ。

 それだけでも、十分、他の同年代の子たちよりも、優れているといえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、急に、自分が生まれた時のことが思い出されてきたのだ。

 普通、自分の埋まれた時のことなど、覚えているはずもない。だからこそ、

「物心ついた頃から」

 などという表現をするものだと思っていた。

 しかし、それは他人に確認したわけではなく、

「赤ん坊の時のことを覚えているはずなどない」

 と、勝手に思い込んでいるだけなのではないだろうか。

 赤ん坊の時の記憶。

 そんなもの、どこからが本当のことだというのだ?

 そう。こんなものウソではないのか?

「夢だったら、早く覚めてほしい」

 そんな気持ちである。

 逆にいえば、

「こんなのは夢に違いない」

 とも思う。

「そうだ、夢というのは、覚えているのは、怖い夢ばかりだったではないか? これだって、勝手に思い込んでいるもので、何をそんなに。嫌な夢を見ているという意識を持っているというのだろう。確かに、これが夢だということであれば、夢に対しての感覚を自らが証明したようなものではないか?」

 と考えるのであった。

 今まで、見た、

「一番怖い夢」

 それをもう一人の自分が出てきた夢だった。

 と思うのだが。それがいつからだったのか、自分でも分かっていないし、そんなことを分かろうとも思わなかった。

 しかし。今回の

「生まれた頃の夢」

 つまりは、今までなら、

「思い出すなどあり得ない記憶」

 ということを感じていたのだから、

「これが一体、どういうことを意味するのか?」

 と考えてしまうことであった。

 自分は、赤ん坊だった。乳母車に乗せられ、おしゃぶりをしゃぶりながら、ガラガラという音を聞きながら、身体全体が揺られるようにしていて、目は、空を向いている。

 眩しいと思ったが、そこは、ちゃんと、乳母車の庇が掛けれらていて、眩しくないようにはしてくれているが、意識がなまじあるだけに、その眩しさを訴えたい気持ちになるのだが、それができないことに、苛立ちすら覚えていた。

「なんで、こんない眩しいんだ?」

 という思いが強くあった。

 しかし、それよりも、ガタガタと揺れていて。前に進んでいる感覚が心地よく、気が付けば、眠っているという感覚だった。

 それを、

「安心感」

 というのだということを感じていたのは、

「夢を見ているのが、今の自分だからだ」

 ということが分かっているからだ。

 夢の中には、主人公である自分と、夢を操作している自分とがいると思っている。

 そして、

「時々、夢の中で、夢を見ている自分と、操作している自分とが、時々入れ替わっているというのを感じさせる」

 というものであった。

「そういえば、最近、読んだ小説の中で、入れ替わりがテーマになっていたものがあったっけ?」

 と感じていた。

 その小説は。

「ミステリー小説」

 いや、厳密に言って、時代が、今から50年以上も前に書かれたものなので、明確にいうのであれば、

「探偵小説」

 といってもいいだろう。

 最近、可憐は、その頃の探偵小説というのを、好んで読むようになった。

 親も、

「私も、よくあなたくらいの時に読んだものだわ。ちょうど、その頃は、探偵小説ブームだったこともあって、ちょうどその頃の友達は、皆読んだものよ」

 というではないか。

 話を聴いてみると、探偵小説には、

「本格派探偵小説」

 と、

「変格派探偵小説」

 という二種類があるという。

 本格派というのは、

「トリックを駆使し、作者がまるで、読者に犯人当てであったり、トリック当てなどの、挑戦状を叩きつけるかのような作品」

 だといい、変格派というのは、

「耽美主義であったり、SMなどの、他人から見れば異常性癖に見える内容を、テーマにしたりする話のことだというのだ、

 さすがに、女子中学生が、いきなり変格探偵小説を読むというのは、ハードルが高いのであろう。可憐も、まずは、

「本格派探偵小説」

 を読み漁ったものだった。

 これも、母親の意見と同じで、

「でも、高校生くらいになると、今度は変格派を読み漁るようになったわよ」

 といっている。

「じゃあ、私もそうなのかしら?」

 というと、母親は、一瞬怪訝な表情となり。

「あなたは違うかも知れないわね」

 と、一刀両断に答えたのだ。

 それを言われると、一気に気持ちが萎えてしまう。それまで、どんなに気持ちを高め、母親に気持ちをぶつけようとしても。

「その結界を破ったのは、母親であり、修復のつかないことになってしまったのだ」

 と感じた。

 母親は、自分では、そんな結界を破ったとは思っていない。それよりも、

「一定の話を、これ以上、踏み込まないようにするには、強引にでも、話の矛先を変える必要がある」

 と思っているのだろうが、ここまでくれば、話の矛先どころか、会話をするのも嫌なくらいになり、

「はっ」

 と感じた時には、その次の瞬間。

「夢か」

 と静かな寝床で我に返るのだった。

「よかった。夢から覚めた」

 というのが、まさにその通りで。

「覚めた夢」

 を思い出したくもないのに、どこかの記憶に残そうとしている自分を感じ、嫌になるということが、今までにも結構あった。

 夢に見た探偵小説というのは、

「時々入れ替わることで、犯罪を成立させる内容だった」

 というものだった。

 この入れ替わっている二人というのは、犯人だというわけではない。

「いや、正確には犯人なのだが、真犯人というわけではない」

 ということであった。

「真犯人ではないが、犯人を知っている」

 という存在であった。

 直接、犯行に関係はない二人だったが、片方の人は、

「犯行の動機」

 という意味で、大いに関わっていることで、ジレンマに陥った。

「あの人は、俺のために犯行を繰り返しているんだ」

 ということであった。

 この二人は、犯行を目撃したことで、二人の間に、

「決定的な立場」

 というのが確立され、

「逆らうことのできない奴隷」

 となってしまったのだ。

 元々負い目を持っている相手が、さらに決定的瞬間を目撃したことで、二人の力関係は、どうにもならないところまで来てしまったのであった。

 となると、どうなるか?

 この二人は、真犯人が捕まらないようにするため、いろいろな偽装工作を施す。

 真犯人は、最初こそ、

「自分は、どうなってもいい」

 と思っていただろうが、自分が犯した犯罪に対して、

「誰かが偽装工作をしてくれているんだ」

 と考えるのだ。

 偽装工作をしてくれているということは、

「私を助けてくれている人がいる」

 と思うと、

「捕まりたくない」

 と考えるようになるのは当たり前のことで、それよりも、そんな風に、

「あわやくば」

 という欲が出てくると、その後で、違う気持ちになっても、簡単に、

「助かりたい」

 と思った気持ちに変わりはなかったのだ。

 それだけ、

「自分の中での辛さ」

 という複雑な心境が出てきて、

「いい面と悪い面」

 の悪夢を見るようになっていったのだ。

 それだけ、

「追い詰められていた」

 ということであろうが、追い詰める方も、最初からそんなつもりもあったわけではないようだ。

 入れ替わっていた二人だが、一人は、

「実の息子」

 だったのだ。

 そう、

「お母さんは、僕のために、犯罪をしてくれていたんだ」

 という思いだった。

 ちょうど復員してきたばかりの頃で、

「戦争で顔にひどい傷を負ってしまい、素顔を晒せなくなってしまった」

 ということで、母親は、

「それなら、私が息子のために」

 ということで、遺産が起こるように画策していたというのであった。

 だが、実際に、入れ替わっていたということも、この顔を隠すための頭巾のようなマスクがあることで可能だったのだ。

 巧みにそれを生かし、

「指紋の問題」

 というのも、何とかこなし、最後まで演技を貫ければよかったのだが、実際には、そうもいかなかった。

 だが、その片方、しかも、悪だくみを考えている方が、死体となって発見されるにいたり、探偵も、事件に渦巻いていた謎のベールが次第に取れていくことに気付くようになっていったのだった。

 そもそも、偽装工作をするということは同じでも、その目的、理由はまったく違っていた。

 というのも、一つは。

「母親を助けたい」

 という、

「純粋な肉親愛」

 だった。

 しかし、もう一つは、

「この親子二人に復讐する」

 ということであった。

 実はこの男、子供の頃に、真犯人にいたぶられ、母親まで、恨みを残して死んだというのだから、

「この復讐に一生を掛けている」

 といっても、過言ではないだろう。

 そんなことを考えながら、夢についても、想像してみると、

「あの小説を、どちらの側からでも見ることができる」

 という、

「珍しいタイプの小説」

 だと感じるようになったのだった。

 小説というのは、自分の中で。

「恨みがまずは生まれて、それがどこかの瞬間に、殺意に変わる」

 というものであった。

 その殺意がどこから生まれたのか?

 これが、探偵小説の中でも、本格派と呼ばれるものの、一番のミソなのではないだろうか?

 変格派というものは、

「異常性癖」

 などという、精神的なものが舞台になったりするが、本格派の場合には、

「あくまでも、理路整然とした中に、潜んでいる」

 あるいは、

「誰もが持っている裏の部分」

 というものが、何かのきっかけで表に出てくることで、犯罪を組みたてるようになるということだ。

 これは、変格派という。

「異常性癖」

 というものが、小説になった。

 ということであれば、変格派と本格派というものの間に、大きな差というのはないのではないか?

 と考えられるのだった。

 ただ、これは人から聞いた話だったが、

「小説を書く時というのは、人称や見方というのが、一定方向からでしか見ることができないんだ」

 という話であった。

「どういうことなの?」

 と聞いてみると、

「小説というのは、基本的に最初に、見方から考えるものなんだよ。視点がバラバラになると、読者が混乱する。たとえば、最初からずっと、主人公目線で、自分のことを、俺と言っていた人が、急に、名前で呼んで、他人事のようになる。つまり、主人公が章ごとに変わるというのは、これほど読みにくい話はないだろう?」

 というのだった。

「それはそうよね。あくまでも、想像して見方を選ぶのは、読み手だからね」

 というと、友達は大きく頷いて、

「まさにその通り」

 というのだった。

 そんな探偵小説を思い出していると、

「今回の夢の話を思い出すと、内容は、あくまでも、読者視点に立っているので、見え方は、双方向からなんだろうな」

 と感じていた。

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