第3話 記憶喪失

「ああ、このまま目が覚めていくんだろうな」

 という意識があった。

 夢の中で目が覚める時というのは、圧倒的に、

「いきなり、目が覚めてしまった」

 ということを感じるのだった。

 実際に、目が覚める時、確かに、

「いきなり、目が覚めた」

 というのは、多いのだが、それ以外にも、

「かなり昔の意識だ」

 と感じることで目が覚めることが多いのも、事実だった。

 むしろ意識としては、こっちの方が強く残っているはずなのに、目が覚めるにしたがって、忘れていくような気がした。

 そして、完全に目が覚めても、しばらくの間、自分の中にあるはずの記憶が、定かではない状態になっているのだった。

 そんなことを考えていると、

「俺にとって、夢から目が覚めるということは、夢の記憶が消えていくことで、意外と、夢を忘れてしまいたいと感じる時も少なくはない」

 と感じるものだったのだ。

 夢というものを、いかに意識するかということは、正直、よくわかっていない。

「大人になったら分かるんだろうか?」

 と思いながら、

「自分の中の信憑性に間違いはない」

 と感じているのだった。

 実際に、目が覚めるにしたがって、

「ああ、今日の夢も、かなり昔の夢を見た気がする」

 と感じた。

 というのも、今回のように、老人が出てきた夢というのを、

「かつて、いつか見たはずだ」

 という記憶があったのを、思い出していた。

 その時は、

「かなり昔に見た夢だ」

 という意識はなかった。

 それこそ、小学生の低学年であり、この意識が残っているとは思えなかったからだ。

 残っているとすれば、その意識は、かなりの昔のことであり、

「本当に自分の意識なのだろうか?」

 と感じることで、その時初めて、

「夢の共有」

 などという意識が生まれてくるのだった。

 それは、自分の意識で理解できないようなことを、

「無理やりにでも理解させよう」

 という、無茶ぶりが生じてのことではないだろうか?

 ただ、小学生のどこかで、一度似た夢を見た気がしたのは、今であれば冷静になって考えると、

「あれこそ、夢ではなく、いずれ、将来において同じ夢を見るという、夢に対しての予知夢というものではないか?」

 と最初は思った。

 しかし、

「夢のための予知夢を見る」

 というのもおかしなもので、それだったら、

「前に見たのは、夢ではなく、実際にあったことではないか?」

 と感じることで、逆に。

「本当にあったことが、間違いのないということになり、だが、それを自分で認めたくないというほど、現実離れしているという感覚だったとすれば、それはそれで、普通にあり得ることなのだろうか?」

 という風に感じるのだ。

 その時に自分の目の前にいた老人を、最初から知っていたのではないかと思い、

「必死に思い出そう」

 としていたことを、確信めいた感覚で覚えている気がしたのだ。

 ただ、そういえば、

「子供の頃、一時的な記憶喪失になった」

 という覚えがあった。

 親や先生は、可憐のことを、

「おかしい」

 というのだが、可憐とすれば、

「何がおかしいというのだ?」

 という疑問しか湧いてこない。

 そんなことを感じたのは、覚えているのだが、

「何かがおかしい」

 という漠然とした意識だけがあったのだが、自分が、

「一時的な記憶喪失になった」

 という意識だけは、記憶の奥にへばりついているという気持ちは強かったのだ。

「夢というのは、かなり前のことを見るかのようであり、しかも、目が覚める間いに、一部の記憶というものを失うものだ」

 と思うと、

「夢で覚えているものと、忘れてしまったもの」

 というものが、ハッキリしないということが分かるのだった。

 夢の中で、

「かなり、以前のことを夢に見る」

 という感覚は、

「以前にどこかで、見たり聞いたりしたことがあるのではないか?」

 ということを、ある程度信憑性があるということで、気になっていることとして、

「デジャブではないか」

 ということになるのだ。

「デジャブというのが、予知夢と結びついているような気がする」

 ということを考えると、

「デジャブや予知夢というのは、どこか、夢の共有という考えと、切っても切り離せないものではないか?」

 と感じるのだった。

 可憐は、今回目が覚める時、

「私の記憶は、また一時的に消えているんだわ」

 と感じていた。

 しかし、それは、可憐に始まったわけではなく、他の人も同じであって、それを誰もが意識させないということは、

「そのあたりの理屈は分かっているので、今回も、どうせ、記憶喪失になったことも、人に悟られないようにしないといけない」

 と感じたのだ。

 記憶喪失というのは、どこまでを忘れてしまうのだろうか?

 よく言われているのは、

「自分がどこの誰なのかということは分からないが、世間一般の常識のようなことは憶えている」

 例えば、勉強をさせても、試験をしても、同学年と思しき人たちと同じ学力は存在し、テストをやっても、ちゃんと常識的なところは分かっているのだ。

「こんな都合のいいことってあるのだろうか?」

 と考えてしまう。

 学校の勉強をしても、成績がいくらよくなっても、それらを、

「使いこなすことができる頭が必要だ」

 ということであるが、

「可憐が陥る記憶喪失」

 の中では、都合のいい記憶だけが存在し、しかも、その記憶だけが残っていることに違和感はないのだ。

 記憶喪失だけに焦点を当てると、

「都合のいい記憶喪失につながるということは、記憶というものは、思い出せないというだけのことで、夢から直で、記憶として格納されていることだろう。しかし、そのことを意識できないというのは、できないわけではなく、できないかのように、自らが、記憶の優先順位を立てようとして、無理を感じてしまうからではないか?」

 と感じるのだった。

 一つだけ、気になっているのは、

「同じような夢を何度も見ることがある」

 ということであった。

 そもそもは、

「もう一人の自分」

 というものが、

「夢の中に出てきたというのを意識してしまった」

 と感じることであった。

 可憐は、自分の記憶が、

「まったく違う人の意識」

 として感じることが何度だっただろうか?

 ただ、どこかで共通点も多かった。

 それでも、同じ夢という感覚ではないので、すぐに、

「誰かの夢に自分が入ったのか、それとも、他の人が入り込んできたのか?」

 ということであったが、そのどちらもあるような気がする。

「夢が、デジャブを引き起こす」

 という、少し強引な考え方であったが、

「デジャブというものが、何か、一周回って、もどってきたのではないか?」

 と感じたのだとすれば、

「やはり、夢を見るということは、いろいろな発想を導くのではないか?」

 と感じるのだった。

「ブームというのが、十数年に一度の割合で、一周回って戻ってくる」

 という考え方に似ているというようなものである。

 ファッションにしても、小説のジャンルなどのブームのことであるが、それぞれに微妙な違いはあるが、

「何かの法則性のようなものがあるのではないか?」

 と感じるようになっていたのだった。

 そんなことを考えていると、

「夢の中の時間の進み方と実際の時間の進み方が違っているのではないか?」

 と感じていたことを思い出した。

 これは、

「時間そのもの」

 というよりも、

「時間の進み方」

 というものであり。

「普通であれば、時間というのは、規則的に刻んでいるものだ」

 ということであるが、それは、あくまでも、

「人間が勝手に決めた時間」

 ということである。

 時間とは、

「時の間」

 のことであり、似た言葉として存在する、時刻というのは、

「時を刻む」

 ということである。

 つまり、たとえば、

「三時から、三時五分までの間を五分間という」

 ということから。時間というのは、

「五分間」

 というものであり、

 時刻というのが、

「三時」

 であったり、

「三時半」

 ということになる。

 つまりは、

「時刻と時刻の間を時間というのだ」

 ということである。

 しかし、実際には、時刻も時間も、それぞれ、曖昧に考えてしまうことがある。

「時間と時刻を頭の中で混同してしまい、どっちがどっちなのか、自分でも分からなくなってしまう」

 といえるのではないだろうか?

 タイムマシンというものを考えた時、

「時刻というものは存在するが、時間というものは存在しない」

 といってもいいかも知れない。

 厳密には、

「時刻というものは、存在しているが、時間と時間の間に必ずあるはずなのに、それがゼロになっている」

 ということであろう。

 ただ、

「時刻をゼロとしてしまうと、完全に、矛盾が起こってしまい。パラドックスが生まれてくることになるだろう」

 といえるのではないか。

 だとすれば、矛盾が起こらないようなものの創造が必要だが、それを解決してくれるのが、

「限りなくゼロに近い」

 というものの存在であった。

 つまり、前述のような、

「マトリョシカ」

 であったり、合わせ鏡のように、

 「少しずつ小さくなっていくという状況が、永遠に続くという理論の中であっても、それが続く以上、完全なゼロになるということはありえない」

 ということになるのだ。

 それを考えると、

「タイムマシン」

 というのも、

「時刻から時刻を飛び越えた」

 という意味で、決して、時間が消え去ってしまったなどということはありえない。その長さが、識別できないようなくらいのものであったとすれば、

「限りなくゼロに近い」

 という発想はあり得ないことではない。

 この感覚は、

「ヘビが自分の身体を、尻尾から丸のみしているかのような感覚」

 といえるのではないだろうか?

 最後は想像がつかない。

 普通に考えれば、消えてなくなるということだが、それもおかしい。何かの矛盾となっているのであるから、それは、よく科学者などが、異次元へのパスポートとして表現するという、

「メビウスの輪」

 という発想に似ているではないか。

「紙をねじらせて、反対側同士をくっつける。その場合、どちらか片面の中心をボールペンで線を引いてくると、そもそも、反対側を止めているのだから、その二つの線が出会うことはない」

 ということである。

 しかし、それが本当にできるのだとすると、

「無限ループとして続くものではありながら、最後にはどこかで結びつく」

 ということを、タイムマシンのような、

「時間というものを、限りなくゼロに近いものだ」

 と考えたとすると、

「交わることのない平行線」

 が交わるのだという発想になるのではないだろうか? 

「記憶を失う」

 というのは、どういうことであろうか?

「何かショッキングなことがあるから、記憶を失う」

 ということがあるだろう。

 いわゆる、

「トラウマになりそうなショックを見た場合」

 などである、

 ドラマなどでよくあるのは、子供の頃に、殺人や、大事故を目撃したために、そのことを思い出したくないという時に起こるという場合が多い。

 だから、

「自分から、記憶を失う」

 ということに走るのだろう。

 ミステリーや、サスペンスドラマなどでは、

「殺人現場を見てしまったので、それで記憶を失った」

 ということになると、その人が、

「犯人に狙われる」

 ということもあるだろう。

 そういう記憶喪失は、突発的なものだから、記憶が戻る時も、

「突発的に戻る」

 ということもあるということであろう。

「記憶というものは、意識があってこその、記憶だ」

 といえるだろう。

 意識の中に、

「記憶として格納するかしないか?」

 というものがあったとして、

「無意識の中の意識」

 とでもいっていいような、

「潜在意識のようなもの」

 の中には、

「記憶を格納する」

 というものが、デフォルトで存在しているのかも知れない。

 つまり、

「何らかの意識が働かなければ、意識というのは、記憶として格納されるということを、本能のように感じるのであろう」

 ということになるのだろう。

 だから、

「意識を記憶として格納していないのだとすれば、それは、最初から、意識して、記憶しないという気持ちが働いているということになる」

 そう考えると、

「記憶したくないという意識を自分で感じることなく、覚えていないというのは、理論的にあり得ることなのだろうか?」

 と感じるのだ。

「矛盾しているのではないか?」

 と思うと、

「意識は、必ず自分の中のどこかに格納されていて、何かのショックがあって思い出したくないということで、記憶がなくなったと思いたいという意識が、記憶喪失という言葉で表されているのかも知れない」

 と感じる。

 だとすると、

「記憶喪失ということのメカニズムが、解明されていないところで、とにかくこの症状の名前を付けなければならない」

 ということになると、出てきたのが、

「記憶喪失」

 という名前だったのではないか?

 ということである。

「記憶喪失」

 という状態で、

「犯人を見たかも知れない」

 という被害者を、警察は、時として、その人が、

「被害者である」

 ということを忘れて、自分たちの捜査を優先するために、責め立てるというような、非常な捜査をする時がある。

 さすがに、まわりが見ていう時に、そんなことになると、家族などは、何ともたまらない気持ちになるだろう。

 見かねて医者が、

「これ以上は辞めてください」

 ということになるどう。

 もちろん、医者が立ち合うというのは、患者の状況にもよるのだろうが、

「医者が立ち合っていれば、それだけ症状がひどい」

 ということも分かるというものだろうに、それでも、

「捜査のため」

 ということで、警察の尋問は、容赦がない時もえてしてあるものだ。

 そんな状態を、他の第三者が見ればどうだろう?

「警察の立場なのだから、それも当たり前だ」

 といって、見逃すだろうか?

 普通であれば、第三者がそんな場面を見て考えることといえば、

「明日は我が身」

 ということであろう。

 自分だって、いつ、この被害者のようなことにならないとも限らない。人間というのは、「いつどこで、恨みを買っているか分からない」

 というものだ。

 それを考えていると、

「俺が、目の前で警察に尋問されている立場だったら?」

 と考えたら恐ろしい。

 警察から、脅迫を受けているように、責め立てられ、

「思い出さないといけないんだ」

 という強迫観念に、どうしていいのか分からず、頭を抱えて苦しんでいるに違いない。

 そんな状況を見ていて、苦しめられているのが、自分だと思うと、これほどやり切れない思いもないというものだ。

「警察って、結局、自分の仕事のことしか考えていないんだ」

 ということである。

 大体こういう場面の時、警察がいつも、執拗に攻め立てて。患者が苦しんでいるところを、医者はギリギリまで我慢して、そこで、

「これ以上の尋問は辞めてください」

 ということになるのだろう。

 刑事の方とすれば、

「ここが、大切なところなんです。もう少し」

 と言いたくなるだろう、

 しかし、医者としては、

「これ以上はまずい」

 というギリギリのところまで我慢していたのだから、ここから先は、口調もなかりきついというものだ。

「私は医者です。私は、患者の命に責任があるんだ。尋問は中止してください」

 といって、刑事を睨むと、さすがに刑事も我に返って、何も言わなくなる。

 医者の方も、どこまでが、自分の領分なのかということを分かっているだろう。

 ただ、これもムスカしいところで、あまり我慢しすぎると、せっかくの患者が、ひょっとすると開きかけている心を、また閉ざしてしまおうとしているのかも知れない。

 そんなことを考えると、医者も、自分の立場に、恐ろしくなることもあるだろう。

「刑事さんだって、仕事なんだ。しかも、犯人逮捕をすることは、患者のためになる」

 ということは分かっている。

「犯人が逮捕された」

 という事実が、患者にどれほどの安心感を与えるか分からない。

 ただ、そうなると、被害者の証言はいらないということになるのか?

 であるが、

「いや、そうではないだろう」

 犯人が捕まっても、証拠不十分で、釈放ということもある。そのためには、被害者の証言が一番のキーであり、その証言だけでも、犯人を追い詰めることができるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「被害者でありながら、証人でもある被害者の立場は微妙であり、証人としての立場から、少しでも苦痛を取り除いてあげるには、やはり、医者の力が必要なのだ」

 といえるであろう。

 そんな記憶のキーパーソンとしての医者の存在も大きなものであろう。

 記憶喪失であるが、可憐は最近、

「自分が記憶喪失なのではないか?」

 ということを考えるようになった。

「意識する中から、記憶を格納しているところに辿り着き、そこに格納されている記憶を引っ張り出そう」

 という意識はあるようだった。

 しかし、本当に、

「その記憶というものが正しい記憶なのだろうか?」

 ということになると、自分でも、よく分からなくなるのである。

「記憶というものが、曖昧だとは、本人には分からない」

 というものであり、

「他人の記憶。それは、自分以外という意味で、どんなに近しい人であっても他人として考えるということだが、そんな人間の記憶というのは、まわりの人から見れば、これほど曖昧なものではない」

 と思えるのは、無理もないことなのかも知れない。

 といえるのではないだろうか?

 前述にもあるが、

「以前どこかで見たことがある。来たことがある」

 などという、いわゆる

「デジャブ現象」

 であるが、それを一種の、

「辻褄合わせ」

 と考える考え方があるという話を聴いたことがあったが、それは、

「都合のいいことへの言い訳」

 という意識だとするならば、

「記憶を失う」

 という発想と、

「デジャブ現象」

 というのは、同じだと言えないだろうか。

 ショックを受けて、自分のキャパシティで支えきれない状態になった時、記憶を消すことで、自分を苦しみから救おうというような、

「自己防衛能力」

 のようなものが備わっているということになるのであろう。

 そんな記憶喪失のような状態は、まるで、

「保護色」

 のようなものかも知れない。

「自分は何も知らない」

 という意識は、正直、

「目の前に起こった、自分で受け入れられない、信じられないという出来事を、否定したい」

 という思いから来ているといってもいいだろう。

 そんな感覚を感じていると、

「記憶が戻ってくる時というのは、事件が解決した後なのかも知れない」

 とも思えるだろう。

 本人が必死になって、

「なかったことにしたい」

 と思っているものを、さらに引きもどそうというのは、ある意味、

「被害者の身を、危険に晒す」

 ということになるのではないだろうか。

 自分が被害者ということで、

「本当に犯人の顔を見た」

 ということであったり、班員側が、

「見られた」

 と思い込んでいたとすれば、被害者は、この世に生きている以上、記憶がなかったとしても、

「いつかは思い出す」

 そして、それが、犯人にとっての命取りになる」

 と思ってしまえば、

「もう、被害者を、殺してしまうしか、自分が助かる道はない」

 と思い込んでしまう場合だってあるだろう。

 当然、病院には、

「大切な証人」

 を守るという意味で、刑事がたくさん張り込んでいることだろう。

 昔の刑事もののドラマのように、

「組織の人間が、医者や看護婦に化けて、被害者を殺しに来る」

 というような、物騒な話にならないとも限らないだろう。

「被害者は、別の部屋にいて、組織の人間が、秘密裡に殺害しようと、ベッドに近づいた時、ベッドの中から刑事が出てくる」

 などという、今から思えば、ベタなドラマというのも、昔はサスペンスものとして見ていたのだろう。

 可憐のそばに、実際に記憶喪失になった人がいた。

 その人は、可憐が、学校からの帰り道、偶然、倒れているのを見つけたからだった。

 身動き一つしていないように見えたので、

「気持ち悪い」

 という気持ちが強いからなのか、冷静に見ることができたが、さすがに、中学生の女の子、

「どうしていいのか分からない」

 というのが、本音であろう。

 可憐が最初に考えたのが、

「救急車を呼ばないと」

 ということであった。

 女子中学生が一人で、その場でどうしていいのか分からない。まわりに、人はいるのだが、皆無視して、足早に通り過ぎる。ほとんどの人がチラッと目を向けはしたが、

「相手に悟られたくない」

 という思いが、そのままだったのだ。

「すみません」

 と、まわりの人誰かに、少し小さな声で助けを求めたが、皆、

「俺に言ってるわけじゃない」

 ということで、皆、無視して足早にいくのだ。

 そんな時間がどれほど経っただろう。自分が声を掛けているにも関わらず、まるで、

「面倒臭いものを見てしまった」

 と言わんばかりの通行人を、思わずにらみたくなるというのも、無理もないことなのであろう。

 そのうちに、一人が反応してくれて、まわりの何もしない連中を一瞥して、

「どうしたんだい? 早く救急車を呼ばないと」

 ということで、スマホを取り出し、的確に、119番に連絡し、冷静に話をしているのだ。

 たぶん、相手が、場所を確認したのだろう。男の人は、すっくと立ちあがり、電信柱に書いてある地名を読み上げたのだ。最初は小さな声しか聞こえなかったが、

「大至急、来てください」

 ということを言って、電話を切ったのだ。

 男の人は、とりあえずそのあと、倒れている人のところに向かった。

 さすがに怖くて近寄れなかった可憐と違い、さすが、

「大人の男の人」

 というのが、目の前にいることで、

「何とも、頼もしい」

 と考えたのだ。

 ただ、不思議なことに、そこに倒れている人が、

「気の毒だ」

 とか、

「可愛そうだ」

 という気持ちになっているわけではないのだった。

 ただ、

「気持ち悪い」

 という思いなのだ。

「臭いが、鉄分を含んだもの」

 であり、

「嘔吐を感じさせる」

 という思いは、

「他の人に比べて、高いのではないだろうか?」

 ということを感じさせるのであった。

 可憐は最初から、

「この人は刺されたんだわ」

 ということが分かっていた。

 それは、この鉄分を含んだ気持ち悪い臭いが、

「血液によるものだ」

 ということを分かっていたからだった。

 気持ち悪さは、

「過去の記憶から来ているのかも知れない」

 と思うようになると、

「そんな気持ちは、デジャブなのかも知れない」

 と思ったのだ。

 以前にも、

「似たような事故現場に遭遇したことがある」

 という思いから、

「これは、デジャブではないか?」

 と感じさせるのだった。

 その時も、確か同じような臭いを感じた時がある。

 あの時は、小さい子供だったので、一緒に誰かがいた。確か、父親だったような気がする。

 父親は、実にさばさばしていて、てきぱきと対応をしていたのは、間違いのないことで、すぐに、救急車がやってきた。

 確かあの時は、車がぐしゃぐしゃいなっていたので、交通事故だったという意識だけは、子供にでもあった。

 だから、救急車の後から、パトカーが来ていたのだ。

 救急車には、身内の人だろうか、その人はかすり傷だったようだが、一緒に救急車に乗って、病院へ向かったようだが、

 父親と、可憐は、その場での警察の尋問を受けるのだった。

 父親が、状況を説明していたが、実際に、目の前で車がぶち当たるというようなシーンを見たわけではないので、必要以上な質問をされることはなかった。

 刑事として、マニュアルに沿ったような質問に対して、父親が冷静に答えていたのだということを、今になって思い出せば、その時のことが分かってきた気がした。

 その時、可憐は、別に怖いという思いはなかった。ただ、その惨状を、

「気持ち悪い」

 と感じただけのことだった。

 だが、なぜか、可憐には、

「私は、そんな危険な目には絶対に遭わない」

 という、根拠のない自信のようなものがあったのだ。

 父親も、臭いに関しては、顔をしかめていたので、嫌だったのだろうが、冷静な処置からすれば、

「事故に対して、それほど、恐怖感というものを持っていたわけではないのではないか?」

 ということを感じたのだ。

 警察の尋問も、ただの、

「第一発見者への聞き込み」

 という程度である。

 これが、事件であれば、もっと突っ込んだ質問が飛んだことであろうが、それだけのことではないに違いない。

 今回の、

「可憐が発見した」

 倒れている人物は、事故なのか、事件に巻き込まれたのだろうが、今のここだけでは、どっちなのかということは分からなかった。

 だが、可憐は自分が、父親と遭遇した事故とは違って、今回はどちらか分からない状態であるにも関わらず、あの時と変わらない、

「まったく恐怖を感じない」

 という思いに、

「自分は大丈夫なのだ」

 という意識があるからに違いない。

 可憐には、少し不思議な能力があった。

「自分が、記憶を失くしたという思いを持っている人が近くにいると、センサーのようなものが働いてその人が思っていることが分かる」

 という感覚であった。

 そのくせ、

「感情というものが、冷めている」

 と感じるのだ。

 自分の中で、記憶を失くした感覚が、

「こんなにも、たくさん渦巻いている」

 という思いを感じさせられたのだ。

「冷めている感情」

 というのは、例えば、

「誰か身内が死んだら、普通なら悲しいと思うはずだ」

 ということであるが、

「一緒に住んでいたペットが死んだら、涙を流して悲しい気持ちになるのに、家族の誰かが死んでも、自分は悲しくならないのではないか?」

 という思いが強かった。

 一度、母親が、事故に遭って、救急車で運ばれたことがあったが、

「覚悟しておいてください」

 と言われ。まわりは、皆悲しんでいたが、母親は、結局助かったのだ。

 ちょっと拍子抜けした感覚があったが、また違う時、やはり、母親が、病気になり、その時は、医者から、またしても、

「覚悟しておいてください」

 と同じセリフを言われた。

 それこそ、

「デジャブではないか?」

 と思ったのだが、

「事故と病気の違いこそあれ」

 ということであったが、そこからが少し違った。

 もちろん、家族は母親のそんな状況を聞いて、皆、泣くだけ泣いたのだが、その後で、病室にいくと、今度は、まったく涙を流さずに、あっけらかんとして、笑っているのだ。

「お母さんに悟られないように」

 ということは、子供の自分でも分かったが、さっきまであんなに泣いていた人が、

「急に笑うなんてこと、そんな簡単にできるものなのか?」

 と考えたのだ。

 その時、可憐は、

「なんて、白状なんだ」

 と感じた。

 だが、そう感じた自分ではあったが、だからといって、何もできるでもなし、家族のように、

「泣くだけ泣いて、今度は、母親の前で悲しい顔はしない」

 という覚悟のいることなどできるはずがなかった。

 その分、

「私が、あの人たちよりも、冷めているということなのかしら?」

 と、疑問にしか思えないのだった。

 確かに、家族は、

「覚悟」

 というものを自分で感じながら、さらに、相手のことだけを考えて行動している。

 それが、人間というものであり、思いやりというものだ。

 そんなことを考えてみると、

「覚悟というものがどういうものなのか分からない自分には、自分が白状になるのはしょうがないのだろう」

 と考える。

 ただ、どうしても、

「とことん泣いて、覚悟ができれば、悲しい顔ができないと思う相手の前でも、ずっと笑っていることができる」

 というのが、人間というものだと、理屈の上で、分かるようになってきたような気がするのだった。

「何が、悲しいというのか?」

 まずは、そこからが問題なのではないだろうか?


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