第2話 ドリームパラドックス
その老人は、白装束に、つえを持っている。
しかも、髪の毛のひげも濃い様子で、
「仙人」
という言葉がいかにもであった。
しかも、白い服が光っているように見え。こげ茶色の杖まで、光っていて、白く輝いている雰囲気には、圧倒されるところであった。
老人は、微動だにせずに、若者を見詰めている。
その青年が、夢の主人公である自分だということは分かっていることであった。
老人は、何かを言いたいという意識はあるようだが、何かを必死に待っているのを感じた。
すると、その向こうで、ざわざわしたものを感じた。我慢できずに、這い出してくるのは、この夢を盗み見ようとした、
「一種の、夢の中における強盗のようなものだ」
といってもいいだろう。
しかも、強盗なのだから、普通の窃盗とはわけが違う。
そもそも、強盗までしないといけないというほどのことなのだろうか?
その人は、
「明らかに老人だ」
ということは分かるのだが、実際に、それだけではないような気がする。
どこかで見たというのは、遭ったことがあるということなのか、それとも、
「以前、夢の中で見た相手だったから、今が夢の中にいるということで、分かるのではないか?」
とも考えられる。
夢の中というのは、
「普通であれば、夢を共有するなどということはありえない」
と思っていたが、最近では、
「そんなことがあってもいいのではないか?」
と考えるようになってきたのであった。
というのは、
「目の前にある鏡を見ていて思ったのだ」
目の前にある鏡は、こちらの世界を、左右対称であるが、忠実に映し出している。
しかし、それは、死角に入った部分を映し出すことはできない。角度によって、自分が見える範囲でしか、
「世界を共有」
するということはできないという考えである。
しかし、こちらの世界は、鏡の世界と違って、繋がっているのだ。
「違う空間でも、次元でもない」
と考えるが、次元という意味では違うかも知れない。
鏡に写ったものは、平面でしかない。
ということは、二次元でしかないということになるのであった。
そういう意味で、
「左右対称に写っているが、上下が対称にならない」
ということは、考え方として、
「三次元の世界を、二次元として映し出そうとするからではないか?」
という理屈も成り立つのではないかとも考えられる。
鏡の上下が逆さにならない理屈については、ハッキリと証明されているわけではない。だから、いろいろな発想があっても、無理もないことだといえるだろう。
そんな上下逆さにならない世界を、
「次元の違い」
ということで解釈するのであれば、鏡の向こうの世界が、やはり平面であり、
「二次元の世界の呪縛」
のようなものだと考えたならば、
「二次元の世界は、途中に途切れた場所はあるが、そこには、
「三次元の我々には分からない、未知の空間が広がっている」
と考えると、
「繋がっていないように見えるのは、次元が違うこと」
ということで理解できるだろう。
そう考えると、夢の世界も、
「実は二次元の世界なのかも知れない」
とも思える。
「いや、次元が違うということであれば、四次元ではないか?」
という人がいるだろう、
なぜなら、
「夢というものは、どんなに長いものでも、目が覚める数秒で見る」
という発想から生まれたものなのかも知れない。
夢が長い時など、子供の頃からの夢を見ることがある。
ただ、ここで問題なのは、
「夢を見ている自分がいくつなのか?」
ということである。
普通に考えれば、
「夢を見ている自分は、今現在の自分であるはずだ」
と考えるが、果たしてそうなのだろうか?
もっといえば、
「今日見たと思っている夢も、本当に今日に見た夢だったのだろうか?」
という、少し大胆な考えである。
つまりは、
「夢というのは、どこかに格納されていて、まるでリマインダーであるかのように、ある時期が来たら、見るようにと、設定されているのかも知れない」
その、設定も誰がするのか?
ということになるのだろうが、
「過去の自分が設定したのか?」
それとも、
「夢の中にもう一人の自分が本当にいて、その自分が設定したのだろうか?」
ということになる。
そんなことを考えていると、
「夢を、あやつることができるのだとすると、それは、何も自分でないといけないわけではない」
とも言えるだろう、
そうなると、自分の夢を操れるのは、自分以外にもいるということだ。
ということになると、それは、無意識に
「自分の夢を他人に壊されたくない」
という意識が働いているとするならば、
「人の夢を、自分が操れるのではないだろうか?」
といえるのだ。
ただ、そうなると、自分の夢と他人の夢が、繋がっていなければいけないということになる。
本当につながっているのだとすれば、
「それは、実際の生活においても繋がっていて、時系列についても繋がっている」
その感覚を、本人が知ってしまうと、せっかく辻褄を合せようとしている感覚が邪魔して、
「人の夢を壊してしまう」
ということになりかねない。
だから、自分の夢をなるべく曖昧な状態にし、必要以上に、
「夢というものは、メカニカルではない」
と思わせる必要があるのだろう。
そう思うと、夢の長さや時系列。そして、夢の中での信憑性をいかに曖昧にするかによって、崩してしまったとしても、何とかなるのかも知れない。
それが、夢の中においての、
「自浄能力なのではないか?」
といえるであろう。
だから、曖昧な中において、夢の中での自分であれば、
「夢を共有している」
という感覚を持っていることであろう。
しかし、それ以外であれば、曖昧さから、さらに、夢を共有しているというところまで認めてしまうと、夢の矛盾が、この世界にも及んでしまい、まるで、
「タイムパラドックス」
のようなものが、
「ドリームパラドックス」
として、君臨してくるかも知れない。
タイムパラドックスも解明されていないのに、さらに、別のパラドックスが登場すれば、曖昧さのカオスが、どうにもならなくなるようで、
「どうすればいいのか?」
と考えさせられてしまう。
「夢というもの、さらに、刻々と、未来が現在になって過去に向かうというその瞬間を、タイムパラドックスと一緒に考えてもいいのだろうか?」
と思うと、曖昧さが、いつの間にか、重みとなって、のしかかってくるのではないかと感じるのであった。
「夢」
というものが、
「別次元である」
と考えると、考えられるのは、
「二次元」
そして、その二次元を鏡で表すと、
「鏡に写っている瞬間、見えている範囲でしか確認できないわけなので、死角の部分は、どうしても存在する」
では、その死角の部分というのは、
「本当に夢なのだろうか?」
と思えてくるわけで、
「夢というものも、確かに、時系列がバラバラで、どこかタイムマシンのようなところがある」
と思える。
それがどこなのか?
ということになれば、
「タイムマシンというものは、一瞬にして、過去にも未来にも行けるというものだが、未来に行けるとして考えてみよう」
と考える。
もし、タイムマシンに、到着場所というものを、五分後の同じ場所。
ということにするとどうなるだろうか?
実際にタイムマシンが存在しているわけではないので、
「理論的な説明」
しかできないが、
その説明によれば、
「タイムマシンが作動する時間になると、ある方法を使うとタイムマシンが消えることになる」
というわけだ。
それが、
「ある一定のスピードをオーバーする」
ということになると、ある地点から消えてなくなるということになる。
しかし、五分経つと、その場所と寸分狂わぬ同じ場所に、轟音を立てて戻ってくるということになるのだ。
その間、タイムマシンの中の本人は、時間が進んだ意識はない。何かのショックを受けただけで、同じ場所にいるのだから、タイムトラベルの意識はない。
しかし、時計は進んでいないのだ。
五分前の時計が、その空間には存在している。
それはまるで、
「走行中の電車の中で飛び上がる時に、電車の中での密室の中で移動した」
というだけの、
「慣性の法則」
というものと同じだといっても過言ではないだろう。
もう一つの考え方として、タイムマシンの発想を、
「相対性理論」
というものと組み合わせるという発想がある。
というのは、相対性理論というものは、
「光速に達した時の、時間の進み具合が違う」
という発想である。
「光速のように光のスピードを突破するものに乗っていたとすれば、通常のスピードで暮らしている人間というものよりも、かなり時間の進みがゆっくりになる」
という理論である。
つまり、
「光速を超える宇宙ロケットに乗り、1年間地球から飛び立っていて、1年後に地球に戻ってきたとすれば、地上では、数百年の時が過ぎていた」
という発想である。
この発想をテーマにした映画や、ドラマもあったりしたが、何よりもすごいと思うのが、おとぎ話の中にある、
「浦島太郎」
の話である。
あれには、
「光速で移動する」
という明記はないが、
「海の中」
という別世界に入ったことで、2,3日だったはずの時間が、地表に戻ると、数百年が過ぎていた。
というような話だったはずである。
確かに、海の中と、
「宇宙空間」
というのでは、まったく違うものという発想だろうが、今の時代のアニメであったり、SF小説などというのは、
「宇宙空間を、大海原という発想で見ることがある」
というものだ。
アニメなどでは、
「宇宙戦艦」
などという発想があったり、そもそも、宇宙での乗り物は、
「宇宙船」
というではないか。
「海の中でも、宇宙空間でも、人間は息ができない」
当然、そのままでは、生きることができない場所なのである。
そういう意味では、
「神聖な場所」
といってもいいのではないだろうか?
そんなことを考えていると、浦島太郎の話も辻褄が合うというものだ。
となると、タイムマシンも、
「宇宙空間」
であったり、
「大海原」
だと考えると、時間旅行というタイムトラベルは、
「相対性理論」
の発想と辻褄が合うのかも知れない。
だとすると、タイムマシンというのは、
「光速の数百倍」
というような、目に見えないスピードで、どこかに行って、元の場所に戻ってくれさえすれば、成立するものではないか?
つまり、千年後に行こうと思えば、千年間、どこかでずっと光速で移動していれば、自分が短い時間内において、
「まるで時間を移動してきたかのように感じる」
ということになるだろう、
ただ、問題とすれば、
「どこまで、どれほどのスピードで飛んでいき、そして正確に戻ってこれるか?」
ということである。
そもそも、飛び出すのはいいが、
「その先に、何があるのか?」
ということは分かっていない。
下手をすれば、宇宙空間にある、例えば、
「土星の環」
であったり、
「アステロイドベルト」
のような、
「星の欠片などが点在しているところだったりすると、どうなるか分からない」
ということである。
宇宙がどうなっているかということを完全に把握していて、それを制御できなければいけない。
もっといえば、光の速度を超えるのだから、今の地球に戻ってくれば、数百年が経っている。
ということであるが、
「では、宇宙の飛び出して、少しでも、光速を越えて飛び出したそこは、若干でも、
「時間の違う世界ではない」
ということになる。
つまり、先の未来をさらに予想しておかなければならないわけで、その予想も、計算上に行き着く時間ではなく、
「タイムパラドックスによって計算された時間でなければいけない」
ということになるのだ。
そんなことを考えていると、
「タイムマシン」
であったり、
「ワープ」
などと言われる、光速移動の装置では、三次元の世界のような、今の時代の宇宙というものだけを計算していてはいけない。
そこで考えられるのが、
「時間の歪み」
とでもいっていいのだろう。
「四次元の世界」
の話なのだ。
そんな時代というものを考えていると、
「夢の世界」
というのも、「もう一つの、別の次元なのかも知れない。
ただ、夢には、
「絶対的な限界」
というものがある。
それは、
「夢を見ている本人が、信じられることでしかありえない」
ということである。
本人が、
「空を飛べない」
ということを、当たり前のこととして意識したならば、
「絶対に、空を飛ぶことはできず、できるとすれば、中二浮くということくらいしかできないものである」
ということになるのであった。
これは、あくまでも、
「夢の世界」
というものも、今までの発想の中にあった、
「相対性理論」
「タイムパラドックス」
「ドリームパラドックス」
または、
「タイムマシン」
というものを、どれか一つでもハッキリと証明できれば、他のものも、理屈として、証明できるのではないかと思う。
それができれば、
「鏡の上下対称」
であったり、
「夢というものの共有」
ということも証明できるのだろうが。
一つ考えることとして、もし、タイムマシンが、相対性理論のようなものだとすれば、そこにあるのは、
「未来にしかいけない」
ということになる。
「光速が、未来への時空の歪みだとすれば、じゃあ、低速にすれば、過去に行けるという発想なのだろうか?」
それはありえないと思う。
例えば、マトリョシカであったり、合わせ鏡のようなものであれば、
「どんなに小さい存在になっても、決してゼロにはならない」
という、
「限りなくゼロに近い存在」
であるが、
「決してゼロにならない」
と考えられるものである。
そのような光速の理論であれば、
「過去と未来の空間は、まるで鳴門の渦潮のようなものであり、どちらに空間が回っているかということで、過去に行けるか、未来に行けるかが決まってくるのではにあか?」
ということも考えられるような気がする。
「普通であれば、考えられないような発想になるということであろうが、一つ、発想を変えることで、不可能であると思える過去への移動というものが、不可能ではないということの証明になるのではないか?」
とも考えられるのだった。
というようなことを考えていると、
「夢も、時系列でしか見ることができないものなのだろうか?」
ということを考えてみたりする。
夢というものには、
「正夢」
であったり、
「予知夢」
と呼ばれる、未来のものを見ることがあるという。
ただ、これも、発想を変えれば、
「起こったことを中心に考えると、もし、似たような感情があったからということで、考えてみた場合、あくまでも、夢に見たかのように思っているが、錯覚なのかも知れない」
とも考えられるのではないだろうか?
それこそ、
「デジャブ現象」
のように、
「今回起こったことが、過去に起こったことであり、以前にも見たことがあったかのように感じる」
ということになるのだ。
それも、原因はハッキリとしていないというが、何やら、錯覚であったり、意識の中の、
「辻褄合わせ」
ではないか?
というようなことを言われていたりする。
だから、
「現象か、意識のどちらに重きを置いて考えるかによって、デジャブであったり、予知夢というようなものであったりと、その感覚に近い形で納得しようとするのではないだろうか?」
ということである。
それらのことを考えてみると、
「ただ、タイムマシンというものが、どんなに開発されたとしても、過去にしかいけない」
というものであったとすれば、
「予知夢や、デジャブ」
というものを、
「説明できる手段がない」
といってもいいだろう。
世の中において、
「時系列」
というものは、
「絶対の法則」
のようなもので、それを違う形で証明しようとしてもできないだろう。
夢にしても、デジャブにしても、時系列を崩して見れるものではないと考えると、
「やはり、違う次元の介入は、必要不可欠なのではないか?」
ということになるであろう。
それが、
「二次元なのか、四次元なのか?」
ということである。
確かに時間という意味での時系列からいけば、
「四次元」
が不可欠だというのはあり得ることだ。
しかし、
「この三次元を中心に考えるのであれば、夢という時系列が一番曖昧なものと結び付けようという考え方をする」
ということであれば、
「鏡の向こうの世界」
という発想で、夢を考えるのであれば、どうしても、相手が平面だという発想になると、そこは、
「二次元の世界の発想だ」
ということになるであろう。
それを考えると、
「二次元の世界の向こうに存在している世界」
そこが、
「夢の共有」
という形で生まれてくるものなのではないだろうかと考えられる。
老人なのか、若者なのか分からない感じだが、白髪に杖だけを見れば、明らかな老人である。
実際にその老人が、立っている足元を見ると、まるでドライアイスを敷き詰めたような煙がもくもくと足元にだけ立ち込めていた、
明らかに、どこかのスタジオのセットだということは分かった気がした。
今までの自分たちが見てきたドラマやコントのスタジオというのは、大体わかっている。学校から、以前、社会見学ということで、どこかの放送局に行ったことがあった。
その時、ちょうど撮影をしているシーンを見たことがあったが、
「ああ、セットって、こんな感じなんだな」
というのを感じたからだ。
「そうだ。あの時も、足元から立ち込めている煙を見た気がするな」
というのだが、
「あの時は、確か、天国か何かのシーンで、想像以上に、こんなにも何もないんだ」
ということでビックリしたものだった。
そんなシーンであったが、実際に、撮影されたシーンを見せてもらったが、
「あれ? こんなにいろいろあったかな?」
と思って、映像をじっと見ていたが、それに気づいた、説明をしてくれた人が、
「どうやら、セットを表から見ているわりに、カメラを通すからいろいろ見えるのが不思議なようだね」
と言われた。
皆が一様に、首を下げると、
「これはね、角度によって見る光景が違うんだよ。みんなも、チョコレートやチューイングガムなどのおまけで、光沢のあるシールが入っていたことがあるだろう? あのシールは、角度によって、見えるものが違ったりしているよね? あれと同じ仕掛けを、撮影所のセットでも使っているんだよ」
と説明をしてくれた。
「ああ、なるほど」
と、皆感心して、頭を下げていたのだった。
ところで、
「よく見てみると、煙が表から見ると、もっと深かったような気がするのに、映像になると、今度は、それほど目立たないではないか?」
と思ったので、やはり同じことを皆思うようで、そのことを質問すると、
「こちらは、簡単なことで、後で映像を編集する時に、煙をわざと消しているようなやり方をするんだよ」
と言われたのだ。
そんな光景を思い出していると。
「あの時に見たことを覚えているから、映像も、少々大げさな感じを受けるような気がするな」
と感じていた。
夢の中で出てきた人物も、
「本当に老人かも知れないが、それ以上に、盛っているような気がするな」
と感じた。
夢の中で、その老人が口を開いた。かなり音がこもっているようで、いかにも、
「スタジオの中ではないか?」
というような感じで、
「少年」
というのだ。
名前を知らないのだろう。
「バレてはいけないものを持っている」
というのだ。
「バレてはいけないものって何なのですか?」
と聞くと、
「それは今は言えないが、もしそれがバレてしまうと、お前には、究極の選択が待っていることになる」
というではないか。
「究極の選択?」
言葉は知っているが、意味は正直分からない。
「そうだ、究極の選択が待っていることになるのだ。だから、心しておけなければならない」
といって老人は消えた。
「まったく何を言っているのか分からない」
まさに、その通りだった。
そんなことを考えていると、
「小学生の自分に、そんな難しいことを言っても分からない」
と思うのだった。
そして、可憐はその時、自分が夢を見ているのを初めて感じた気がしたのだ。夢を見ているという感覚は、確かにあるのだが、次第に、
「私って、本当に小学生だったのかしら?」
という感情だったのだ。
小学生の頃の記憶が結構あって、
「夢を見るなら、小学生の時の夢」
という感覚を思い出していた。
すると、今度は夢の中で、それまで老人と二人だけだったという意識だったにも関わらず、どんどん、友達が夢の中に現れてくるような気がした。
気軽に声を掛けてくれて、それに対して返事を返している。
その友達は皆学生服を着ている。学生服しかイメージが湧いてこないのだ。
それを見ると、
「やはり自分が小学生ではない」
ということが分かってくる。
「そんな中で、見覚えのない学生服を着た女の子がいた」
と感じた。
その子は、友達から、
「可憐」
と呼ばれている。
「えっ? 私なの?」
と思うと、
「じゃあ、主人公である私はどこに行ったのかしら?」
と思ってまわりと見ていると、さっきまで見えていたはずの小学生の可憐はどこに行ってしまったのか、分からなくなっているのだった。
その瞬間、
「タイムパラドックス」
だと感じた。
小学生の頃まではまったく知らなかった言葉だった。
意味を知らないというのは無理もないことだが、言葉も聞いたことがなかったように思える。
なぜなら、
「タイムパラドックス」
という言葉を聞いて感動したのは、中学時代に図書館に置いてあったSFマンガを見たからだった。
小学生の頃によく見たアニメでも、そういえば言っていたような気がするのだが、その言葉を聞いた時、
「アニメでは、意味も分からずに、スルーしていたかも知れない。だから、聴いたはずなのに、聴いたかどうかという記憶がなかったのだろう」
と思ったのだった。
「自分が本当に小学生なのだろうか?」
と思ったのは、老人から、
「お前は人にバレてはいけないものを持っている」
と言われた時のことだった。
「我に返った」
というべきであろうか。
小学生の時と、中学に入ってからは明らかに違う。たぶん思春期と呼ばれる時期は、小学生時代から中学時代にかけてと、その時期をまたいでいたように思う。
卒業に、入学という、慌ただしい感覚になった時、自分が中学生になったということだけは、理解していたはずだった。
だが、夢の中では、
「それが夢だったのではないか?」
と思うことで、中学生になったわけではないという、不可思議な感覚になってしまったということを自覚していたのだろう。
夢の中では、時系列が意識できなくなると、
「中学生になってからというものよりも、小学生の頃の夢の方をよく見るようになった」
といえる。
つまり、
「夢というのは、今のことを見るよりも、数年前の夢を多く見るように、頭の中ができているのではないか?」
と感じるようになった。
それは、あくまでも自分だけのことなのか、それとも、他の人も同じことなのか分からなかったが、その答えをくれるのは、やはり、
「夢の共有」
というものがなされているのかどうか、それが気になるところだったのだ。
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